12月9日【牛乳とはちみつとオリーブ】
『あっ、なっちゃんだ!』『なっちゃんが帰ってきた!』『なっちゃん、おかえりー』『おかえりー!』
ようやく煙突掃除を終えて、煤だらけになりながらもリビングに戻ってきたなっちゃんは、ミトラたちの熱烈なお迎えを受けました。
その熱烈っぷりといったら、鳥のミトラはさえずりながらなっちゃんの頭の上を飛びますし、猫のミトラはごろごろいいながらなっちゃんの足元にまとわりつきますし、蜘蛛のミトラは天井からぶら下がって、なっちゃんおかえりの歌を歌いながら、空中ブランコみたいに左右に揺れました。
「ただいま、ただいま、ただいま」
なっちゃんは、ひとつひとつのおかえりに、ひとつひとつ、ただいまを返しました。
ようやくただいまを返し終わった時には、なっちゃんだけでなくミトラたちも、煤まみれになっていました。
掃除を終えて帰ってきただけなのだから、そんなに大げさに喜ばなくたっていいのに。なっちゃんは初め、そう思ったのですが、しかしミトラたちから話を聞いていると、驚くべきことが判明しました。
なんと今日は水曜日でなく、金曜日だというのです。なっちゃんは気が付かないうちに、まるまる一日も、煙突掃除をしていたのでした。
『夜になっても、なっちゃん帰ってこなかったから、しんぱいしたよね』『朝になっても、なっちゃん帰ってこなかったから、しんぱいしたもんね』『なっちゃん、いなくなっちゃったかと思った!』
それはそれは、心配だったことでしょう。なっちゃんが「心配かけて、ごめんね」と言うと、ミトラたちはまたなっちゃんにまとわりついて、さらに煤まみれになりました。
「あらあら、まあ」
暖炉から出てきたコマドリが、煤だらけのなっちゃんとミトラたちを見て、「みなさんにも、お掃除が必要なようね」と笑いました。それは本当に、その通りです。このまま暮らせば、なっちゃんとミトラたちは、家じゅうに煤を撒き散らして、フキコさんのおうちを真っ黒にしてしまうでしょう。
なっちゃんは、つま先立ちでそーっと歩いて、キッチンを覗きにいきました。今日は金曜日。でしたら、小棚の市場が開いているはずです。
「やあ、なっちゃんさん。おかえりなさい」
思ったとおり、金色の灯りの下で、ハムシが触角をピンと伸ばしました。そして、煤けたなっちゃんの姿をひとめ見ますと、なっちゃんが何も言わないうちに「良い石鹸が、入っていますよ」と言ったのでした。
なっちゃんは、みっつの石鹸を買いました。みっつまとめて買うと、お得ですよと、ハムシが勧めたためです。
実のところ、冬は寒いので、何かを丸洗いしようなんて思い立つひとは少ないのです。そのため、石鹸が売れ残って困っていましたので、この期に全て売ってしまおうというハムシたちの魂胆なのでした。
なっちゃんは鋭くもそれを察していましたが、実際、なっちゃんとミトラたちみんなを丸洗いするには、石鹸ひとつではとても足らないのです。それに、みっつの石鹸はみっつとも、とても素敵な石鹸でした。ですからなっちゃんは素知らぬ顔で、「では、まとめてくださいな」と言ったのです。
石鹸を買いましたら、なっちゃんはみんなを、お風呂場へと連れていきました。ミトラたちはみんなおとなしく、なっちゃんについてきました。猫のミトラなんかは、てっきり嫌がるだろうと、なっちゃんは思っていたのですが、そんなことはありませんでした。
「はい、ではみんな、並んで。まずはシャワーで、煤を落とします」
風邪をひいてしまわないように、充分に温かいお湯が出るまで待ってから、なっちゃんは煤まみれのミトラたちに、シャワーでしゃわーっとお湯をかけました。ミトラたちは『きゃあー』っとはしゃいだ声をあげて、手足をばたばたさせて、煤を落とします。
それが終わったら、いよいよ石鹸の出番です。なっちゃんはまず、牛乳の石鹸を泡立てました。
『あ、ぎゅうにゅうのかおり。いいなあ』
真っ先に寄ってきたのは、猫のミトラです。なっちゃんは、ホイップクリームのようなあわあわを、猫のミトラの背中に乗せました。
『ぎゅうにゅうは、あっためて飲むのが良いんだよ』
トカゲのようなミトラも寄ってきましたので、やっぱり背中の上に、あわあわの塊を乗せました。
それからなっちゃんは、はちみつの石鹸も泡立てました。
『あ、はちみつ、だいすき』
芋虫のようなミトラが寄ってきて、あわあわの中に頭を突っ込みました。
石鹸の泡は、はちみつの匂いはしますけれど、はちみつのように甘くはありません。大丈夫かな、となっちゃんは不安に思いましたが、泡の中から『いいかおりい』と聞こえてきたので、たぶん、大丈夫なのでしょう。
