第一章

第一話

 深く、暗い海に身を投げているようだった。母親の腕の中のように、そこは安らかで心の底から安心できるところだった。

 ずっとこの場所にいたい。この場所で安らかに眠っていたい。危険なことも嫌なことも、全て忘れられるこの場所で、ずっと…。


「……て。………。これ………いご。」


 どこからか声がする。どこかで聞いたことのあるような、懐かしい声だ。


「私に………いに来て。……………今度こそ……。」


 暗い世界に光が差す。眩しいほどの光が溢れる。

 意識が掬い上げられる。この場所で静かに過ごしたいのに、それは許されないようだ。


 彼女は、オフィーリアはそっと瞼を開く。目を開いてまず視界に入ったのは数えきれないほどの民衆だった。多くの人がオフィーリアを見上げている。

 オフィーリアは瞬時に状況を理解する。これはオフィーリアが死ぬ直前に見た光景だ。そして記憶通りであれば、オフィーリアの隣には…。


「お、兄様…。」


 オフィーリアは民衆から目を外し、すぐ横に立っていた兄、シスに目を向ける。兄の目は唯一の肉親を見ているとは思えないくらい冷めており、視線だけでオフィーリアのことを殺せそうなほどだった。オフィーリアはそんな兄に対して本能的に恐怖を覚えた。


 シスは手に持っていた剣を大きく振り上げた。


「お兄様、まっ……。」


 オフィーリアの声はシスに届くことはなかった。

 そしてオフィーリアは冷たい人形と成り果てた。



* * *



 勢いよく目を覚ます。全身のあらゆるところから汗が流れており、気持ち悪かった。


「……はぁっ!」


 息の仕方を忘れていたのか、水を得た魚のように呼吸を再開する。

 オフィーリアはここがどこなのかわからなかった。オフィーリアはつい先程、兄であるシスの手によってその命を終わらせたはずであった。なのに、オフィーリアはまだ息をしている。心臓は止まっていなかった。


「はぁ………はぁ………?」


 オフィーリアは息を整えながら状況を理解しようとした。

 オフィーリアは今どこかのベットの中で横になっているようだった。目だけを動かして周りの様子を伺う。


 カーテンは閉められていたが、隙間から光が漏れていることから夜ではないらしい。ベッドのそばには小さなサイドテーブルが置かれていた。そこには小さな木の桶と水差し、コップが置かれていた。その時、オフィーリアは自身の額に生ぬるくなった濡れた布が置かれていることに気がついた。そして、全身から出た汗で冷えているだけだと思っていたが、どうやらそうではないようだった。その冷たさは体の奥の底からきているらしい。全身は怠く、指一本動かすのも億劫に思えた。


(……私、熱があるのだわ。)


 ぼうっとする頭で、ようやく自分の体の状況を把握する。


(私…死んだ、のよね……?)


 布団の中で首に触れる。オフィーリアは確かに兄の手でその首を刎ねられたはずだった。それなのに、今のオフィーリアの首には傷ひとつないようだった。


 どれほど高等な力を持っていたとしても、死人を蘇らせる方法はなかったはずだ。

 だから、あの瞬間死んだはずのオフィーリアがこんな暖かい布団の中で横になっていることは、世界がひっくり返ったってあり得ないことのはずだった。


 今のオフィーリアの状況を把握しようにも、熱に侵された頭では上手く情報を処理できなかった。


(ここ、見たことがあるのは気のせいかしら。)


 この部屋の雰囲気は、既視感と共に懐かしさも感じられた。しばらくぼんやりと横になりながら周りを観察する。

 オフィーリアを保護するだけなら、この部屋は少し豪華すぎる気がした。まるで貴族の令嬢が使うような部屋だった。


 そんなことを考えていると、部屋の外からノックの音がした。オフィーリアは思わず体を固まらせた。今のオフィーリアの体ではこの後何が起きても逃げることは難しいだろう。


 そう考えてからオフィーリアは考えることを放棄した。


(逃げるなんて…どうせ無駄な悪あがきにしかならないのに。そんなことを考えるなんて、随分と甘くなったわね。)


 一度決まった刑が覆るようなことは万に一つもありえない。オフィーリアがここで寝かされているのも、おそらく何かしらの不都合があっただけなのだろう。束の間の延命を喜び、自分の運命から背を背けることは、オフィーリアには許されていないだろう。


 オフィーリアは諦念の気持ちを抱きながら覚悟を決める。この後、誰がオフィーリアのもとに来て、どのような沙汰をオフィーリアに下したとしても、オフィーリアは逆らったりしない、と。


 長い時間の後、ガチャリと音を立てて扉が開かれた。オフィーリアが返事をしなかったからか、遠慮がちにほんの少しだけ扉は開かた。その少しの隙間から中に入ってきたのは、メイド服を着た女性だった。くるくるとあちこちに跳ねた栗色の髪にそばかすが特徴的な女性だ。


 その女性は右腕に白い清潔そうなタオルを下げ、反対の手には白い陶器の水差しを持っていた。女性は両手が塞がっているのにも関わらず器用に扉を閉めた後、オフィーリアの方を向いた。


 オフィーリアと女性の目が合った。髪色に似た亜麻色に透き通った瞳を、オフィーリアは見たことがあった。


「お嬢様。お目覚めになられたんですね。」


 女性が慌てた様子でオフィーリアに近づきながら安堵した表情を見せる。近くにきた女性の顔を驚いたように見つめ、オフィーリアは確信した。


「サ、ラ…?」

「はい、お嬢様。」


 この女性はサラという使用人だ。オフィーリアが牢に繋がれた後も、唯一オフィーリアの無実を訴え続けていたと聞いている。あの時のオフィーリアにとって唯一と言っていい味方だった人だ。


