眠れる月の美女

よぎぼお

第1話

「ねえ、キミ。行こうよ、終着駅に、一緒に」


 八月三十一日。時刻は二十一時四十分。

 閑散とした車内で、彼女はそう言って笑った。ボクたち二人しか乗せていないこの電車は、またひとつ長く細いトンネルをけたたましい音を立てて通過した。


「嫌?」


 彼女はわざとらしく首を傾げる。その振る舞いは妙にこなれていて、制服という学生の象徴物に彼女が袖を通しているのは、あまりにもアンバランスのように思えた。


「いいよ、行こう」

「……いいの?」

「いいさ。だけど、まずボクの質問に答えてくれ。どうして君は終着駅なんかに行きたいんだ? それに何故ボクを誘った? 君は何故――」

「ああ、それ禁止」


 彼女はボクの澱みなく出てくる質問に「ストップ」と静止した。


「君じゃなくて、夕夏。あと、私からもひとつ質問。どうしてキミは、そんなに簡単に私の誘いに乗ってくれたの?」

「どうして……って」


 確かに何故だろう。

 よくよく考えてみれば、こんなに怪しい人物なんて中々いない。初対面の男に、いきなり「一緒に終着駅に行かないか」なんて冷静になって考えてみれば気味が悪い。


(だけど……)


「やり残したことがあるから」


 ボクは言った。


「やり残したこと?」


 彼女は首を傾げる。


「そう、ボクはやり残したんだよ。かけがえのないたった一度しか訪れない十七歳の夏休みをね。もう今日は八月三十一日だし時間がないんだ。だから」


 ボクはニカッと笑った。


「ボクは君――夕夏に賭けてみることにしたんだ。夕夏と一緒に出掛けみれば、それはきっとうーんと楽しくて、ボクのこの寂しい夏休みに、少しはいい思い出を残してくれそうだと思ったからさ」



 ♢




「ここが……終着駅……」


 そこには何もなかった。強いてあるものを挙げるとするならば、蛾が集まった蛍光灯とメッキがはがれたベンチくらい。

 車掌に何か言われるかもしれないと身構えていたが、実際はそんなことなく、車掌はボクたちが電車から降りると、どこかへ暗い顔をしながら去って行ってしまった。

 どこからともなく蝉の泣く音が聞こえてくる。


「一旦、ホームから出ようか」


 ボクは彼女にそう声を掛けた。

 この何もないところにいたって、無駄に時間を食うだけだ。彼女は黙って頷いた。

 携帯が先程から凄い通知の音が鳴り響いている。母さんと父さんからの連絡だろう。今日は友達の家に泊まるって言ったのに。


 ホームから出ると、一気に闇の中に入った気がした。人工物の温もりが薄くなり、恋しくなった。


 彼女は沈黙している。第一印象ではよく笑うおしゃべりの子だと思っていたが、実際のところではそうはないのかもしれない。


「あのさ」


 ボクは尋ねた。まだ彼女に最初にした質問の答えは貰っていなかった。


 彼女はなぜ終着駅に来たかったのか。

 彼女はなぜ初対面のボクを誘ったのか。

 そして、彼女は何者なのか。


 彼女に聞きたいことは山ほどあった。だけど、彼女はボクの問いには困ったように笑うだけで、一向に答えを教えてくれることはなかった。


 自分でもとんだ馬鹿な人間だと思う。

 こんな得体の知れない少女に身を任せ、電車に乗って、こんなところまで来てしまった。もしかしたらボクは将来、詐欺でいいようにされてしまうのではないかとふと思った。綺麗な女性に騙され、破産して、孤独死してしまうのだ。でも、そんな未来も悪くないなと思った。その女性がどこかで笑って暮らしているなら、ボクはどんなに苦しくたってかまわない。

