第六話

 いつもと同じ時間に自然と目が覚める。サイドテーブルの上には昨日受け取った本がきれいに整頓されて置いてあった。


 あの後、オフィーリアは時間が許す限り本を読み進めた。キララが言っていたように児童向けの本のようで、わかりやすい言葉とひねりのない物語だったため、一冊にそれほど時間をかけることはなかった。オフィーリアからすると簡単な読み物であったが、その物語の登場人物の綺麗に描写された気持ちの変化は、純粋に面白いと思えた。


 庶民の人たちが触れるような娯楽を楽しんでいる暇があれば、その時間を勉強のために使う方がいいと固く信じていた。そのため、新しく触れる世界は新鮮で、純粋に楽しかった。


 キララが勧めてくれた本はどれも身分違いの恋をテーマにしているようだった。オフィーリアにとって結婚は自身の地位を確固たるものにするための手段の一つでしかなかった。そのため、自分の心に従って自由に恋愛を楽しむ彼女達の物語は、オフィーリアに新しい価値観を植え付けた。


(貴族同士の結婚は政治的要素が絡んでくるけれど、この物語に出てくる子達は自分で相手を選んで、さらに身分の違いがあることにもめげずに、本当にすごいわ。)


 現実的かと聞かれると、決してそうではないが、これはこれで夢があった。オフィーリアは幸い生まれた時から貴族の身であるためこの物語のようにわざわざ身分違いの恋を楽しもうとは思わなかった。しかし、あらゆる障害を前にしても諦めないほどのその恋心をオフィーリアは体験してみたいと思った。


(まぁ、そんなお相手なんて近くにはいらっしゃらないけどね。)


 心の中で苦笑する。そうこうしているうちにサラがいつものように部屋はやってきた。


「おはようございます。」


 扉の近くで一礼してオフィーリアのそばにやってくる。オフィーリアは挨拶を返してサラを迎えた。サラは近くまでくるとサイドテーブルに置かれた本を見つけた。


「もうお読みになられたのですか?」

「いいえ。まだ半分くらいよ。夜通し読んでもよかったのだけれど、また体調を崩しても良くないと思って。」

「それがよいかと思います。お嬢様がまたお倒れにでもなられたら、それこそ屋敷中が大騒ぎになってしまいます。みんな、とてもお嬢様のことを心配しておりますので。」


 サラに髪を梳かしてもらいながら話す。オフィーリアの髪を優しく扱うその手はとても気持ちがよかった。


 オフィーリアがサラの手に身を預けていると、部屋の扉をノックする人がいた。


「フィー、入ってもいいかしら。」


 リリーの声だった。オフィーリアはパッと立ち上がり自ら扉を開けた。


「おはよう、フィー。調子はどうかしら。」


 扉を開けると優しく微笑みながらリリーがオフィーリアを見ていた。オフィーリアは同じようにリリーに笑い返した。


「おはようございます、お母様。体調の方は随分と良くなりました。心配をかけてしまいごめんなさい。」

「何を言ってるの。子供は親に心配をかけるものよ。それよりも貴方が元気になってくれたことがとても嬉しいわ。」


 リリーはそう言ってオフィーリアをそっと抱きしめた。長らく触れてこなかった母親の温もりはとても心地よく、オフィーリアの心を溶かすようだった。


 オフィーリアもリリーの腰に遠慮がちに手を回し、同じようにリリーに抱きつく。するとリリーはくすぐったそうに笑った。


「ふふ。今日は甘えたさんの気分なのね。」


 リリーはオフィーリアの頭を優しく撫でる。


「そういえば、昨日は部屋の外で過ごしたと聞いたわ。」


 ひとしきりリリーに撫でられると、オフィーリアはリリーから離れ、部屋の中に招き入れる。リリーはオフィーリアの手を握りながら思い出したように言う。中に控えていたサラはリリーを見ると深く一礼した。


「はい。調子も良かったので少しだけ。」


 オフィーリアはリリーを部屋の中にある椅子に座らせた。オフィーリアもリリーの横に座り、サラは静かに二人の後ろに控えた。


「外に出られるほど元気になったようで安心したわ。……それでね、今日は一つ提案に来たの。」

「提案、ですか?」


 リリーの顔をきょとんとした顔で見る。リリーは小さく頷く。


「そろそろ、またみんなと一緒にご飯でも食べてみないかしら?お父様もシスも本当に貴方のことを心配しているのよ。」

「あ………。その………。」


 リリーの提案にオフィーリアは思わず口籠る。素直に提案を受け入れるにはいろんな懸念があった。


 父と会うのは気まずさややりにくさがあれど、うまくかわせるだろうと思った。しかし、今のオフィーリアにとってシスは鬼門でしかなかった。


 今でもオフィーリアはシスに自分の首を断ち切られた瞬間のことを鮮明に思い出せた。そしてそのことを思い出せば、無条件で吐き気と震えがオフィーリアのことを襲った。


「無理にとは言わないわ。でもね、オフィーリア。倒れて、目が覚めた後の貴方はずっと何かに追われているようだわ。」


 明らかに動揺したオフィーリアにリリーは諭すように言う。


「全てを話してほしいとは言わないわ。でもね、私達は、お父様もシスも、この家に支える全ての人は、貴方を愛してるわ。そして貴方の味方よ。」

「お母様。」


 気づかれていないとは思っていなかった。

 