 サラはオフィーリアが捕まったその時も側に控えており、何かの間違いだとオフィーリアを庇ってくれた。

 オフィーリアが牢獄に入った後、サラがどうなったのかは、残念ながら知る術がなかったためわからなかった。オフィーリアのせいでサラが酷い目に遭わなければ良いと思っていたが、目の前のサラの様子を見るに最悪な結果にはならなかったようだ。


「サラ、サラっ…!」


 オフィーリアはまともに動かない体を叱咤して体を起こす。サラは小さなサイドテーブルに持っていたタオルと水差しを置く。そしてオフィーリアが横になっていた寝台のそばに跪き、オフィーリアの手を握った。


「はい、お嬢様。サラはいつでもお嬢様のお側におります。」


 安心させるように微笑むサラを見て、オフィーリアは知らず知らずのうちに涙をポロポロと流していた。

 肩を震わせながら、その存在を確かめるようにサラの手を強く握り込む。サラは何も言わず、そんなオフィーリアの側に居続けてくれた。


(涙を流すなんて、いつぶりかしら。)


 サラの無事に安堵しながら、オフィーリアはそんなことを考えた。振り返る限り、母が死んだあの日以降、オフィーリアが涙を流すことはなかったように思う。強くあらねばならなかった。そうしなければ、オフィーリアはあの場所で生き残ることはできなかったからだ。


 嗚咽が漏れないように静かに泣き続けるオフィーリアを、サラは優しく温かい眼差しで見守っていてくれた。

 しばらく泣き続け、ようやく落ち着きを取り戻したオフィーリアを、サラは優しく寝台に横たわらせる。オフィーリアは体の力を抜きサラにされるがままになる。熱がぶり返してしまったのか、今度こそ指一本も動かせないほど疲れてしまった。


「サラ、ありがとう。」


 桶に新しい水を差し入れながらタオルを新しくするサラを見ながら言う。サラは手を止めて目を丸くさせる。そして、また柔らかく笑った。


「とんでもございません。サラはお嬢様のお側にお迎えすることができて、とても幸せでございます。」


 その言葉には嘘偽りなく、オフィーリアの心にスッと届いた。サラのような従者を持てたことが、きっとオフィーリアにとって最大の幸福だと言っても過言ではないだろう。


 変わらない忠誠ほど、あの世界で大事なものはなかったから。


 ふかふかの布団に身を預けながらオフィーリアは改めて現状を整理しようとする。まずは、今日があの日、オフィーリアの刑の執行日からどれだけ経っているのかを把握しなければならなかった。


「サラ。今日は何日になるの?私はどれだけ眠っていたの?」


 オフィーリアの額に新しいタオルを置くサラを見上げる。ひんやりとしたタオルが熱った体に気持ちよかった。

 サラは少し考えるようなそぶりを見せた。


「たしか、今日は…帝国暦一〇二三年四の月の十六ですね。お嬢様が倒れてから今日で丸二日になるはずです。

「!?」


 頬に人差し指を添えながら話すサラの様子は、嘘をついているようでもオフィーリアを揶揄っているようでもなかった。


「帝国暦一〇二三……?そんな、どういうことなの……。」


 オフィーリアの記憶が確かなら、今は帝国暦一〇三七年のはずだ。その年の冬が明けた頃にオフィーリアの刑は執行されたはずだった。


 もしもサラが言うことが事実ならばオフィーリアは今、過去に戻ってきたことになる。そこまで考えてオフィーリアはハッとして両手を布団から出した。


「……!」


 目の前に現れた両手は小さく、とても成人した女性の手には見えなかった。小さな手はふくふくとしており、健康そうな子供の手であった。


 オフィーリアは愕然とした。何故こんな簡単なことにも気が付かなかったのか。いや、こんなことがあっても良いのかと自問する。もしもこれが都合のいい夢でないのだとしたら、一体誰がオフィーリアを今、この時に送ったというのか。また、そんな奇跡のような術が本当に存在するというのか。

 オフィーリアの知る限り、時間を巻き戻す魔術は存在しておらず、また開発されたという話も聞いたことはなかった。


「お嬢様……?」


 顔を青ざめさせ、自分の手を見て気を動転させているオフィーリアに気づいたサラが不思議そうにこちらを見ていた。


「何かございましたか、お嬢様。」


 サラが宙に放り出されていたオフィーリアのまろい手を優しく布団の中に戻す。オフィーリアは混乱した頭のまま首を横に振る。


「いいえ……いいえ。なんでもないわ。」


 そう答えるが、サラは心配だという表情を崩さなかった。しかしオフィーリアが黙ってしまったのを見て、少しだけ肩を落とし立ち上がった。

 オフィーリアはサラを見上げた


「お嬢様、私は少し席を外しますね。旦那様と奥様にお嬢様の意識が戻ったことをお伝えしてきます。お二人ともとてもお嬢様のことを心配していらしたので、きっとご安心なさると思います。それにシス様も。」


 サラの言葉にオフィーリアはようやく気がつく。


(今が本当に帝国暦一〇二三年なら、お母様はまだ、生きている……!)


 死んだはずの母が生きているかもしれないその可能性を考えて、オフィーリアは動きを止める。サラに確認しようと思ったが、オフィーリアが考えている間にサラはオフィーリアが呼び止める間も無く部屋を出て行ってしまった。

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