純心売買
古蜂三分
純心売買
クリスマスも近い真冬だというのに、その日は汗をかくほどに暑い夜だった。
ベッドから起き上がって部屋の灯りを点けると、私は窓辺にもたれる。眼下を通り過ぎていく自動車と街のネオンに視線を落としながら、なるほど、やはりこの”パパ“は相当に裕福なのだと改めて実感を得た。
「何浸ってるの?」
気付くとバスローブ姿のパパ——吉原さんが後ろに立っている。ああ、これは抱きしめてくるパターンだなと思うと、彼は予想通り私の身体にゆっくりと手を回した。
「浸ってなんかないよ。ただ、綺麗な夜景だなって思っただけ」
「そっか。ならこのホテルを選んだ甲斐があったよ」
言って、彼は私の背に頬を擦りつけてくる。彼はいつもこうだ。妻も子供もいて40代も手前だというのに、何の縁もない女子大生にこうやって甘えた素振りをする。毎週金曜日に行う援助交際がたった一つの安らぎだなんて、いくらお金を持っていたところで悲しくはないのだろうか。
夜景を見つめながらそんなことを思っていると、彼の手は少しずつ私の胸元あたりに近づいてくる。
「まだしたいの? 元気だね」
「別にいいだろう、これくらい。また来週、今度は今日より高いバッグ買ってあげるよ」
「えーどうしよっかな」
わざとらしいと自覚しながらそんな台詞を吐き、私は彼の方に向き直る。
男性というのは、どうしてこうも短絡的な思考しかできないのだろうかと考えたことがある。おそらく彼らはお小遣いやブランド物を”買ってあげている“とでも思っているのだろうけれど、金をもらって抱かせてもらうなんて、これ以上情けないことはない。
だから私はとことん彼を見下しながら舌を絡め、腰を振り、甘い声を出して抱かれる。都内の大手証券会社で働く高給取りの男をひたすら見下すことができるこの瞬間は、まるで彼という人間に勝ったような快感を得られるから。
私がパパ活を続ける理由はお小遣いやブランド物でもなく、ただこの瞬間にこそあるのだった。
明確にきっかけと呼べる出来事があったのかは思い出せないけれど、私がパパ活を始めるに至ったのはお金が理由ではなかった。
私が初めてパパ活をしたのは、大学一年の秋だった。
キラキラしたキャンパスライフを夢見て地方から上京した私は、一年生の春を終えた頃にふと思ったのだ。何か違う、と。
もちろん楽しいことや面白いこともたくさんあった。新入生歓迎会で色んな先輩や同級生に出会えたり、自分のアパートに友達を呼んで小さなパーティーをしたり、お昼になると弁当ではなく青山のお洒落なカフェに出かけたり。キャンパスライフという言葉を体現したような日々を送る中で、けれどふと思ってしまう瞬間が現れるのだ。何かが満たされていない気がする、と。それは出かけた後に家の鍵を閉めたのか思い出せない、といったような状況によく似た感覚だったけれど、とにかく得体のしれない”心残り"がいつも私の背後に付けまわっていたのだ。
一年生の頃は何が物足りないのだろうかとよく考えたものだった。奨学金と親からの仕送り、軽めのアルバイトで特に金銭的な不自由はなかったし、交友関係だってそれなりに良好だった。ではどうすればいいのだろうかと悩んだ末、最初に私が行きついたのが自撮り裏垢というものだった。
信じられないかもしれないが、その時点の私はまさか自分がパパ活を始める未来なんて一つも予想していなかったのだ。ただ単純に、馬鹿な男たちが囃し立ててくれそうなあざとい写真をSNSに投稿して、それに対する反応やどんどん溜まっていくダイレクトメッセージなんかで気持ちよくなっていただけ。けれどその行為が次第にエスカレートし、いつの間にか会ってくれたら食事を奢ってあげるという人が現れ、買い物に付き合ったくれたらバッグや財布を買ってあげるという人が現れ、そして寝てくれたらお金をあげるという人が現れただけの話なのだ。それが所謂パパ活と呼ばれる行為であると知ったのは、随分と後のことだった。
