第31話 回復(リハビリ)30 マッスル

「ああ、肩がこる」


 薬子やくこは自分の体力のなさに、あきれ果てていた。なんとか軽いウォーキングは三十分程度継続できるようになったが、相変わらずお腹や二の腕はぷよぷよしている。それに、パソコンを使っていると、寝違えたような痛みが時々背中に走るようになった。


「うぃっ、痛……」


 振り返ろうとして、薬子は痛みに顔をしかめた。机に常備しているエアータイプの消炎剤に手を伸ばし、適当に背中に吹き付ける。まともに当たっている感覚がないが、今はとにかくこれしかできないのだ。


 それでも、背中の筋肉が悲鳴をあげているのを無視することはできなかった。


「やっぱり、同じような姿勢ばっかりなのが良くないんだろうなあ……」


 筋トレがいいと聞いて、色々動画も探してみた。しかしどれもこれも薬子には難しすぎて、動画の最後にたどりつく前にへたばってしまう。三日坊主にすらなれない根性のなさに、薬子は頭を抱えてしまった。


「初心者向けって書いてあっても、けっこう難しいんだよね……」


 自分がヘタレなのが悪い。それはよくよく分かっていた。走り込みの量を増やすしかないか、とほぼ諦めていたのだが──ある日何気なくつけていたテレビから、情報は飛び込んできた。


「では、話題の筋肉芸人、マッスル佐藤さんのインタビュー後編をお送りします」


 背中を向けていた薬子は、テレビの方を振り返った。元気のいい男性の笑い声が、画面から聞こえてきている。


「ああ、たしか……」


 昔から筋肉ネタやトレーニングネタを得意にしていた芸人だ。一旦はテレビから姿を消していたが、最近アメリカのボディビル大会で優勝したとかで、また話題になっている。今は、何をしているのだろう。


「では、今の主な活動ですが。講演会と、後は動画サイトでの配信が主とお聞きしました」


 薬子は画面を見返す。よく引き締まった体つきのタレントは、白い歯を見せながらこう言っていた。


「はい、ありがたいことにたくさんの方が登録してくださっているので、活動費はそちらでまかなえています。まだの方は、是非マッスルチャンネルへの登録、よろしくお願いします!」


 少しひっかかるものを感じた薬子は、試しにパソコンで「マッスルチャンネル」を検索してみた。すると、登録者百二万人という、驚異的な数字が出る。


 万人に訴えるものがなければ、百万の大台は超えない。これまでの経験でそれを知っていた薬子は、そのチャンネルの動画を詳しく見てみた。


「筋トレするならこの食生活!」

「ダイエットに一番NGな食材はなにか、分かりますか?」

「僕のトレーニングメニューを公開します!」


 確かに、ぱっとタイトルを見るだけで興味をひかれるものが多い。筋トレだけでなくダイエットにも言及しているから、余計に登録者が多いのだろう。動画のトップ画面だけでも毎回レイアウトが違っており、手がかかっているのが分かった。


「結構、初心者向けの動画もあるんだ……」


 しかしそんなことを言われても、またがっかりさせられるだけだろう。今更騙されないぞ、と薬子は胸の中で警戒した。


「宇宙一簡単な筋トレ! これなら誰にでもできます!!」


 無駄に勢いの良いタイトル。それに引かれて、薬子はついクリックしてしまった。軽快なBGMとともに、動画が始まる。


「筋トレと言えば、スクワット! これぞ王道ですよね~」

「……知ってるよ」


 薬子だって、足の大きな筋肉を鍛えるのが効果的なことくらい覚えた。しかし、動画のスクワットはどれもこれもきつくて、薬子程度の筋力では全く話にならない。どうせこれもそうだろう。


「でも、意外に正しくやるのは大変なんですよ、これ。間違った姿勢でやると、かえって腰を痛めちゃったりもしますから、リスキー!」


 マッスル佐藤がそう言って、腰を曲げる姿勢から直立に戻った。


「僕が初心者の方におすすめするのはこれ一択! 膝をちょっと曲げるだけの、宇宙一簡単なスクワットです!!」


 身構えていた薬子はあっけにとられた。確かにマッスル佐藤は、膝を軽く曲げているだけにしか見えない。


「これだけでも、続けていると効果が出てくるんですよ! 成功のコメントをたくさんいただいていますので、コメント欄を見てみてください!」


 薬子は半信半疑だったが、確かに「長時間楽に歩けるようになりました!」とか、「スカートのサイズが落ちました!」といったコメントが見られる。しかも、一件や二件ではない。


「宇宙一簡単な筋トレをまとめた動画シリーズも、概要欄にのせておきます! 僕と一緒に簡単に筋肉をつけましょう!」


 薬子はその動画をクリックしてみた。時間はわずか十分ほど。これなら毎日続けても、そんなに負担にはならない。


 吉と出るか凶と出るか、一度やってみよう。少なくとも、そう思わせるだけの魅力がマッスル佐藤の動画にはあった。


 翌朝、薬子は動きやすい服に着替えてから、スマホの画面を開いた。


 オープニングが終わると、急にマッスル佐藤が画面中央に駆け出してきた。急いで薬子はスマホを台の上に置き、画面に見入った。


「さあ、一緒に宇宙一簡単な筋トレ、やっていきましょう!」


 最初はこの前に見たスクワットから。薬子はそれからしばらく、画面の指示に従うのに必死になった。


「──最後に深呼吸! 皆さんお疲れ様でした!」


 薬子はなんとか、最後までやり通すことができた。振り回していた腕をゆっくりと下ろし、指示通りゆっくり呼吸をする。


 予想していたよりは遥かに楽なメニューだった。看板に偽りはない。


「……でも、ちゃんと疲れてる」


 薬子はうっすら汗をかいていた。息も少しあがっている。初心者向けだが、きちんと注意すべきポイントはあって、それをマッスル佐藤が教えてくれる。その通りにしたのが良かったのだろう。


「背中……どうかな」


 薬子は伸び上がった。ゆっくり動いたせいもあるだろうが、とりあえず痛みは出ない。


「治るといいなあ」


 明るくなっていく外を見ながら、薬子は小さくつぶやいた。

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