第5話 帰郷

 私は小さな骨壺の蓋を開けた。この美しい高千穂に母を帰すのだ。

 ふと気が付けば、カバンの端から母の遺影が覗いていた。穏やかな笑顔の母が私を見つめている。私は写真立てに入った遺影を取り出した。母と高千穂の風景を一緒に見ようと思ったのだ。


 不意に、写真立てのガラスケースが外れ、写真がボートの船底に落ちた。

 慌てて拾い上げようとしたところ、写真が二枚重なっていたことに気が付いた。一枚は母の遺影、もう一枚は色褪せたフィルム現像写真だ。


 それは、若い頃の母と、父だった。

 

 山登りスタイルで元気な笑顔を浮かべる母、その母の肩を抱く若き父。父の顔は少し照れくさそうだが、嬉しさが滲んでいた。背景には高千穂の滝。この写真は、ここで撮影されたものだ。

 なんて幸せそうな写真なのだろう。


 私は知らず、滂沱の涙を零していた。父から母を奪うことは、恐ろしく残酷な復讐をなし得ることになる。

 しかし、それは本当に正しいことなのだろうか。母はここに一人眠ることを望んでいるのだろうか。

 この写真を重ねた父の想いは、一体何だろうか。

 尾道で乗り合わせた老夫婦の姿が脳裏を過ぎる。


 ごうごうと流れる滝の音が耳に蘇ってきた。

 ボートの下には碧く冷たい水が広がっている。私は旅行カバンのチャックを締め、再びボートをこぎ始めた。


 また一日かけて尾道の実家に帰ると、父は身動きもせずまるで石のように仏壇の前で背中を丸めていた。


「さとみ、母さんの遺骨を知らないか」

 私の顔を見るなり、父は驚くほど情けない声で縋り付いてきた。

 母の遺骨を持ち出したことを知れば、父は激昂するかもしれない。また殴られる、その恐怖と緊張に、私は口の中がからからに乾いているのが分かった。


 しかし、私は伝えなければならない。なぜ、こんなことをしようと思ったのかを。


 私は父の問いに答えぬまま母の骨壺と遺影を仏壇に戻した。

 父はそれを信じられないという顔で眺めている。遺影は、父と母が高千穂峡に立つ写真を表にした。父は困惑した顔で私をじっと見つめている。

「高千穂へ行ってきた」

 その地名を聞いて、父は遺影を手に取る。セピア色の写真を見つめる瞳には涙がにじんでいる。


 私は静かに父への恨みを吐き出した。そして、何のために高千穂へ行ったのかを正直に話した。父からは拳が飛んでくることは無かった。


「母さんを高千穂へ連れていってくれたんだな。すまん、ありがとう」

 父は呟くようにぼそりとそう言って、頭を垂れた。父の血管の浮き出たしわくちゃの手に一つ涙がこぼれ落ちたのを見た。


 その後、実家に寄る機会が多かった弟から話を聞いた。

 認知症を患ってからの母は薬のせいで暴力性が出現、大声を張り上げたり殴りかかられたりと大変だった。

 父はそんな母にも甲斐甲斐しく世話をしていたという。 

 

 弟は、一番大変なときに実家に寄りつかなかった姉の私に不平を漏らしたが、父は遠くで頑張っているのだから心配させるな、と言ったそうだ。

 私は知らなかった、母の介護がそこまで大変だったことを。


 四十九日が済んで、私は母を看取った施設に立ち寄った。

 スタッフは父をよく覚えていた。父がどれほど母の顔を見に足繁く通ったかを、口を揃えて懐かしそうに話していた。


 私は初めて父の母への想い、そして家族への想いを知った。父はどうしようもなく不器用な男だった。

 父も母を亡くしてずいぶん老け込んで丸くなり、以前のように激昂することは無くなった。


 来年の夏、私は父と弟を連れて高千穂峡へ旅行するつもりだ。父はそれを楽しみに元気でいないとな、と笑顔を見せた。


 四十九日を過ぎた仏壇には母の遺骨はもう無いが、高千穂峡で寄り添い微笑む両親の写真が飾ってある。


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水の棺 神崎あきら @akatuki_kz

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