「はあ……」
ホテルから大学へ向かう電車に乗り、吊革を掴みながらふとため息を溢す。
吉原さんとはもう半年弱の関係だけれど、いつまで経っても翌朝に大学へ向かうのは憂鬱だ。しかしそれでも吉原さんの誘いを断らないのは、やはり彼が金を持っているということに尽きる。もらえるお金は多ければ多いほど良い。よりお金を巻き上げれば巻き上げるほど、その人に勝ったという感覚を得られるから。
その理屈でいくと、昨夜は中々に上々だったと言えるだろう。一泊5万円のホテルと先月に発売されたヴィトンの新作バッグ、それから少しのお小遣い。あの調子ならばあと半年は余裕で続くはずだ。
電車を降り、駅から五分ほど歩いたところでキャンパスに着く。土曜日の授業ということで平日よりも人は少ないが、講義室に入ると見知った顔が後ろの方でたむろしている。
「おはよう」
声をかけてから、そういえば、と思い出す。
そういえば、吉原さんの誘いをいつも断らないのは、土曜日の毎朝にはいつもこれがあるからだ。
「おはよー。えっ、それヴィトンのバッグじゃん」
「うん、まあね」
「ほんとだ、すごい高そう。どこで買ったの?」
「えっとね、新宿駅の近くだよ」
「これ新作だよね。いくらしたの?」
「うーん、覚えてないけど四十万くらいだったかな」
すぐに私は囲まれて質問攻めに遭う。
そうだそうだ、私が土曜日の講義を律儀に受けるのはこのためだったのだ。
女というのも男に負けず劣らずの馬鹿が多いもので、特にブランド物というのは彼女らの馬鹿な部分を最も曝け出すツールの一つと言えるだろう。口々に羨ましいと集まってくる彼女らを見て、私はふとポップコーンに群がる池の鯉たちを思い出した。
「もしかして、これも例の彼氏から?」
「うーん、それはどうだろうね」私はどっちつかずの台詞で答える。
「うわ絶対彼氏じゃん!」
「社会人の彼氏とかいいなー」
「彼氏さんどこ勤めてるんだっけ?」
「あんまり大きな声では言えないけど、IT系かな」
私が答えると、またあちこちから羨ましいという声が聞こえてくる。「別に羨ましがられるような彼氏じゃないよ。普通だよ」と思ってもいない謙遜を口にしたところで教授が部屋に入ってきた。
じゃあね、と皆は蜘蛛の子を散らすようにそれぞれの席へ戻っていく。こうして実在しない彼氏を語るのはこれで何回目だろうか。実際の私には恋人なんていないし、いるのは妻と子に隠れて女子大生と浮気するクズなパパだけだというのに。
禿げた教授の頭を眺めながらそんなことを考えて、けれどすぐに「まあ、いいか」という結論にたどり着く。
おそらく私に足りなかったのはこれなのだろう。優越感、特別感とでも呼べばいいのだろうか。実に形容しがたい感覚ではあるが、結局私は誰かを見下したいだけなのだ。そのためなら青髭の生えた中年とも寝るし、実際にはいないIT系の社会人彼氏だって仮想り出してみせる。
講義が進むにつれて、次第に教授の話題が脱線し始めた。興味のないマルクス経済学の話が終わると、教授は髪の少ない頭を掻きながら学生の就職について語りだす。
「いつから就活を始めるか、なんて学生が話しているのをたまに耳にします。一般的には三年生の夏が就活を始めるにあたっての定石ですがね、今ここで私が答えを言います。正解は”早ければ早いほどいい"です。二年生の夏から企業分析を始めてインターンシップに参加する。そんなの大変だと思う人もいるでしょう。しかし社会に出てお金をもらうというのは、皆さんが思っている以上にシビアなのです」
周りを見ると、真面目に講義を受けている人は少ない。俯いて船を漕いでる人もいれば、卓下でスマホを弄っている人などまばらだ。誰も教授のありがたい話なんて聞いていない。
「就活、ね……」
言って、私はふっと鼻で笑う。一言ばかりお願いするだけでお小遣いがもらえ、一度寝るだけでブランド品を買ってもらうというのに、就職なんて馬鹿馬鹿しい。朝から満員電車に揺られて夕方まで汗水垂らして働き、やっと手にするサラリーマンの月給を、私はたった一晩で稼ぐことができる。そう考えたら、就職に意欲が湧かないのも仕方がないことだろう。
