雲をつかむ人と、月を見つめる人

0ptドーパ民

第1話

 だらしなく脱力しきった自分の体を、おもいもよらず叩き起こしてくれたのは、耐え難いほどの空腹だった。ベットの上に体を起こしてから意識が完全に醒めるのを待つあいだに、私は多分もう一度眠った。そのあとで再び空腹に起こされることになるのだが、そのときにはなぜか、指の間には火のついたタバコが挟まっていて、窄めた自分の口からはタバコの煙が吐き出されていた。私はおもわず顔を顰めた。口の中で何日もかけて舌の根にニコチンを染みつかせたあとのような、いつもより苦味の強い嫌な味がする。しかし、それとは矛盾して、機械的に働き続ける自分の手が、それを口元へ運んでくるたびに、そんな嫌な匂いは自分の中に拡がっていく。汚れた唾液が粘膜に染みているせいか、空腹の胃からはもはや痛みを感じるほどだ。私は、手に届くところに置いておいたはずの携帯電話を探した。カーテンに阻まれた日の光が、風に揺れる布間からこぼれてみえる。今が夜ではないことは確かだった。残業が嫌で、休みまえに持ち帰った仕事をこの部屋でするのが習慣になってから、休日好きなだけ寝て過ごせるようにと、窓辺には遮光性抜群のカーテンが取り付けてあった。しかしそれは私がまだ教師だった頃の話だ。今の自分にはカーテンが薄かろうが分厚かろうが、そんなことはどうでもいい話だった。ようやく見つけた携帯電話は、どういうわけかベットからだいぶ離れた場所にあった。目に悪そうな強い明かりがディスプレイに灯り、そこに現在の時刻が映し出される。私は、九時四十分という表示を見ながら、今がまだ昼まえだったことに驚いていた。学校だと、ちょうど十分休憩に入ったあたりだった。そんなことを思い出しただけで吐き気がしてくる。けたたましく頭に響く、あの始業と終業を報せるチャイム。そして、それが鳴る少しまえからいつも決まって聞こえ始める出来のわるい生徒たちの耳障りな話し声。あの中学校を退職してすぐの頃は、あの忌々しい雑音から永久に解放されたことによる喜びからか、それなりに寝つきのいい夜を送れていた。私は、それがこれからもずっと続くものだと疑わなかった。なのにどうだ。職場を去ってから数日もしないうちに私は悪夢にうなされるようになってしまった。起きている間は食事をすることも忘れて、のべつまくなしタバコだけを吸い続けた。そして、嫌な記憶から目を背けようとすればするほど、その本数は増えていった。

 時間なんて確認しなければよかった。仕事を辞めた今、私を束縛するものなど一つとしてないのだから。もう何も心配しなくてもいいのだ、そう自分に言い聞かせると、なぜか涙が溢れでた。なかなか止まらない涙をわざわざ拭う気にもなれなくて、流れるままに垂れ流してしまうと、伸びすぎた前髪までべったり濡れて気持ちが悪かった。声が漏れ出るほど泣くなんてことは、いつぶりだろう。大した自慢ではないが、私はこれまで生きてきたなかで、まだ数えるほどしか涙を流したことはなかった。これは最近になって知ったことだが、惨めな気持ちというのは、ときに怒りすら麻痺させることがある。そして、時間をかけて感情を蝕んでいくのだ。こんな感情に長く浸ると碌なことはない。気持ちが落ち着くのを待ちながら私は二本目のタバコを吸うことにした。そうして火をつけた二本目のタバコは、一本目のタバコよりも少しだけまともな味がした。

 風呂から上がると、さっそく炊き上がったばかりのご飯をよそって納豆と一緒にして食べた。おかわりをしたので納豆を2パックも消費してしまった。腹が減っていたので、それらをあまり噛むことはせずに、ほとんど飲むようにして食べた。そのあとで時間をかけて髪を乾かした。傷んだ髪はなかなか乾いてはくれなかった。いい加減、美容室にも行かないといけないな、そうおもい今日のうちに予約を入れることに決めた。

 空腹が満たされると、またもや眠気がやってきた。しかし、心地よい脱力だった。美容室の予約時間をメモしたついでに、予定表を見る。職場を退職した日から数えると、今日で引きこもりを始めて八日目になる計算だった。一週間以上寝込むなんてことが、果たしてこれまでにあっただろうか。振り返ってみるも、すぐには思い出すことはできなかった。しかし、そうして重い瞼を閉じたまま考えていると、私はふと、あることを思い出していた。