 そんなことを許容してしまう自分が自分で嫌になるけれど、ボクはボクで、ボクだ。そんなボクのもとに生まれてきてしまったのだから仕方がない。


「あそこ」


 彼女がふと手を伸ばした。彼女の見つめるその先には、小高い丘があった。そこに行きたいのかと問う。彼女はこくりと頷いた。


「じゃあ、行こうか」


 ボクは彼女の手を取る。彼女は何も言わなかった。彼女の手は、ボクが思ったより随分と冷たかったけれど、それでもボクは満足だった。

 腕時計をちらりと見る。時計の短針は十一と十二の間を指していた。

 きっと、ボクは悪い子なのだ。


 ボクのひと夏の最後の

 冒険がはじまろうとしていた。



 満天の星空がボクらを見下ろす。その端には痩せ細った月の姿があった。


「暗いね」


 沈黙を埋める無意味な質問。満天な星空なのだから少しは明るいはずなのにこの空気感にボクは耐えられなくてそう言った。できれば「この沈黙すらも、心地いい」なんて洒落た長く連れ添ったおしどり夫婦みたいたことを思って言ってみたかったりしたけれど、あいにくのところ僕と彼女は、二時間ほど前に出会った名前しか知らない、いわば殆ど他人の関係で、ボクらにとってそんな言葉は重すぎる。


「まあここ、都会じゃないしね」

「田舎ですらない」

「山の中だ!」


 そして、どちらともなくはははっと笑った。二人を包み込む空気が少し暖かくなった気がした。


 「もう少しで着くよ」


 さきほど彼女が指さした丘はもう目の前に迫っていた。



 丘につくと、そこは開けた場所だった。足首くらいまで雑草が生えているだだっ広いだけの場所。彼女はうーんと大きく伸びをする。


「ありがと」


 そして彼女は突然言った。


「ありがと、私をここまで連れてきてくれて、ホント感謝してる。でも、ここでお別れだ」


 そして彼女は小さく胸元でバイバイと手を振った。ボクは彼女が何を言っているのか全く分からず、「どういうことだよ」と詰め寄った。だけど、彼女は哀しそうに笑うだけで、彼女がハッキリとした答えを示してくれることはない。


「君はずっとそうだ」


 ああ、そういえば君呼びはダメだったなと気づく。だけど、そんなこと気にしている余裕はなかった。だって彼女は今にも泣きそうで、辛そうで、弱々しかったから。なのに、ボクの声は荒ぶっていて。何酷いことをしているんだ、と自分で思うけれど、それでも彼女の言葉の真意を確かめるには、この方法しかなかった。


「これまで、君はずっと何も言ってこなかった。自分のことは隠して、隠して、隠して。そして突然何かを言ったと思えば『お別れだ』なんて。どういうことだ。ボクにはさっぱりわからないよ」


 最後の方ははあはあと息切れしてしまった。なにぶん怒ることに慣れていないのだ。怒り方の作法などもちろん知る由もなかった。

 ただ思いのままに、声を荒らげ、叫び、睨む。

 それが今のボクの限界だった。


「だって……だって……」


 彼女は、どうにか一生懸命言葉を紡ごうとする。だけど興奮か焦っているのか知らないが、一向に言葉は出てこない。


 それを見て、ボクは、自分は何をしているんだ、と気づいた。幼い少女を言葉と態度で圧力をかけるなんて、そんなの最低な人間がやることだ。


「悪かった」


 ボクは冷静さを取り戻して頭を下げた。


「キミは悪くない。悪いのは私だよ」

「いや、ボクのせいだ」

「違う! 私が、私が何も言わなかったから」


 そして彼女は突然「誰にも言わないと約束してくれる?」とボクの耳に顔を近づけた。

 彼女の吐く吐息がボクの耳にかかる。ボクの体が硬直した。それでもなんとか小さく頷く。彼女は「じゃあいいよ」と小さく笑った。


「ごめんね、今まで黙っていて。本当は教えてあげたかったんだけど、キミの今後の人生を考えると教えない方がいいかななんて考えていた。でも、違った。キミは強い人間だ。私が思っていたよりずっとずっと強い人間なんだ。だから教えるよ。それにここまで私を信じてきてくれたキミに何らかの礼はしなくちゃいけないとは思っていたしね」