沈みかけの船を漕ぐ学生を横目に、教授は話をまとめる。
「皆さんにも将来の夢というのがあったでしょう。そういう何かしらの原動力を持った学生は、就活において少なからず有利です。ぜひ希望の職業に就けるよう頑張ってください」
教授の話が再びマルクスのそれに戻ると、私は先ほどの言葉を心の中で反芻した。
将来の夢。私にも将来の夢なんてものがあったのだろうか。
しかしその問いに明確な答えが出るはずもなく、私の思考は将来の夢でもマルクスについてでもなく、次は吉原さんに何を買ってもらおうかというものに移り変わっていった。
私はつい昨日買ってもらったバッグに視線を落とすと、まるで愛犬でも触るような優しい手つきでそれを一撫でした。
〇
「将来の夢かい?」
翌週の金曜日。吉原さんに連れていってもらったフレンチ料理店で、私はふと彼に質問をした。
「そう、将来の夢。小さいころ、何になりたかったとか覚えてる?」
「そうだな……」
吉原さんは一度考える素振りを見せてワインの入ったグラスに口をつけると、「何の面白みもないんだけど」と前置きしてから窓の向こうの夜景に目を細めた。
「野球選手になりたかった、気がする」
「気がする? 気がするって?」
妙な言い回しに私は首を傾げる。
「言葉の通りだよ。確信が持てないんだ。自分が野球選手を目指していたのかって」
どこか遠くの景色を見つめる吉原さんにつられて、私も窓の方に目を向ける。このレストランがディナースポットとして人気なのは、何と言ってもこの夜景に理由がある。なにせ階数が50もあり、窓一面にビルの海を眺めることができる。
ぼうっと新宿の街に目を落としていると消防車かパトカーだろうか、赤い光が小さく点滅しているのが見えた。
「こう見えてね、俺は高校時代まで野球部だったんだ。小学校から足も速くて、球もそこそこ打てたから、漠然とした考えで『将来は野球選手になりたい』とか考えていたんだよ。入るならやっぱり巨人がいいなとか想像してさ」
でも、と吉原さんはそこで声のトーンを一つ下げる。
「でも、いつからだろうな、そんなこと考えなくなったのは」
呟くように言って、吉原さんは自分のグラスのワインを一気に飲み干した。しばらくしてウエイターが新しいワインを注ぎに来ると、それすらも飲み干してしまうのではないかという勢いでもう一度口をつける。
普段は目にしない飲みっぷりに私が少し呆気に取られていると、「君は何かなかったのかい?」と彼が先に口を開いた。
「何かを思い描いていたのは覚えているんだけど……」
「ほう」
「でもそれが具体的に何だったのかは分からないかな。看護師だった気もするし、幼稚園の先生だった気もする。ケーキ屋さんだったかも……」
私が頭を悩ませながら料理を口に運ぶと、「まあ、そんなもんさ」と吉原さんはまたワインを一口飲んで夜景に目を向けた。
「子どもころの夢なんて、覚えていられないのが普通だ」
「そうなのかな」
皿の上の料理がなくなって、私は手持無沙汰に窓の方へ視線をやった。深い夜闇の中で、街は動脈が波打つようにキラキラと光る。ふとそれが何かに似ているなと、私は思った。そうだ。小学生六年の夏休み、当時好きだった男の子と行った花火大会で、川に反射した花火の輝きがこんなふうな美しさだったのだ。
あの彼は今頃どうしているのだろう。考えて、けれど答えなど出るはずもないという結論に至る。今の私は彼の連絡先すら知っていないのだから。
新宿の夜景は七夕の日の天ノ川みたいに綺麗だった。
夜景を見つめるうちに、ふと窓に吉原さんの顔が反射していることに気付いた。夜景のどこか遠くを見つめて、私の視線にも気づかない様子でいる。
暗い窓に映っているからだろうか。その表情はどこか悲しく、私が今までに見たことのない様子にも見えた。
