2 せなの耳はいぬの耳
心地よい夢を見ていると、腹部への強い衝撃で目を覚ます。
「う、うぐ……っ」
うめきながら寝ぼけ眼を擦ると、俺の上にかわいい女の子が乗っかっていた。
カーテンの隙間から、朝日が差し込んでいる。どうやら、もう朝になったらしい。とはいえ、随分手荒な起こし方だった。
「先輩、おはようございます」
いぬ耳が生えた少女は、大きくて丸い瞳をじっとこちらに向けている。
「瀬名、おなかがすきました」
「お、おはよう……」
そうか……瀬名が人間の女の子になったんだった。
中身はほとんどいぬのままだが。
現実の方がよほど夢じみている、と思った。
昨日は結局なかなか寝付けなかった。そりゃ、こんな女の子にくっつかれていたら、心を落ち着かせられるはずがない。
「ふわああ……ちょっと朝の支度をするから、待っててくれるか?」
「わう」
うなずいている。
食パンをトースターに放り込んで、洗面所に行く。
眠気覚ましも兼ねて歯を磨いていると、瀬名が寄ってくる。
じーっと見られているとやりづらいんだが……。
「瀬名、どうしたんだ?」
「先輩、何をしてるんですか?」
「ああ、歯磨きだよ」
「はみがき?」
「いぬだった頃も、俺がときどき瀬名の歯を磨いてただろ? 人間は虫歯になりやすいけど、虫歯になると痛いから、毎日ちゃんと歯磨きして予防しないとだめなんだ」
「わう……」
瀬名は難しそうな顔をしている。よくわからないらしい。
「実際やってみないとわかりづらいよな。俺がちょっとやってみるから。瀬名、口開けて」
「わう」
目の前の女の子は、言われた通りに口をあーんと開ける。俺は、少し濡らした新品の歯ブラシを、その中に入れる。
瀬名の歯は白くてとても綺麗だった。それに歯ブラシを這わせて、軽く磨く。……心なしか犬歯が尖ってる気がするな。
「こうやって歯ブラシを倒して、奥歯も歯の裏もしっかり磨くんだぞ。歯茎との境目も、忘れずにな」
瀬名はこっくりこっくりうなずいている。いい子だ。
「ほら、瀬名も自分でやってみて」
「わかりました」
瀬名は歯ブラシを持って、ごしゅごしゅ磨き始める。やっぱり飲み込みがいい。
* *
瀬名にごはんを食べさせて少ししたら、手をつないで散歩に出かける。彼女は、当然のようにいぬ耳としっぽを引っ込めていた。
どうせだし、ついでに買い物に行くか。
いつもの散歩コースを少し外れて、近所のスーパーに向かう。
しかし、瀬名はスーパーの入り口の前で立ち止まった。
「ん? どうしたんだ?」
「瀬名は、お店に入っちゃダメです」
ああ、いぬだったときはそんなふうに言ってたっけ。瀬名を店先につないでおくのも心配だし、散歩中は買い物しないようにしてたけど。
「大丈夫だよ。今の瀬名は人間なんだから。ほら、行こう」
「わう」
手を引くと、彼女は大人しくついてきた。
平日の午前中だから、店内は客がまばらだった。
瀬名は、興味津々そうにきょろきょろしている。
「色んなものがあります」
「お店のものは売り物だから、あんまりいじっちゃダメだぞ」
「わかりました」
何か欲しいものがあるなら何個か持ってきていいよ、と言おうとしたが、そもそも初めてスーパーに入った女の子が、自分は何が欲しいかわかるものだろうか。
とりあえず一緒に商品を見ていこう。
スーパー内を一通り回っていくと、瀬名が突然足を止める。ペット用品売場だ。
「わう……! どれもおいしそうです」
ドッグフードが置いている一角に、釘付けになっている。
「瀬名、味覚も人間になってるんじゃないか? だったら、いぬの食べ物はおいしいと感じなくなってるかもしれない」
「わう? 瀬名、よくわからないです」
「帰ったら確かめてみようか」
「はい」
彼女は、首肯した。
瀬名のための日用品と、数日分の食料をかごに入れていく。
うーん、このわうわうな女の子が好きな食べものはなんだろう。
いぬだった頃はほねまんまが大好物だったが……ささみでも買ってみるか。
横にいる少女の様子を窺ってみるが、「これが人間がいつも食べているものか」といった顔で商品を眺めている。
ひとまずは、色々なものを食べさせてみよう。
瀬名は、「パンの耳」と書かれた商品に目を留める。
「ぱんにも耳があるんですか?」
「ああ、食パンの縁のところを耳って言うんだよ。サンドイッチとかを作るときは、真ん中の白くてふわふわなところしか使わないから、耳は余るんだ。だから余ったのをこうして売ってるんだよ」
「なるほど」
俺はパンの耳の袋をカゴに入れる。
瀬名が興味を持った食べものだし、折角だからな。
ひとまず今買うものはこれで充分かと、レジに向かう。
「お預かりいたします」
店員が、商品のバーコードを読み取っていく。
「わう……」
ささっと俺の後ろに隠れる。元々人見知りないぬだったが、人間になっても同じらしい。
