灯理の痛み⑤

「麻浦先輩に何か弱みを握られた……、てことか?」

「まぁ、弱みっていうかさ……。を塞がれそうになった、て感じ?」


 怒り、とも違う。

 そう話す灯火の瞳には、どこかやり切れなさのようなものを感じた。


 その後の彼女の話によると、『脅された』と言う背景にはどうやら須磨先輩が毛嫌いする、彼女のにあるらしい。


 風霞も話していた通り、彼女の父親は都心に弁護士事務所を構える、名実ともに勝ち組だ。

 対して、元の父親は鳶職ということもあり、どうしても安定性には不安があった。

 実際これまでに、怪我が原因で休職を余儀なくされたことが何度かある。

 灯理自身も、子供ながらにそれはよく理解していた。


 特段、今より贅沢をしたい、といった欲求はなかった。

 ましてや、職業差別などするはずもなければ、頭に過ぎったことすらない。

 しかし、そうでなくとも先行きを見通せない、このご時世だ。

 だからこそ、背に腹は代えられぬと思い、母親に付く道を選んだのだと言う。


 もちろん、問題も多かった。

 元々、不倫の末に結ばれた関係だ。

 灯理でなくとも、そこから円満な関係を築くことは容易ではない。

 当初は気を遣っていた父親も、派手な見た目に反して、どこか大人びていて、リアリスティックに物事を考える彼女のことを、次第に疎んじるようになっていった。


 そして、家族関係の破綻を決定付ける、大きな事件が起こる。

 その日、灯理は体調不良で学校を早退していた。

 帰宅後、病院へ行く準備を整えていたところ、誰もいないはずの父親たちの寝室から漏れ伝う、に気付く。

 灯理自身、この時点で嫌な予感はしていたようだ。

 彼女は、恐る恐る部屋のドアを開けると、の父親と鉢合わせしてしまう。

 それだけなら、まだ良かった。

 その横に陣取る、見知らぬ女性を見るまでは。


 あまりの光景に一瞬思考が停止した灯理だったが、すぐに冷静になり、証拠の写真を撮影。

 呆ける父親と女性を相手に、灯理は淡々と行動を進めていく。

 とは言え、そのまま灯理のペース、とはならなかった。


 淡々と自分を不利に追いやろうとする灯理に父親は逆上し、ついには使に打って出る。

 父親が、力一杯灯理の左頬を叩くと、彼女は勢いよく後方に倒されてしまう。

 その瞬間、灯理も一気に怯んでしまった、と言う。


 そこからは一方的な展開だった。

 父親としても、彼女を中学生と侮っていたのだろう。

 力をちらつかせ、灯理が撮った一連の証拠写真を消去させた上で、宣言させる。

 自分は何も見なかった、と。

 父親の暴力に戦意を喪失した灯理は、とうとう同意してしまう。

 この一件以来、時折母親の目を盗んでは口封じとばかりの暴力を振るわれることがある、らしい……。


「ホントはあの時、すぐに警察に行くべきだった。でもさ。アイツからが飛んで来た時にさ。怖くなった……ううん。違うな。何か馬鹿馬鹿しくなっちゃったんだよね、色々と。ホント、何から何までグダグダってーの? 自分で話してて、気分悪いわ!」


「私、灯理がそんな目に遭ってたなんて聞いてないよ……」


 灯理の話に、風霞は打ち震えながら言う。

 ある意味で、彼女の父親は正しい。

 所詮、相手は中学生であり、腐っても身内だ。

 圧倒的な恐怖で、容易に支配できると踏むのは、自然と言えば自然なのかもしれない。

 実際、彼女はこうして膝を屈してしまった。


「言ってないからね。アイツ、弁護士じゃん? だからさ。そういうの、やるんだよ……」


 確かに灯理の言う通り、弁護士という職業柄、自分が槍玉に挙げられないよう、立ち回ることなど造作ないのかもしれない。

 しかし、話を聞いている限り、些か雑だ。

 もちろん、灯理を侮っているのは間違いないのだろうが、それにしても少し情動的過ぎると感じてしまう。

 こんなやり方をしていては、僕たちが踏み込むまでもなく、いずれ問題は露呈するだろう。


「そんでさ……。アイツの言う通りにしてたんだけどさ。先月、協議離婚ってーの? 結局、別れるんだって……。笑っちゃうよねっ! 不倫とか、全然関係ないじゃんって話!」