ホテルに着いて先にシャワーを浴びた私は、ベッドの上でさっき見た吉原さんの表情を思い出していた。
あんな表情の吉原さんは見たことがなかった。行為中に彼の奥さんから電話がかかってきたときも、私が待ち合わせに30分ほど遅れてしまったときも、彼は不機嫌な顔こそ浮かべても悲しみにふけるようなことはなかった。まさか私との関係が誰かに咎められたというわけでもなさそうだし、いよいよ意味が分からなくなる。
必死に思考を走らせていると、吉原さんがシャワーから出てきた。脇目にバスローブ姿の彼を見て起き上がろうとすると、彼はそのまま私と同じベッドに寝転がる。それから、腕で私の身体を抱き寄せた。
「今日は随分がっつくね」
私が茶化しても彼は何も言わない。ただ黙って、私の身体にべたべたと手を当てる。まるでそこに私がいるのを強く確かめるように。母親に抱きつく赤ん坊のように。
その日はいつにも増して激しい夜だった。
いいや、その日の吉原さんはいつもより激しかった、と言い表した方が適切だろうか。
暖房の効いた部屋の中で私と彼は少しばかりの汗をかき、体を重ね、その中で私は突拍子もなく”子どものころの夢"について考えた。
しかし男に抱かれながら思考がまとまるわけもなく、しばらくすると私は甲高い声で喘ぎ、熱く舌を重ね、腰を動かすことだけに集中し始めた。
そう、今は目の前のことに集中するだけでよかった。この瞬間だけ、この瞬間だけが私を満たせる唯一の時間だ。高給取りで妻と子供もいる大の大人が、私に向かって必死に体を動かしている。そういえば来週はクリスマスだ。今度はシャネルのウォレットを買ってもらおう。そうしたらランチの会計のとき、みんなが私に向かってこう言うのだ。それシャネルの財布じゃん。羨ましい、と。
彼に抱かれている間、私はいつだって満たされていた。足りないものなんて何一つなかった。ただ次に買ってもらう物のことなんかを考えて、時間が過ぎていくのを考えていればいいだけだった。
しかし、その日は少しだけいつもとは違かった。私の思考にはある一つのフレーズが、浴室の赤カビみたいにこびりついてずっと離れないでいた。しかもそれは厄介なことに、擦れば擦るほど乾燥した肌のように赤みを増していくのだ。
子どものころの夢。
私は体を重ねながら、ひたすら時間が経つのを待った。適当に声をあげながらうっすらと瞼をあけて、ふと、カーテンの隙間から細く切り取られた新宿の夜景を見た。
ラブホテルから覗く夜景はレストランから眺めたそれよりも随分と黒いように見えた。まるで夜中の海みたいに深く、冷たい黒だ。私はつい数時間前にこの景色を”川に反射した花火の輝きに似ている"と形容したが、今やその表現に自信が持てなくなっている。今はただ深く、全てを飲み込むばかりの夜闇が東京の街を覆っているように見えた。
深淵を見つめるようにして、私はしばらくその景色をじっと見つめていた。吉原さんはより一層激しさを増していった。そのうち私は、かつて幼馴染と訪れた花火大会の光景を、いつの間にか思い出せなくなっていることに気付いた。
〇
それから一週間が過ぎてクリスマスがやってくると、私はとびきりにお洒落な服装に身を包んで街へ出かけた。まるで新しい長靴を買ってもらった子どもが、雨の日に家を飛び出していくみたいな無邪気さで。何と言っても今夜はクリスマスなのだ。吉原さんの財布も、いつもより緩くなっているに違いないと、そう思って。
浮ついた気分で家を出ると、待ち合わせ時間より三十分も前に新宿へ到着してしまう。
スマホに目をやるとまだ五時だった。けれどすでに駅前のイルミネーションはライトアップされ、そこかしこで恋人同士と思われる男女が「ごめん待った?」「いや、今来たとこ」などと言葉を交わしている姿が散見できる。その光景は今日がクリスマスであるという事実を私に再認識させた。
「はぁ……」
駅のロータリーを眺めながら、空いている柱に背中を合わせて白いため息を吐く。
