7 はらぺこ・いぬ


 朝、二人分のごはんを用意していると、リビング――といっても1Kだが――の方から、舌足らずな歌声が聞こえてくる。

「わんわんわわーん」


 「いぬのおまわりさん」だろう。

 きっと、教育テレビを見ているのだ。


 そのあどけない声で、わんわん歌っているのはなんだか微笑ましい。

 そう思いながら、俺はフライパンの上のベーコンをひっくり返した。




 * *




 散歩中に寄ったスーパー。

 わうわうな女の子は、じっと24色の色鉛筆を見つめている。


「ん? 欲しいのか?」

「…………」

 そういうわけでもないらしい。


「先輩、これは何に使うんですか?」

「ああ、お絵かきに使うんだよ。色とりどりの線が引けるから」


 瀬名の視線は、まだ色鉛筆に向いていた。もしかして、絵を描いてみたいのだろうか。

 色鉛筆、実家にはあったはずだけど、手元にはないなぁ……。


「気になるなら、買おうか?」

 そんな高いものじゃないし。

 瀬名はこくりとうなずいた。




 * *




 スーパーに行った後は、近所のケーキ屋に寄る。


 どうやらこの女の子は甘いものが好きらしい。

 ということで連れてきたのだが……。


「わう……!」

 ショーケースに並んだ色とりどりのケーキの数々を、きらきらした瞳で見つめている瀬名。ほっぺをガラスにくっつけそうな勢いだ。


 今はしっぽを引っ込めてこそいるが、もし引っ込めていなかったら、さぞやぶんぶん振っていたことだろう。


 ガラス越しのショートケーキにチョコケーキ、フルーツタルト、ロールケーキ、シュークリーム。

 季節の果物に彩られたデザートは、ひとつひとつ繊細に丁寧に作られている。


「とっても輝いてます!」

 一際彼女の目を惹きつけているのは、ホールケーキのようだった。


 ホールケーキには、特有の魔力がある。ケーキをピースで買うことでは得られない魅力だ。


「瀬名、この大きいケーキを買おうか?」

「大きいけーき! ほしいです!」


「あはは、どれがいい?」

「ちょこ! 瀬名、ちょこがいいです!」

 あどけなくケーキに飛びついている女の子に、店員は微笑ましそうにしている。


「それじゃ、小さいのを買って何日かに分けて食べようか」

「わう! ありがとうございます」




 * *




 冷蔵庫の真ん中に、4号のケーキが入った箱が鎮座している。既に四等分にカットしてあるが、下手に皿に移して形が崩れてもよろしくないので、箱に入れたままだ。


 今日俺は、午後から大学の講義があった。だから、瀬名には留守番してもらわないといけない。


「おやつにケーキ食べてもいいけど、一日一個っていう約束だからな」

「わう」


 瀬名は食いしんぼうだ。

 いぬだった頃も、ほねまんまが大好きで、いくらでも食べたがった。


 俺もついつい甘くなってしまい、おねだりされるとえさをあげたりしてしまった。

 結果、ころころとしたいぬは、ちょっとまるまるぷにぷにとしたいぬになってしまった。


 いぬは多少丸くてもかわいいが、健康に悪い。瀬名が病気になったりしたら大変だ。ということで、おやつ禁と日々の運動で、どうにかころころとしたいぬに戻したのだった。


 人間の姿になっても、節度ある食生活を心がけないとな……。




 * *




 大学から家に帰ると、瀬名はいつものようにとたとたと出迎えてくれる。


「ただいま」

「わう……おかえりなさい」

 だが、様子がどこかおかしい。目が泳いでいる。


「瀬名、どうかしたか?」

「ど、どうもしないです……」


 なんだ?

 嫌な予感がして、俺は冷蔵庫を開ける。


 相変わらず、真ん中にケーキの箱があった。しかし、箱を開けてみると――


「ん?」

 中身が、空っぽになっている。あるのは、ケーキが存在していた痕跡だけだ。冷蔵庫のどこにも、もちろん部屋の中にもない。


「わ、わう……」

 少し離れた場所で、瀬名は気まずそうにしている。


 ケーキがあるとしたら。

 この女の子のおなかの中だ。


「ぜ、全部食べたのか?!」

 ホールのケーキを!?


