プロローグ2

 カツカツと鈍い音を響かせながら、それはオフィーリアの元までやってきた。


「無様ね。」


 衛兵が来たのかと思っていたが、どうやら違うらしい。その声は明らかに女性のものだった。

 オフィーリアは閉じていた目を開けた。オフィーリアの女性の知り合いはそんなに多くはない。そして今聞いた声は、オフィーリアの記憶にある声のどれにも当てはまらなかった。


 気怠げにオフィーリアは頭を起こす。鉄格子の向こう側には薄い桃色の髪をサイドで赤いリボンで結んだ、黒いマントを上から羽織っていた女性がいた。その女性の目は髪の毛につけているリボンと同じくらい、いやそれ以上に深く、鮮血に近い赤色をしていた。その目で見つめられると少し寒気が込み上げてくるほどだった。


「あなたは…?」


 上手く働かない頭をなんとか動かしながらオフィーリアは尋ねる。すると女性は可笑そうに笑った。笑った顔をは愉悦に満ちており、残虐さを醸し出していた。


「私の名前を知ってどうするの?」


 女性は鉄格子に顔を近づけてオフィーリアを見下す。


「アンタは、これから死ぬというのに?」


 女性はその笑みを深くした。まるでオフィーリアが死ぬことを心待ちにしているかのようだった。


「私、アンタのこんな無様な姿を見ることができて、本当に嬉しいわ!あぁ、でも、アンタには理解できないでしょうね。この喜び、胸の高鳴りを!」


 興奮して感高い声で叫ぶ。久しぶりに人の声を聞いたオフィーリアはその声に不快感を覚えた。


(この方はいきなりやってきて、一体何を仰ってるのかしら。)


 オフィーリアが眉を顰めて女性を見ていると、幾分か落ち着きを取り戻したらしい女性がそれに気がついた。


「なによ、その目。憎たらしい目で見ないでよ。」


 女性は忌々しい様子で言い放った。


「いきなりきたあなたには関係のないことでしょう。」

「はぁ?」


 心の中で呟いたつもりが、思わず口に出していたようだ。やってしまったと思い口を押さえたが、どうせ知らない人だからと気持ちを切り替える。しかし、女性の方は見逃すつもりはなかったようだ。


「アンタ、まだ自分の立場が分かっていないようね。」

「私の、立場…?」


 女性の言葉にオフィーリアは首を傾ける。

 オフィーリアはこの国の次期国王となる男に嫁ぎ、この国で最も幸せな女性になるはずだった。しかし、蓋を開けてみればそこには幸せの「し」の字もなかった。冷たい宮殿、顔を合わせることのない夫、腫れ物を扱うかのような態度の使用人、胡麻をするだけの他貴族たち、そして化け物を見るかのような眼差しの兄。


 オフィーリアの周りはいつだって冷たかった。それでもオフィーリア自身も必要最低限以上のことを望んだことはなかった。


 オフィーリアはいつだって自分が周りに何を期待され、何をなすべきかをわかっていた。いつだって、自分の立場を過信することはなかった。


「そうよ。アンタの立場よ。」


 女性の声に遠い記憶にまで飛ばしていた意識を今に戻す。


「あなたには何を言われなくても、私は私の立場をよく理解しているわ。」

「いいえ。アンタは何もわかっちゃいないわ。」


 女性は鉄格子の隙間から手を入れてオフィーリアのボサボサになった髪を力の限り引っ張った。


「…っ!」


 その痛みに思わずオフィーリア表情を崩し、眉間の皺を深くした。


「アンタは死ぬの。それもただ死ぬんじゃないわ。アンタは唯一の家族の手で、絶望の中、何も分からずに死んでいくのよ。」


 女性と鉄格子を挟んで至近距離で喚かれる。女性の感高い声がオフィーリアの脳を揺らす。オフィーリアは数秒かけて女性の言葉を飲み込む。


「お兄様が……?」


 そしてオフィーリアは女性の言葉に違和感をみつける。

 この女性はオフィーリアに対する刑を実行するのがオフィーリアの実兄の役割だと、そう言ったのだ。


(それは可笑しいわ。)


 この国では刑の実行の仕方が少し変わっていた。刑の執行人には罪人に同情の余地を残さないため、また、家族殺しは最大の不名誉となることから罪人の親族が選ばれることはなかった。