何を落ち込んでいるのだろうか。今日はいつもより楽しいことが待っているというのに。
しばらくそうしていると隣にいた男がスマホを耳に当て、「あ、そっちいるの? じゃあ迎えに行くね」と立ち去って行った。すると冬らしい冷たい風が吹きつけて、私はコートをより深く羽織りなおした。
駅の時計はまだ十分も進んでいなかった。待ち合わせ時間まではまだ長い。どこか適当なカフェやコンビニにでも入っていようかと歩き出すと、背後から聞いたことのない、けれどどこか懐かしさの感じる声音で私の名前を呼ぶ人がいた。
「ちょっと待って」
振り返り、その人物がかつて私が好きだった幼馴染――カイくんだと気付くまでに若干のラグがあったのは、彼の格好が昔のそれとは随分と異なったものになっていたからだ。すっかり背丈は大きくなり、子供らしく甲高かった声は落ち着いたものに変わっている。その大人びた姿が私の知っている彼とは大きくかけ離れており、一瞬誰なのか分からなくなってしまったのだ。
五年以上ぶりに言葉を交わすカイくんは現在、この近くの私立大学に通っているらしかった。まさかこんなところで再会できたことにも驚いたが、何より私が驚いたのは彼と私の距離感だった。中学卒業から話していないというのに、私たちはまるで昨日も会っていたような調子でお互いの近況などを語り合うことができた。
「上京してたなら連絡してよ、カイくんたら」
「普通わざわざ連絡しないでしょ。いきなり『俺東京の大学行くんだぜ』っていうのも気が引けるし」
「それもそっか」
私は手のひらで口元を覆い、白い息を吐く。心なしか、その吐息はさっきよりも白っぽいように見えた。
「じゃあ、これからは何かあったらちゃんと私に連絡してよ。心配だから」
「お前は俺のかーちゃんかよ。まあ別にいいけどさ」
「やったー」
きっとこのときの私は浮かれすぎていたのだと思う。クリスマスという特別な日に過去の想い人と再会し、それが何かしらの運命的な何かであると、愚かにも勘違いしてしまったのだろう。
実際それは何かしらの運命だったのかもしれない。けれど運命というのが必ずしもいい方向にだけ作用するとは限らず、時としてそれはある種の天罰のような働きをすることもあるのだと、私はこのとき初めて実感することになった。
何かのツケでも回ってきたように、背後から「ごめんね」と駆け寄る声があった。
「ごめん遅れちゃった」
「あ、ユミ。いや、俺も今さっき来たとこ」
「そう、ならよかった」
現れたのは同い歳くらいの女の子だった。ベージュ色のウールコートを羽織り、プチプラで売っていそうなベレー帽をかぶっている。
彼女が私に向き返り「ええと」と首を傾げると、カイくんが「中学時代の友達だよ」と私を紹介した。「どうも」と小さく会釈をする彼女に対して、私も同じように頭を下げる。
「この子は同じサークルのユミ。一応だけど俺の彼女」
「ちょっと。”一応"ってなによー」
ユミと呼ばれた彼女は持っていたバッグで彼のことを軽く叩く。
「ごめんごめんって」
「そういうこと言ってると、私もう帰っちゃうからね」
「いやいや勘弁してくれよ」
二人のやり取りに呆気に取られていると、カイくんが気が付いたように声をかけてくる。
「俺たちこれからクリスマスケーキ買いに行くんだよ。こいつがどうしても食べたいっていうからさ」
「カイトだってケーキ食べたいって言ってたじゃん」
「それはあれだ、話を合わせたんだよ」
反論する彼女から逃れるようにして、カイくんは私に質問を投げかける。
「そっちはこれからの予定どうするの?」
「え」
言われて言葉に詰まる。
「誰かと待ち合わせ?」
「いや、えっと」
私は彼から目を逸らす。
あれ、なんで私はここにいるんだっけ。
「これからバイト?」
「…………」
『これからパパ活の相手と会って色んなものを買ってもらう』
そんなこと、言えるはずがなかった。
……あれ、なんで言えないんだろう?