 あれは、自分がまだ保育園の年長さんだった頃のことだ。当時、保育園児として、私は最後の年を迎えていた。そして、兼ねてから楽しみにしていた、お泊まり保育というイベントを目前に控えたある日、私は突然おたふく風邪に罹ってしまった。さすがに、そのとき自分が寝込んだ日数までは記憶していない。ただ、長かったということだけは覚えている。楽しい時間とは打って変わって辛く苦しい時間というのは、始まってしまえばなかなか過ぎ去ってはくれないものだ。当時、何よりも苦痛だったのが戦隊モノのビデオの鑑賞の時間だった。うちは母と兄と私の三人家族で、私は余り母から可愛がられていなかったのか、兄のお下がりばかり与えられて育った。そのため、今だに私はスカートを履いた自分自身に違和感を覚えることがある。戦隊モノのビデオもおそらくそういったものの一つだった。珍しく母が気を利かせてくれたのはよかったが、それは全く私の好みではなかった。なのに母は、そのビデオを繰り返し私に観させた。私は、くる日もくる日もそれを観続けた。母がすりおろしてくれたリンゴを食べ、空いた時間にヒーローたちから正義を学んだ。そして五人のうちの一人が、悪者たちに囚われた末に暗黒面へと堕ちていく様は、確実に幼い私の中にトラウマとして刻みこまれた。しかしその結果彼が完全に堕ちたのか、それともどこかで踏みとどまることができたのか、そこのところだけはなぜか記憶になかった。急に私は、その結末が気になり始めた。

 さっそくパソコンを開くと、番組名を検索してみた。すると、まず、画面に表示された投稿文の多さに驚いた。放送されてから既に二十年以上が経つというのに、未だ一部のファンたちのあいだでは、衰えぬ人気があるようだった。しかし、よく考えてみると、登場人物の名前すら知らないのだから、内容について調べようがない。とにかく、順に閲覧してみる。そうして読み進んでいくうちに、ここがどうやら、所謂マニアと呼ばれる人たちにとっての溜まり場らしいということだけは、なんとなく理解できた。その中に一つ、気になるものを見つけた。パチスロの話だった。幼い頃、私が観ていたあのヒーローたちが、どうやらスロット台になっているらしいのだ。投稿の日付を確認する。一年近くまえのものだった。今でもまだ、その台はあるのだろうか。おもいがけず私は、ヒーローたちに会いたくなった。

 隣の台でプレーしていた男が、ついに被っていた帽子を台に投げつけた。その男の、きりっとした顔つきからはとても想像できなかったが、帽子を脱いだ男の頭は見事なまでに禿げていた。男は、そのままどこかへ消えてしまった。先ほどから台を叩く音がうるさかったので、いい加減声をかけようかとおもっていた矢先の出来事だった。私は、自分の足元に転がっていた男の帽子を蹴り払った。そして、下皿の上に溢れたメダルを機械の中へと移し替えていく。ちょうど先ほどの男が、自分の台を叩き始めるよりも少しまえあたりから、私の台のボーナスは止まらなかった。あの男のしけた台とは対照的に、私の台は景気が良かった。色鮮やかに電飾がきらめき、ファンファーレが鳴り響いた。画面の中のヒーローたちは負け知らずで、次から次へと敵を蹴散らしていった。私には、自分の打っている台と隣の男が打っている台とが同じものだとはおもえなかった。私のまえの躍動感溢れるヒーローたちが、男のまえでは膝から地面に崩れおちて、両手をついて項垂れていたからだ。おそらくこれが、ビギナーズラックというものだろう。私は今日、生まれて初めて博打をして、勝つかも知れない。しかし、そのためには、ここで確実にゲームを辞める必要があった。少し悩んで、私は確実な勝利を選ぶことに決めた。

 ちょうどボーナスが途切れたのを目処に、全てのメダルを掻き集めて切り上げようとしていたところに、あの男が戻ってきた。そして、地面から拾い上げた帽子を叩きもせずにまた頭に被せた。気がつくと、私の台の背後には、ちょっとした人だかりができていた。ゲームを辞めようとしている私を見つけて、ハイエナのように寄ってきたのだろう。台を離れようと私が立ち上がった瞬間、隣から私の台の下皿に財布が投げこまれた。あの男の財布だった。金が賭かると人間はこうも醜くなれるのか。おもわず睨みつけていた私から、恥ずかしげもなく目を逸らして男は、私のいた台に陣取った。私は自分が勝負に勝ったのか、それとも負けたのか、よくわからなくなってしまった。

 

 換金したチップは三万八千円になった。たかだか二時間足らずで手にしたその額は、教師だった頃の給料の一日分を裕に超えていた。そんなことを考えていると、私はまた自分が勝ったのか、それとも負けたのかわからなくなってきた。

 帰り際、タバコを吸うために喫煙所へ寄ったところ、偶然あの帽子の男とその連れにでくわした。私が近づいていくと男は明らかにばつが悪そうにした。私は建物の庇から少しずれたところに立って、取りだしたタバコに火をつけた。そう言えば久しぶりに紫外線を浴びているような気がする。

「あれ、月ですかね」連れの男が独り言のようにそう呟くと、帽子の男がそれに応える。

「いや、あれは雲だよ」と。

 その隣で、真昼の月を眺めながら私は、仕事を探そう、そうおもった。

 

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