 そして彼女は囁くような声で言葉を続けた。



「実は――私、罪人なんだよ」



 ザイニン。それを漢字で変換するのに数秒を要した。そして、その変換が終了した瞬間、ボクは飛び跳ねるようにして彼女と距離をとっていた。

「まあそうなるよね」と彼女は笑った。


「君が罪人……?」

「そうだよ」


 彼女は答えた。


「と言っても、地球で罪を犯したわけじゃないけどね。月で罪を犯し、地球に六十年間の流罪を言い渡された永遠の十七歳。それが私――此花夕夏。どう、驚いた?」


 驚く驚かないの騒ぎではない。

 月で罪を犯した? 地球に流罪できた?

 彼女に尋ねたいことは両手で数えても指が足りなかった。すると、彼女は「ねえ」と問う。


「キミはかぐや姫の話を知ってる?」


 かぐや姫。……竹取物語か。一人の翁が竹を切っているとある日、小さな少女が現れて、だけど、結局月に戻ってしまうというお話。


「私、ビックリしたんだ」


 彼女は目を細めて、どこか遠くを見つめた。


「だって『かぐや姫』のお話がおとぎ話として扱われているんだもん。実話なのにね。せっかく、昔の人が大事な資料として残してくれたのに」


 現代人は頭が固いみたい、と彼女は続けた。

 そうやって喋る様は、普通の地球生まれのヒトとなんら大差なくて、彼女が月生まれというのは、どうにも信じがたかった。


「キミが宇宙人……?」

「宇宙人じゃないよ。月人、月人」

「それを宇宙人と言うんだ」

「やだなぁ、キミだって自分が宇宙人と言われたら嫌でしょ? だってキミは地球人だから」


 なんとなく彼女の言いたいことはわかった。所詮、宇宙人か宇宙人じゃないか、というのはそれを決めた人のただのエゴで、実際はそんな単純ではないのだ。暑いとか寒いとか。大きいとか小さいとか。そんな簡単な二元論に帰着できるほど、この問題は単純じゃない。


「キミが月人だと言いたいのは分かった。だけど、根拠はなんだ。根拠を示してくれないと、ボクはそれを信じることができない」


 すると彼女は「驚かないでね」と前置きをした上で「お願いします」と天に向かって小さく告げた。


 その瞬間、ボクは信じられない光景を目の当たりにすることになる。

 なんと、天から一台の牛車が降りてきたのだ。

 ボクは目を疑った。一体いま、自分の前で何が起こっているのか、何がどうなっているのか、一般サイズの脳のボクではどうにも理解することができなかった。

 牛車は、彼女の側に来たところでゆっくりと停車した。


「分かってくれた?」

「……うん」


 ボクはこの現実を認めざるを得なかった。

 テレビでやるようなマジシャンに、到底このような芸当ができるとは思わなかった。どんなトランプマジックもステージマジックも、こんなのを見せられたあとじゃ、きっとそれらは子供のままごとのように思えてしまうだろう。


「じゃあ、キミは本当に罪を犯して、地球に来たということなのか?」

「そうだよ」

「その罪の内容を聞くのは……ルール違反か?」


 自分でも、とんでもない回りくどい表現を使うなと思った。だけどこれしか方法はなかった。

 だって、目の前のこの混じり気のない純粋な瞳を持つ少女が、罪を犯しただなんて、彼女が月から来たということを信じるよりも何倍も難しかった。彼女は困ったように笑う。


「この地球という中でも、日本という特に素晴らしい国に生まれたキミは分からないかもしれないけど」


 彼女は言った。


「世の中にはね、とんでもないことを考える人がいるんだよ。それで、そのとんでもないことに巻き込まれちゃったって感じかな」


「ごめんね、詳しいことは言えないんだけど」と彼女は続けた。


「……大変だったんだな」


「でも、悪いことばっかりじゃなかったよ。流罪と言っても、ただ月での生活を許されないだけで、地球では割と自由に移動できたし。特に日本の人にはよくしてもらったよ」


 日本の人にはよくしてもらった。素晴らしい国だった。彼女は日本をこう表現してくれた。だけど、月はそんな場所を流罪の地に選んでいるわけで。その思惑とは一体なんなのだろう。