腹の底からこみ上げる嫌悪感を感じ、私は口元に手を当てた。気を抜けば、今にも何かを吐き出してしまいそうな感覚だった。
「どうした、大丈夫か?」
カイくんが心配した様子で私の表情を覗き込んでくる。
これ以上はまずいと思い、私は適当な理由を言って二人の側を離れた。
彼は最後まで怪訝そうな面持ちで私のことを見ていたが、「これから彼氏と待ち合わせだから」と言い聞かせると、しばらくしてその場を去った。
二人が駅のコンコースに消えていくのを見守っていると、さきほど自分で言った”彼氏との待ち合わせ"という言葉がひどく心の内に響いた。待ち合わせる恋人なんて、どこにもいないのに。
私はすっかり手持無沙汰になって、ふと足元に視線を落とす。すると自分の手に提げられたルイ・ヴィトンのバッグが目に入った。値段の高さが伺えるほどの艶がある黒。イルミネーションの光を受けてピカピカと光沢を放つそれはとても美しいはずなのに、見つめれば見つめるほど心の中の虚しさは膨れ上がっていく。
「おまたせ。こっちこっち」
すると、駅構内の人混みからこちらに手を振っている人物に気付く。それが吉原さんだと分かると、なぜか私の足がすくんだ。何かがおかしいと思った。おかしい? いったい何が? 変なことなんて何一つないはずなのに。
吉原さんはだんだんと近づいてくるが、私の足は一向に動かない。
「ごめんごめん、待たせちゃった?」
私は俯いたまま、まるで何かにしがみつくようにバッグの持ち手を強く握りしめる。
吉原さんは私の顔を覗き込んで「どうかしたの?」と首をかたむけた。
「…………」
何も答えられないでいると、吉原さんは「とりあえず人の少ない場所に出よう」と私の手を掴んだ。
それが何かのきっかけだったのかは分からない。
彼の手が触れたことで嫌悪感が限界に達したのか、それとも嫌悪感が限界に達しようとしているタイミングで彼の手が私に触れたのか。
けれどいずれにせよ、彼の手が私に触れた瞬間、私は自分でも驚くような速さでその手を振り払っていた。
「えっ」
彼の呆気にとられた表情が目の隅に映る。私は何も言わなかった。
何かを言おうと口をパクパクさせた吉原さんの姿を最後に、私は踵を返して駅の構内を走り出した。まるで何か恐ろしい存在から逃げるように。できるだけ速く、できるだけ遠くへ行こうと足を走らせた。
クリスマスの新宿駅は人々で溢れかえっていた。家族連れやケンタッキーの箱を持ったサラリーマンに何度もぶつかり、手を繋ぐカップルの間を走り抜けて大通りに出る。遠く後ろの方からは吉原さんの声が聞こえた。待って、待って。どうしたんだ。話を聞く。そんな内容の言葉だ。私はその声を無視して走り続けた。色鮮やかに輝くイルミネーションの大通りを駆け抜けて、白い息を吐きながら、無我夢中になって家まで走った。耐えきれずに何度か吐き出す場面もあったが、それでも私は走り続けた。
家に着いたのは七時過ぎくらいだった。シャワーも浴びずにベッドへ飛び込むと、スマホにいくつかのメッセージが届いていることに気付く。吉原さんからだった。
『ごめんね、何かあったの?』
『何か気に障ったのなら謝りたい』
『俺でよければ力になるよ』
それらのメッセージに一通り目を通すと、私は落ち着いた手つきで画面を操作して彼の連絡先をブロックした。力になる、なんて要するにお金やブランド物を買ってくれるというだけなのに。
私は今度こそベッドに横たわり、眠りの姿勢に就いた。黒ずんだ天井を見つめながら、そういえば金曜日にこうして自宅で眠るのは久しぶりだなと、どうでもいいことを考えながら眠った。
眠りの中で、私はおかしな夢を見た。