「それは間違っているわ。お兄様だけは、絶対に選ばれないわ。」


 髪を強く引かれたままオフィーリアは目の前の女性のことを強く睨みつける。今までの生気を失ったような瞳に初めて意志が灯る。その瞳を見た女性はまた恍惚な表情で笑った。


「そうよ!その顔よ!その顔が絶望に染まる様を、私は見たいのよ!」

「下品なお口ね。その汚い口でお兄様の名前を出したことを謝罪しなさい。そうすれば、まだ許してあげますわ。」

「許すって…!こんな汚いところに幽閉されている身でどうしてそんな強気なことを言えるのかしら?」


 女性はわずかに怒りの感情をのぞかせたオフィーリアを嘲笑った。その拍子に女性の手が離れた。オフィーリアは突然手を離されたことで体制を崩し、その場に落ちた。

 声を上げて楽しそうに笑う女性のことを、オフィーリアは改めて不快に思った。


「いいわ。オフィーリア。アンタの愚直さに免じて教えてあげるわ。」


 一頻り笑った女性が寝台に崩れるオフィーリアを見下す。松明の光が女性の顔に影を落とす。


「この国のルールがどうであるかは問題じゃないのよ。私にはそのルールを壊す力があるのだから。だから、アンタが必死にアンタの大好きなお兄様とやらが執行人にならないと言ったところで無意味なのよ。」


 厭らしく笑いながら女性が言う。


(ルールを壊す力…?そんな力が一体どこにあるというの?)


 この国のルールを無視できるのは、かなり例外的ではあるが国王陛下が直接命令を下す場合のみだ。しかし今回のオフィーリアの件はオフィーリアの夫である第一皇子に全てが一任されていると聞いた。第一皇子の決定に国王陛下が口を挟めば、確かにオフィーリアの執行人がオフィーリアの兄に変わることもあり得なくはない。しかし、国の法を何よりも重んじるあの国王陛下がわざわざ法を外れるような命令を下すとは、とても考えられなかった。


 そう考えれば、この女性の言う力とは何になるのか。この地下牢獄に幽閉されている今のオフィーリアでは情報が足りず、女性の言葉に判断を下すことは難しかった。


「また無駄にあれこれ考えているみたいね。」


 女性の声に思考の海に飛ばしていた意識を戻し、はっとして顔をあげる。女性は変わらず薄気味悪く笑っていた。


「何度も言ってるでしょ。考えたって無意味なのよ。アンタなんかじゃ想像もできないような力を、私は持っているのよ!」


 くすくすと口元を隠しながら笑う女性に不快感が強くなる。口元を隠す女性の手には特徴的に紋章が彫られていた。

 オフィーリアはこんなに不快になる人は初めてかもしれないと思った。結論が見えない。遠回しに言葉を濁すだけで、同じことを繰り返すこの女性が、一体何が目的でオフィーリアにこんな話をするのかわからなかった。そのことが不快で仕方がなかった。


「それにしても、こんなに簡単にいくなら初めからアンタの母親を殺しておけばよかったわ。」

「!?」

「あら?表情が変わったわね。まるで意味がわからないって言ってるみたいね。…ふふふ、どうせ死ぬんだから最後に教えてあげるわ。」


 女性は鉄格子を握り込み、オフィーリアに顔を近づけた。女性が鉄格子を触った瞬間、鉄格子についた錆がパラパラと落ちた。女性はうっとりと顔を赤らめてオフィーリアを見た。まるでメインディッシュを前にした小さな子供のようだった。