はちみつの石鹸には、ふくろうのミトラも寄ってきました。羽の中に泡を抱えて、幸せそうです。
「ではみんな、好きな泡をたくさん使って、煤を落としてね。毛の隙間も、羽の隙間も、鱗の隙間も、しっかり洗ってね」
なっちゃんが号令をかけますと、ミトラたちはそれぞれ好みの泡を手にとって、自分を洗い始めます。
芋虫のミトラが『ぼくは毛も羽も、うろこもないけど』と困っていましたので、なっちゃんは「芋虫の表面も、しっかり洗ってね」と言い足しました。
お風呂場のあちこちで、あわあわの泡が泡立ちます。どっちを向いても、泡だらけ。どっちを向いても、牛乳か、はちみつの匂い。
シャワーのお湯はあったかくて、お風呂場じゅうを温めます。とても良い気分。みんなきゃあきゃあはしゃいで、ちょっとしたお祭り騒ぎです。
「あたしも混ぜてちょうだいな」
コマドリが飛んできて、お風呂場の天井近くまで高く伸びた、泡の塔に飛び込みました。それははちみつの泡でしたので、コマドリは「まるで春が来た心地だわ」と、うっとりしました。
あわあわのお祭り騒ぎは、昼過ぎまで続きました。泡を綺麗さっぱり流してしまいますと、なっちゃんはミトラたちを引き連れて、リビングに戻りました。そしてようやく、暖炉に火を入れたのです。
暖炉の中で、ぱちぱちとかすかな音を立てながら、赤と金色の炎が踊ります。それを見ていますと、どこからともなく、とても抗いようのない眠気が忍び寄ってくるから、不思議です。
暖炉のそばに毛布を敷いてやりますと、ミトラたちは何も言わずに毛布の上に寝転がって、静かに寝息を立て始めました。
なっちゃんも帰ってきたし、あわあわで綺麗になったし、暖炉の炎は暖かいし、もう大満足。みんな、そんな表情です。
なっちゃんはしばらく、リビングの真ん中に立ち尽くして、ミトラたちが眠っているのを、ただじっと見つめていました。
いつの間にか、コマドリは帰っていました。小棚市場も、とっくに閉まっています。おうちの中は、信じられないほど静かです。
そんな静けさの中で、なっちゃんは息を殺して、ミトラたちが眠っているのを、ずっとずっと見つめるのでした。
やがて日が沈み、部屋の中の明かりといったら、暖炉の中で呼吸をするように明滅している、燃え残った薪だけとなりました。
なっちゃんはようやくミトラたちを見つめるのをやめて、ひとりでお風呂場に行きました。なっちゃんはまだ、煤を落としていなかったのです。
なっちゃんは、みっつ買った石鹸のうち、最後のひとつを泡立てました。オリーブの石鹸は、油粘土のような不思議な香りがします。
頭から、顔から、体から、手足の指先まで、なっちゃんは丹念に泡を広げて、煤を落としていきました。真っ黒な煤は、石鹸の泡に捕まって、温かなシャワーに流されて、なっちゃんから剥がれていきます。
お風呂から上がったときには、なっちゃんは煙突掃除をする前と同じくらい、綺麗になりました。いいえ、煙突掃除をする前よりも、綺麗になったかもしれません。
再びリビングに戻りますと、暖炉の火はすっかり消えていましたが、ミトラたちは相変わらず、すやすやと眠っていました。
なっちゃんは、もう何枚かの毛布を持ってきて、ミトラたちの上にかけてやりました。そして大きな棚から牛乳の瓶を取り出して、小鍋で牛乳を温めて、はちみつを入れて、いただきました。
思えば、煙突掃除を始めてから、今の今まで、ずっと飲まず食わずだったのです。熱いホットミルクは、なっちゃんの体の隅々まで、しみ渡りました。
なんて忙しい数日だったでしょう。けれどこれで、一段落。
牛乳を飲んで、歯を磨いて、なっちゃんはミトラたちを起こしてしまわないよう抜き足差し足で、二階の寝室に行きました。さあ、寝ようとお布団をめくったとき、そこに光るものを見つけて、なっちゃんは「あっ」と小さく声をあげました。
そこにあったのは、金色に光る、小さな鍵でした。
なっちゃんのベッドの中に、それは「当然、ずっと前からありましたよ」とでも言いたげに、堂々と存在しているのでした。
なっちゃんは鍵を手にとって、枕元に置きました。どこの鍵なのか、なっちゃんには分かっています。でも、それを試してみるのは、また明日。
今日はもう、くたくたです。今日はもう、おやすみしなければいけません。
「おやすみなさい」
お部屋の明かりを消して、なっちゃんは、ひとりで呟きました。
なっちゃんもミトラたちも眠ってしまって、おうちの中には、動くものは何もありません。ただ枕元の金色の鍵だけが、星あかりを映して、夜じゅうきらきらと瞬いていました。
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