夢の中には、ランドセルを背負った私がいた。当時流行っていたアニメのキーホルダーをぶら下げて、お母さんに買ってもらったベージュ色のワンピースを着ている。その様子は夢というよりも回想に近く、まるで記憶を焼きまわしているような現実感を帯びていた。
「しょうらいの夢ってある?」
そう言って幼いわたしに声をかけるのは、まだ声変わりもしていない頃のカイくんだ。二人は公園のベンチのような場所に並んで腰かけて、ぶらぶらと足を遊ばせながら話す。
「わたしはね、お花屋さんになりたいな」
「おはやなさん?」
「そう。お花を育てるの」
カイくんは「つまんなそう」と茶化した口調で言い、幼いわたしは「楽しいもん」と頬を膨らませて彼を追いかけまわした。公園を走り回る二人の姿を見て、そういえばこんな出来事もあったなと、私の胸は懐かしさでいっぱいになる。
そっか。私はお花屋さんになりたかったんだ。どうして忘れてしまったんだろう。こんなに楽しそうな表情で話していたのに。
気付くとカイくんはいなくなっている。代わりにブランコに誰かが座っているのを見つけ、私は彼に話しかけた。半袖短パンの男の子だ。片手には野球グローブをはめている。彼も小学生くらいだろうか。
彼の顔に見覚えはなかった。けれど私はその表情を見ると、彼が誰なのかを自然と理解することができた。
「吉原くん、こんにちは」
私に気付いた彼はこちらに向き直り「よっ」と挨拶を返す。
「誰かと待ち合わせ?」
「そう。これからカンタローと野球しにいく」
「得意なの? 野球」
「まあね。俺足も速いし。この前の運動会だってさ、ぶっちぎりの一番だったんだよ」
「すごいね」と私が小さく手を叩いて拍手して見せると、彼は照れたようにして笑った。
するとそこへ「おーい」という声が聞こえてくる。
「あ、カンタローだ。俺もう行かなくちゃ」
彼はグローブを手にしてブランコを立つ。公園の外へ駆けていく彼の背に向けて、私は「いってらっしゃい」と手を振った。それから、ついさっきまで彼が座っていたブランコに腰かけて落ち着く。体を前後に動かすと、ブランコのチェーンはどこか錆付いた音を出しながら揺れ動いた。
これはどこまでいっても私の夢の中でしかないけれど、きっと実際の彼にもこのような時代があったのだ。何も知らないまま夢を描いて、無邪気にそれを追っていた時代が。
誰にだってそういう過去があるのだと、私は夢の中で強く思う。女子大生と援助交際を繰り返す妻帯者にも、そんな彼にくだらない理由で身体を売ってしまう女子大生にも、それぞれの夢を思い描いていた過去があったのだ。
白夜のような夢に取り残された私は、朝が来るまでブランコを漕ぎ続けた。
そこにはルイヴィトンのバッグも私を褒めたたえる友人もいなかったけれど、足りないものなんて何一つなかった。私はそこにいるだけで、どこまでも満たされるようだった。
〇
翌朝に目覚めると、私はバスに乗ってある場所へ向かった。
年の瀬が近いということもあって、バスの車内に人影はまばらだった。明らかに会社へ向かうであろうスーツ姿の男性もいれば、おかっぱ頭の少女を腕に抱えた主婦、制服姿の学生などもいる。
私はなぜか座席につく気分になれず、吊革につかまりながら車窓を流れていく景色に目を向けていた。関東特有の澄んだ青空から朝の陽光が降り注ぎ、それはクリスマス翌日の街並みを白く輝かせている。雪は降っていないけれど、もしかしたらこういう光景をホワイトクリスマスというのではないかもしれない。そう思うほどに窓の景色はきれいだった。
「あいつ、マジでまだバレてないとでも思ってんのかね。これ見よがしにブランド物ばっかり持ってきてさ」
「彼氏が買ってくれるらしいけどさ、一体どんな彼氏って話だよね。私たち一回も見たことなくない?」
「いるわけないじゃん、あんなやつに。パパ活だよ、パパ活。援助交際。キモくて臭いデブおやじに抱かれてんのよ」