 そのことを尋ねると彼女は笑って答えた。


「月側にそんな深い思惑なんてないよ。キミだって、いくら素晴らしい場所だと言われたって、千年前の世界にタイムスリップしたいとは思わないでしょ?」


 それはつまり……。

 その先の言葉を考える必要はなかった。ボクはすぐに理解した。月は地球よりも千年分もの文明が発達しているんだということを。


「でもね、住めば都って言うのかな。今はこの地球のことが大好きなの。こんなに別れるのが悲しくなっちゃうくらいにね」


 彼女の瞳から一粒の涙が零れた。

 牛車の牛がモオーと泣く。それはまるで、彼女とボクとの別れの警笛音のようでボクは急に不安になって、彼女を握る手に加える力を強めた。

 彼女はふざけたように「そんな強く握られると照れちゃうよ」と言った。


「ま、これくらいで以上かな。そろそろお別れの時間」

「待って!」


 気づいたときには、ボクは彼女を呼び止めていた。彼女は驚いたようにボクを見上げる。


「……なに?」

「キミは、夕夏はなぜボクをここまで連れてきた?」

「…………どういうこと?」

「ここまで来ることくらい、一人だってできたはずだ。なぜ、ボクを誘った?」


 すると、彼女は目を閉じて大きく息を吸った。いままでで一番長い沈黙がこの場を支配した。


「なんでかなぁ、ま、理由はいろいろあるんだろうけど」


 彼女はぽつりと呟いた。


「寂しかったから、そう答えるのが一番正しいのかもしれない」

「寂しかった……?」

「そう。だって私は地球人じゃないから、地球人と同じ歳の取り方をしない。言ったでしょ、永遠の十七歳だって。もちろん、永遠というのは比喩だけど。地球人からみれば、それくらいの時間感覚で月の時の流れは動いている」


「だからね」と彼女は続けた。


「定期的に、いままで住んでいた場所を捨てなきゃいけなかったんだ。ほら、ずっと同じ身長、同じ体重だと色々疑われるじゃない? それに両親も、親戚もいない。長く暮らし続けるとボロが出る。だから、私はいままで何度も何度もたくさんの人と出会って別れてきた」


「それで?」


「うーん、言葉で説明するのは難しいんだけど、最後、今日、地球と別れるってなった日。急に怖くなっちゃったんだよね。誰も私に『さようなら』を言ってくれないこの現実に。その時、キミに出会った。眠そうにして電車で揺られるキミをね。ビビッと来たよ。そして、なんでか分からないけどキミに声を掛けてた」


「自分でもよく分からないや」と彼女はてへへと頭をかいた。


 そして、その答えを告げたと同時に、ボクが知りたがっていた彼女にかんする問いはなくなった。彼女は全てをボクにさらけ出してくれたのだ。それは、ボクらの別れを阻むモノが何もなくなったことを意味していた。


「じゃ、これくらいでいいかな?」

「……うん」

「………引き止めてくれないんだ」

「君が許してくれるなら」


 彼女はこくりと頷く。その瞬間、ボクは彼女の手を引き寄せていた。彼女はわんわんとボクの胸の中で子供のように泣いていた。ボクも泣いた。互いに、互いを慰め合い涙を濡らしあっていた。


 世界はゼロとイチの二進法でできているのかもしれない、ある偉い数学者はそう言ったそうだ。だけど、今のボクならそれに反論できる自信があった。きっと世界はゼロとかイチとかそんな感情のないつまらない無機物でできているのではなく、ボクと彼女という二人で構成されているんだ、ってね。根拠はない。だけど自信はあった。これはきっと、数学におけるいわゆるミリオネア問題で、誰にも証明できっこないのだ。