会計を終え、俺は買い物袋を両手に提げる。結構買い込んだため、量が多くなってしまった。
「瀬名も、それ持ちます」
「え? ああ、瀬名はいい子だな。でも、これくらい大丈夫だよ」
「…………」
瀬名は、俺が手に持った袋をじっと見つめている。
その顔には何も浮かんでおらず、思考があまり読み取れなかった。
少しの間の後、彼女は口を開く。
「先輩と手をつなぎたいです」
ああ、そういうことか。
軽い方の袋を瀬名に渡し、空いた手をつなぐ。
「わうー」
どこかうれしそうにしている。
* *
フライパンの上のパンの耳を、フライ返しでひっくり返す。
砂糖とバターを加えて焼き、ラスク風にする。いい感じにこんがりできた。
完成したラスク風パンの耳を、早速おやつとして出す。
「ぱんの耳おいしいです」
「まだまだあるから、明日のおやつの分もあるよ」
「わう!」
試しに、家にあったドッグフードも食べさせてみる。
「わう……おいしくないです」
やっぱり味覚は完全に人間になっているらしい。
瀬名はほねまんまもかじってみるが、やはり口に合わなかったようだ。
「ほねまんまが……おいしくないなんて……」
いつも楽しそうに食べていたのに、今はいぬ耳がしょぼんとしている。
「人間といぬは違うから、仕方がないよ」
「わう……」
ほねまんまがおいしくなくなった代わりに、パンの耳がおいしく感じられるのだから。
瀬名は、落ち込んでいたかと思うと、いきなり俺のひざの上に乗ってくる。
「う、うわっ」
「先輩、抱っこしてほしいです」
「え!?」
頭なでなでくらいならまだしも、抱っこなんて……。
昨夜あったこととか、色々なことが頭をよぎる。
確かに瀬名は抱っこが大好きないぬだったが、どうしても恋愛対象として意識してしまう。
「ちょ、ちょっと待ってくれ……」
「どうしてですか?」
「こ、心の準備が……」
「なんで抱っこに準備が要るんですか? 先輩、いつも抱っこしてくれます」
「そ、それは……」
「わう」
不満げにする瀬名。
「先輩、瀬名が人間になってからヘンです。瀬名がくっつくと挙動不審になります」
挙動不審……そんなふうに思われていたのか。
「先輩、いつも瀬名のことかわいいって褒めてくれたのに、人間になってから全然かわいいかわいいしてくれません。瀬名、かわいくなくなったんですか?」
「え……あ、えっと、瀬名はかわいいよ」
「そんなとってつけたような言葉、要りません」
わうわうな女の子は、ぷくーとむくれる。
かわいいいぬのことはいくらでも「かわいい」と言えるが、かわいい女の子に向かって「かわいい」というのは、なんか照れくさいというか……。
「人間になってから不便なことだらけです。なんだか人間は想像していたのと違います」
瀬名はこちらにしっぽを向けると、ふてくされる。
すっかり拗ねてしまった。
「瀬名、人間にならない方がよかったかもしれないです」
人間にならない方がよかった、か……。
それは、言わせてはならない言葉である気がした。
前と同じ態度が取れない俺が不甲斐ないのだ。
とはいえ、やはりいぬと人間とでは接し方も変わってきてしまう。
うーん、どうすればいいのだろう。
瀬名を悲しませたくない。
俺は、思い切って瀬名を抱きしめた。
「わ、わうっ」
彼女のしっぽが、ぴーんと反応する。
「ごめんな、瀬名。態度がよそよそしくなっちゃって。人間になったら、全部今までと同じっていうわけにはいかないんだよ」
「わう……」
目の前の少女が顔を伏せると、一直線に切り揃えられた前髪が、瞳を、顔を覆い隠してしまう。
「人間って難しいです。瀬名、先輩と一緒になりたくて人間になりました。でも、一緒になれない気がします」
マルチーズの白い耳が、視界に入った。
「瀬名の耳は、先輩の耳とは違います」
瀬名には人間の耳もついているが、ここでいう耳は、それではないのだろう。
「瀬名の耳は白くてもふもふでかわいいよ」
軽く撫でると、たれ耳はぴくりと動いた。
「わう」
「瀬名は、確かに人間とは違うよ。でも、俺は瀬名が瀬名だから好きなんだ。今はその……戸惑っちゃうことも多いかもしれないけど。それは慣れてないだけだ。瀬名が大事だって気持ちは何も変わってないよ」
「わう……本当ですか?」
「ああ。これから、人間になってよかったって思ってもらえるように、頑張るよ。人間って、結構楽しいことがあるんだ。これから、色んなことをやっていこう」
「わう。瀬名、先輩が飼い主でよかったです」
彼女は、やっとやわらかい表情を見せてくれる。
「先輩の耳は丸いし、瀬名の耳はもふもふです。ぱんの耳はおいしいです」
「ああ、そうだな」
よくわからないが何かを学んだらしい。
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