「へ!? そうなのっ!?」


 灯理の思わぬ話に、風霞は身を乗り出す。

 僕自身も風霞まではいかずとも、思わず可笑しな声をあげそうになってしまった。


「うん。言ってないからね……。今、あたしがわざわざ言うような話じゃないって、風霞も分かるっしょ?」


「っ!? そ、そっか。ごめん……」


「風霞は悪くないよ。全部あたしのエゴ。ううん……。そんな立派なモンじゃない。フツーに言いたくなかっただけ。アホらしいっつーか、惨めっつーか、さ。結局、あたしって何だったんだろって感じでね……」


 僕も風霞も何も言えなかった。

 そんな僕たちを尻目に、灯理は更に続ける。


「……まぁ、そんで親権もアイツが持つことになってさ」


「えっ!? そ、そんな……」


「まぁ、口止めだろうね。慰謝料云々の話したら、ウチの母親あっさり手ェ引いちゃってさ。晴れてワタクシ、来月からと二人暮しであります! なんつって……」


 自暴自棄な笑みでそう話す灯理を見て、風霞は一層その表情を曇らせる。


「風霞の兄貴。この前は、ホントにごめん。ほら! やっぱり自分が今こんな感じじゃん? もし風霞が同じ目に遭ってるって思ったら、気が気じゃなくてさ……。てか冷静に考えて、疑ってかかるとか、失礼にも程があるっしょ!」


 灯理は僕に向き直り、謝罪してくる。

 空元気とも取れる灯理の痛ましい態度を前に、僕は掛けるべき言葉を見失ってしまう。


 僕が灯理のことを責められようか。

 そもそも疑われたのは、彼女が『いきなり』と言ったその時だけだ。

 むしろ彼女はその後、で信じてくれたのだ。

 この、見ず知らずの僕を。

 それだけでも、彼女に感謝するべきなのだろう。

 

「……今更僕のことなんてどうでもいいだろ。それより、続きを聞かせて欲しい。流石にそこで終わりってわけじゃないんだろ?」


 灯理はコクリと頷く。

 こうなってしまったからには、もう元には戻れない。

 一度生じたそのは少しずつ広がっていき、心を蝕んでいく。

 僕でさえそうなのだ。

 いわんや、彼女がそれを実感していないはずがない。


「元はと言えば、あたしが自分で選んだんだしさ。ただのワガママだってことは分かってる。でも、もうあの人とはやっていけないって思ったんよ。けど……、だからって今更に頼れないじゃん? ただでさえ、後ろ足で砂かけるような真似しちゃったわけだし……」


 そう後ろめたそうに話す灯理に対して、僕には少なからず感ずるところがある。

 確かに、灯理自身が選んだ道だ。

 ただ、こう言ってはなんだがそれもの巡り合わせ、と言う気はする。

 別に憎くて、本当の父親と離れたわけではないのだろう。

 外野に居る僕が好き勝手言うならば、彼女の選択はむしろ現実的で地に足が付いたものだ。

 と言っても、本人がそう感じていないのだから、仕方ない。

 だから僕は他人として、無責任で客観的などうでもいい感想を投げかけてやることくらいしかできない。


「……別に、そこまでのことでもないだろ」


、だよ。だって、普通に考えてアッチは被害者だよ? なのに、加害者側に付くなんて、端から見りゃそう映るに決まってるし……」


 灯理は口惜しそうに溢すと、その後の経緯を話し始めた。

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