「アンタの周りで起きた、これまでの不幸…そう、例えばアンタの母親の死は本当に偶然だったと思う?」


 その言葉を飲み込むよりも先に体が動いた。寝台に崩れ落ちた状態から反射的に立ち上がり、鉄格子のすぐそばでオフィーリアを嘲笑っていたその女性の胸ぐらを掴み上げる。

 オフィーリアは獣のように唸り声を上げる。自分の中にこんな凶暴な感情がまだあったことにも驚いたが、そんなことは些細なことであった。

 自分のことよりもオフィーリアには確かめなければならないことがあった。


「お母様が亡くなったことに、あなたが関係しているというの……?それに、私に関わることとは……!」


 オフィーリアはこの一瞬の間に、自分の人生を反芻した。そして過去に起きたあらゆる出来事にこの女性が関わっていたのではないかと、疑った。


 女性はここに来て一番楽しそうに笑って見せる。人の不幸が堪らないとでも言わんばかりの表情だ。その笑みを見たオフィーリアは全てを悟った。

 オフィーリアが家族を失ったのも、周りの人たちから悪し様に言われるのも、オフィーリアが今まさに市に直面しているのも、全て…。


「全て、あなたが関わっているというの…!」


 オフィーリアは信じられないものでも見るかの様に女性を見る。胸ぐらを掴む手は知らず知らずのうちに、女性の服に皺がつくほど強く握り込んでいた。

 オフィーリアが呆然としていると、女性はオフィーリアの手を振り払った。女性はオフィーリアの目を覗き込みながら不敵に笑う。


「今更知ったところで、後の祭りでしょうけどね。」


 そう言って女性は踵を返す。ここから立ち去るつもりなのだろう。


「待ちなさいっ!!」


 今度はオフィーリアが鉄格子を握る番だった。気にもならなかったこの檻が、今は心の底から邪魔だった。


 オフィーリアは今更死ぬことなど怖くはなかった。周りがそれを望むのならそれを受け入れるだけだった。そうすることが正しいのだと信じていた。


 しかし、この女性の言葉を信じるのであれば、もしも本当に全てが仕組まれていたのだとすれば、オフィーリアがここで死ぬわけにはいかなかった。どこまでこの女性が関わっているのか、特に母の死に関することだけでも明らかにせずに死ぬことは、オフィーリアの気が済まなかった。


「私の家族がバラバラになったのは、お母様が亡くなられたのは、あなたが仕向けた事なの!?」


 オフィーリアは立ち去る女性の背中に向かって叫ぶ。オフィーリア自身、こんなに取り乱すのは過去一度もなかった。女性は最後に少しだけオフィーリアの方を振り返ったが、何かを言うことはなかった。


 オフィーリアは女性の姿が見えなくなっても、鉄格子の向こう側を睨み続けた。

 やがて静寂がオフィーリアを包んだ。オフィーリアはその場に座り込んだ。冷たい意志の感触が気持ち悪かった。


 オフィーリアは両手を組んで胸のところで強く握る。そして強く目を瞑り、自分の中で荒れ狂う様々な感情を抑え込もうとした。しかし、それは思うようにはできなかった。それほどあの女性がオフィーリアに聞かせた事実の一端は、衝撃的で残酷だった。


 そして今のオフィーリアには、あの女性の言葉が本当であるのか、嘘であるのかの判断もできず、また本当であったとしてもこの牢獄の中からではどうすることもできなかった。今更、オフィーリアの言葉に耳を傾ける者など一人だっていないだろう。むしろ、死に際の狂言だと思われるだろう。


 オフィーリアは今になって、もっと周りを見てこなかったことを後悔した。

 もしもオフィーリアが全てを諦め、流されるままに生きてこなければ、変えられた過去もあったかもしれない。もしかしたら、今もオフィーリアはあの陽だまりのような幸せな記憶の中のように、笑っていられたかもしれない。


 そこまで夢想して、オフィーリアは考えることをやめた。あの女性が言ったように、今オフィーリアが何を考えたって、無意味でしかなかった。


 オフィーリアは静かに目を開け、手を解く。そしてまた虚ろな目で世界を見る。

オフィーリア・ガルシアは、もう何も望まない。



***



 数日後、オフィーリアの死刑が実行された。


 執行にはシス・ガルシア。オフィーリアの実兄であった。見届けたのは国王陛下とオフィーリアの夫だった男とこの国の民衆だった。


 最後に言い残したことはあるかと聞かれ、オフィーリアは口を開こうとした。しかし結局何も言わなかった。オフィーリアは最後まで自分の運命に抗わないことを選んだのだ。


 両手を後ろで縛られ、跪かされているオフィーリアの側に執行人となった兄が近づいてくる。オフィーリアは少しだけ顔を上げて、冷たく見下ろしてくる兄を見る。兄はこれから自分が殺す肉親を前にしても、顔色ひとつ変えなかった。そんな兄が少しだけオフィーリアは怖いと思った。


 しかし、オフィーリアは最後に笑ってみせた。普段笑顔を見せることは少なかったから、ぎこちない笑顔だっただろう。


 その笑顔を見た兄の持つ剣が、一瞬僅かに揺れた気がした。だけどその真偽を確かめる前にオフィーリアは兄、シスの手によって、その首を刎ねられた。


 オフィーリア・ガルシアの一生は、そうして幕を引いた。

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