「せ――瀬名じゃないです」

「うそつけ! じゃあ誰が食べたんだ!?」


「ひとりでに消えたんです……」

 そんなファンタジーな。


 俺は、瀬名のおなかをつまむ。

「なんだこのおなかは! こんなにぷにぷにしてるじゃないか!」


「ひゃっ、さわっちゃダメですっ」

「このぷにぷには、ホールケーキを丸ごと食べたぷにぷにだろ!」

「きゃうーん!」




 * *




 ぷにぷにのおなかという致命的なエビデンスによって、ホールケーキ完食という所業は暴かれた。


 さすがに瀬名も、言い逃れできないらしい。ようやく罪を認める。まぁ、おなかのぷにぷには一朝一夕でできるものじゃないが。


「ケーキは一日一個の約束だろ?」

「わう……おなかがすいてたんです」

 ケーキでおなかを満たそうとするな……それも、ホール一個丸々。


「瀬名、約束は守らないとダメだぞ。最悪、甘いもの禁止になるんだから」

「わう!? そんなの横暴です!」

 しっぽが、抗議の意思を示してぶんぶん振られる。


「瀬名、約束を守るつもりでした。でも、けーきが甘くてふわふわだから、気づいたら全部食べちゃってたんです。瀬名は悪くないです。けーきが悪いんです」


「な……っ!」

 なんて減らず口だ。あまつさえ、無辜のケーキに罪を着せようとするとは。


「約束を破ってケーキを全部食べたどころか、嘘に責任転嫁……どれだけ悪い子なんだ! おしりぺんぺんだ!」

「きゃうーん!」




 * *




「わう……ぺんぺんいやです」

 さしもの瀬名も、ぺんぺんは応えたらしい。


「じゃあ、これからは約束破っちゃだめだぞ。先輩は意地悪で甘いものを制限してるんじゃなくて、瀬名が甘いものをいっぱい食べてぷにぷにになったら、健康に悪いから言ってるんだ」


「はい……」

 おとなしくうなずく瀬名。


「瀬名、悪い子になっちゃいましたか?」

 涙目で訊いてくる。


「間違えるのは誰にでもあることなんだ。大事なのは、同じ間違いを繰り返さないことなんだよ」

「わう……」


 たれた耳を一段としょぼんとさせて、彼女は言う。

「瀬名、いい子にしてます」


 にしても……嘘を吐く生きものは人間だけだ、というのはよく聞く話だ。瀬名も人間らしくなってきたのかもしれない。あんまり世間ずれして悪い子になられても困るが。

 折角とってもいい子なんだから、このまま大人になってほしい。




 * *




 しばらくは落ち込んだ様子の瀬名だったが、夕食を摂ったらだんだん元気を取り戻してきた。ケーキを丸ごと食べた後で、よくあんなにおなかに入るものだと思うが。


「先輩、絵って何を描けばいいですか?」

 今日買ったばかりの色鉛筆を持って、瀬名は尋ねてくる。


「好きなものを描けばいいんじゃないか?」

「わかりました」


 少女は、恐る恐る白いコピー用紙に線を引いていく。様子が気になるところだったが、横でじっと見られていたら描きにくいだろう。

 俺は、課題の小レポートに集中することにした。


 千五百字という規定の文字数を超えたところで、俺はタイプしていた指を一旦止める。


 ふと、瀬名が気になった。

 ちらっと紙面を見てみると、そこにはカラフルな色彩でケーキやらチョコレートやら甘いものが描かれている。それらの中央には、俺と思われる男が白い子犬を抱っこしていた。


「瀬名! すっごく上手いじゃないか!」

 何しろ、描いてある男が俺だとわかるくらい特徴をとらえている。繊細かつ幻想的な色遣いで、色鉛筆を使いこなしている。


 少し前まで、肉球ぷにぷにの手だったとは思えない。


「瀬名は天才だなぁ。将来は画家かイラストレーターだな」

 頭を撫でると、うれしそうにしっぽをぱたぱたさせる。


「人間の世界は色鮮やかです」

 そうか、瀬名は今までいぬだったから、見える色の数が人間よりずっと少なかったんだ。


 完成した絵を、丁寧にリフィルファイルにしまう。瀬名が初めて描いた絵なんだから、大事にとっておかないとな。

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