 今のオフィーリアからしたら随分と昔のことで、もう自分がどんな子供だったかはっきりとは覚えていなかった。だけど、昔のオフィスーリアはとてもお転婆で、悪戯が好きで周りを困らせる、少し困った子供だったはずだ。


 そんな子供が急に大人しくなり、部屋からも出なくなれば、誰だって怪しく思うだろうことは容易に想像ができた。


 しかし、彼女の家族、そしてこの家に使える人たちはそれでもオフィーリアのことを心配し、オフィーリア自身が自分で外に出てくるのを待っていてくれた。


 オフィーリアはそっと目を伏せる。リリーの言うことは理解できる。だけど、全てを覚えているオフィーリアがその言葉を素直に受け入れることはそう簡単なことではなかった。


「フィー、決して貴方を困らせたいわけじゃないわ。でも、貴方はまだ子供で、私達が守るべき存在で、もっと私達に頼ってもいいのよ。」


 リリーが顔を伏せたオフィーリアの頬を暖かいその手で包み込んだ。そしてそっと顔を上げられリリーの蜂蜜を溶かした様な金色の瞳と視線が絡み合う。


 オフィーリアはそれでも黙って考えた。今この状況で兄と冷静に会うことができるのか。父と向き合うことが本当にできるのか。


 どれだけ一人で考えても答えは出ない、、その考えは全て机上の空論でしかなく、オフィーリア自身にしか決着をつけることはできないことである。


「お母様。私……今日はみんなと一緒に朝食を食べようと思います。お父様とお兄様にも元気な姿を見てもらいたいです。」


 だから、オフィーリアは決めた。

 先延ばしにしていても、いずれ向き合う時が必ずやってくる。それにいつまでも逃げてていい問題でもない。それなら、早いうちに決着をつけた方がいいはずだ。


(それに、私にはやらなければならないことがたくさんあるわ。やりたいことだってたくさんある。こんなところで挫けていては何もできないわ。)


 リリーの命を助けることだけじゃなく、父や兄との和解、そして家族の絆を守ることも今のオフィーリアがやりたいことだった。


 それらは全てオフィーリアが経験した未来では失われてしまったものではあるが、オフィーリアはもう二度とあんな未来を迎えるつもりはなかった。そのためにできることはなんでもするつもりだった。


「そう!良かったわ。それじゃあ、支度ができたら食堂にいらっしゃい。一人でも大丈夫?」


 リリーは包んでいた頬をそっと撫でた。とても嬉しそうで、花が咲いた様な笑顔を見せる。

 オフィーリアはこの後のことを考え、少し体を固くしていたが、リリーには気づかれなかった様だ。


「サラと一緒に行くので大丈夫です。お母様は先に向かっていてください。」

「わかったわ。サラ、フィーをよろしくお願いね。」


 リリーは最後にもう一度オフィーリアの頭を撫でるとサラの方を向いて言った。サラはそれに一礼して応えた。


「畏まりました。」


 サラの返答に安心したのか、リリーはオフィーリアのそばを離れる。最後に小さく手を振り、リリーは部屋から出て行った。


 オフィーリアは小さく息を吐いた。大好きな母ではあるが、やはりオフィーリアの中では長い間会うことのできなかった人でもあるため、今さらどう接すればいいのか分からなかった。そのため、以前の様に全幅の信頼を寄せるのも、まだ時間がかかりそうだった。


 オフィーリアがリリーの出て行った扉を見つめながら考え事をしていると、サラがいつの間にか手に櫛を携えてオフィーリアの後ろに陣取っていた。


「失礼しますね。」


 一声掛けられ再び髪を整えられる。

 オフィーリアの髪は父親譲りのものであり、シスもまた同じであった。美しい混じりのない銀髪は、ガルシア家の特徴の一つでもある。

 そのかわり、オフィーリアの瞳はリリーの瞳と同じで、太陽を溶かし込んだ様な金色の瞳をしていた。シスは父と同じ瞳で澄んだスカイグレーの色をしていた。


 オフィーリアは自分の瞳の色を好きだったが、兄や父の瞳の色ももちろん好きだった。


 そんなことを考えていると、髪を梳き終わったようだ。オフィーリアはいつも髪型をサラに任せていたため、考え事をしていたら二つのおさげに結ばれていた。


「ありがとう、サラ。今日もとても素敵だわ。」


 サラの方を向いてお礼を伝えると、サラは微笑んだ。


「お嬢様をより美しくするのも私のお役目でありますから。」


 オフィーリアは座っていた椅子からひょいと飛び降りるとサラの隣に立つ。


「行きましょう。」


 サラの手を遠慮がちに握ると、サラが力強く握り返してくれた。そんな小さなことだったが、オフィーリアには嬉しかった。


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