すぐ後ろの座席からそんな会話が聞こえて、私は振り返った。
そこにいたのは二人の女子大生だった。しかしその両方とも、顔に見覚えはない。
二人は大声で話していたのが私の気に障ったのだと勘違いしたらしく「すみません」と軽く頭を下げ、しばらくして次の停車駅に着くと足早にバスを降りていった。
機械的な車内アナウンスが次の駅名を告げて、バスはまた動き始める。おしゃべりな彼女たちがいなくなったせいか、喧噪に紛れていた雑音が一気に現れ始めた。バスのエンジン音、歩行者用信号機の警報音、座席の軋み、吊革の擦れる音などだ。それらの雑音に耳を澄ませながら、私はさっきの女子大生たちの言葉を反芻する。
ブランド物、彼氏、いるわけない、パパ活、援助交際、おやじ。
あらゆる言葉が浮かび上がり、それらは洗濯機みたいに私の思考をかき混ぜる。ぐるぐると三周ほどそれらの言葉を繰り返したところで、けれど私はふと考えるのをやめた。まるでまだ回っている洗濯機から服を取り出すような唐突さで。
きっと、どれだけ洗っても落ちない汚れというのがこの世には存在するのだ。どんなに磨いても中古品はどこまでも中古品であるように、一度失ってしまったらもう二度と取り戻せない何かというのが確かにあるのだ。
私は窓の景色を見るのにも飽きて、ふと顔をあげた。自然と目についた車内広告——「若いだけが取り柄なんて、悲しいと思いませんか?今から間に合うキャリアアップ講座!」といういかにも胡散臭い文言を見て、私は自嘲するみたいにふっと鼻で笑った。
目的地は郊外に位置する山奥だった。
避暑にちょうどいい夏や紅葉の見ごろとなる秋はハイキングやキャンプを楽しむ家族連れで溢れかえるその場所も、年末の近い今日では閑散としていた。しかし別に私はここへ観光に来たわけではないし、むしろ人が少ないことは私にとって都合がよかった。
山道をしばらく歩くと、私は脇道に逸れてひらけた場所に出る。周囲の枯れ木や枝などを集め、見つかったら怒られるなんてものじゃ済まないだろうなと思いながら、私はそこにライターで火を点けた。乾燥した空気のおかげもあって、すぐにそれはパチパチと小気味よい音を立て始める。
火種が焚き火と言えるほどに成長すると、私はそこへ自分の持ってきたバッグ——かつて吉原さんに買ってもらったルイ・ヴィトンのバッグを投げ入れた。
大きな土煙と火の粉を巻き上げ、それは一瞬にして燃え上がる。バッグの中に入れておいたポーチや財布、腕時計やネックレスなどもすぐに炎で包まれた。あんなに必死になって体を売り、あんなに途方もないお金を出してもらったというのに、手放すのは呆気ないほどに簡単だ。
炎はバッグから生気を吸い取ったようにより一層強い勢いで燃え上がる。その様子は死骸に集る死出虫のようでもあったし、母親からクリスマスプレゼントをもらって喜んでいる子どものようでもあった。
そうだ。私だって、私たちだって、きっと昔はルイ・ヴィトンのバッグも理想の恋人も要らなかったのだ。ただクリスマスの日には家族で食卓を囲んで、いつもよりほんの少し贅沢な夕食を楽しんで、みんなでプレゼントを開ける。それだけで十分だったのだ。
炎の中がすっかり真っ黒になると、私は近くのキャンプ場からバケツ一杯分の水を持ってきてそれをぶち撒けた。白い煙を上げて炎はすぐに消える。そこにはルイ・ヴィトンのバッグなど見る影もなく、真っ黒の何かが残るだけだった。それを拾い上げようとしたところで、ふと首筋にひんやりとした感覚があった。私は何気なく空を見上げて目を凝らし、それが真っ白な雪であることに気付いた。
純心売買 古蜂三分 @hachimi_83
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