 ボクと彼女は、暫くの間、涙を流しつづけていた。


「おかしいよね。流罪できた場所から離れることがこんなに悲しくて泣いちゃうなんて」

「おかしくないさ。夕夏はおかしくない」

「おかしいよ」


 そして、彼女は、はははと力なく笑った。彼女のこの顔を見るのが辛かった。


 牛車の牛がまた鳴いた。


「ゴメンね、最後に変なこと言っちゃって。でも、ありがとう。私はキミのお陰で元気に月に戻れそうだよ」

「……そう、か」

「なに泣いてるの? 笑ってよ。私が刑期を終えて、祖国の土を踏みに行くんだよ?」

「でも……ボクは……夕夏と離れたく……」


 そこまでいったところで、彼女はあっと思い出したように言って、何かを取り出した。そして、それをボクに手渡す。


「どうぞ」

「……何これ?」

「きびだんご」


 彼女はすぐに「冗談」と付け足した。


「不老不死の薬。かぐや姫もお爺さんとお婆さんに渡していたでしょ?」

「それをボクにくれるのか……?」

「うん、だってキミに会いにきてほしいから」


「私は待つよ。何年も、何十年も、何百年も」と彼女は言った。


「今から、私は天の羽衣を着る。そうすると私は、地球上での記憶を失うーー」

「……え?」

「驚かないで。仕方のないことなの。だけど、これは完全なる記憶消去じゃなく、なんて言えばいいのかなぁ。頭の奥の奥の奥に鍵を閉めて閉じ込めるイメージ。だから、ある鍵さえ手に入ればその記憶は取り戻せるーー」

「その鍵って――」


 ボクはごくりと唾を飲み込んだ。どうにかして彼女の記憶を戻す方法が知りたかった。だけど、そんなボクの真剣な表情とは対照的に、何かを企むように彼女は言った。


「どうしようかなあ、眠れる月の美女を目覚めさせるのは、やっぱり誓いのキスとか?」

「……本当?」

「抱き締めるだけだと、記憶回復は半分のみです」


 そう言ったあと、彼女は、はははっと笑った。


「冗談だよ。本当は地球人と目を合わせるだけで、私の記憶は復活する。だから誓いのキスはいらないよ。まあ、あったにこしたことはないけど。とりあえず、私の言いたいことは」


 彼女は「はい」と手を差し出した。


「たすけにきてね、王子様?」

「……ああ」


 彼女は、「一度やりたかったんだ、このやり取り」と嬉しそうにはにかんだ。


「じゃあこれで、ほんとにほんとに最後のお別れだ」


 牛車の扉が開く。

 そこには、さきほど彼女が言っていた天の羽衣があった。見るからに分かる、質感の良さそうな羽衣。それを彼女はよいしょと取り出す。薄い薄い羽衣だけど、ずっしりとした見た目。


「着るね」


 彼女は最後に一言、そう言った。

 ボクに迷いはなかった。ボクは笑って頷いていた。だって、ボクには自信があったのだ。根拠のない、だが確信同然の自信。

 ボクは、将来これからいっぱい勉強する。そして大学に入り、そこを卒業したあともいっぱいいっぱい勉強する。それで、宇宙飛行士になるんだ。で、月に彼女を迎えに行く。

 彼女は言った。月では、たくさんの人が暮らしていると。なのに、今までの月面調査をした宇宙飛行士が、それらを見つけられなかったのは、きっと月人はシャイだから、高度な文明技術で、自分たちを隠していたんだとボクは思う。千年分もの文明が、向こうは発達しているんだ。そんな事ができたって不思議じゃない。

 だけど、きっとボクが大きな声で「夕夏ー!」と呼んだら、夕夏は待ってたよと言って出てきてくれるんだ。だから、そのときのために今後、ボクはうーんと勉強する。


 そんなことを考えていると、涙が出てきた。

 果てしない未来への不安だ。学校で「将来の夢は何ですか?」なんて紙を貰ったときには、てきとうに公務員なんか書いていたけれど、こう夢がはっきりとすると、ボクは莫大な不安に押し潰れそうになる。


(だけど……)


 なんだろう。楽しみなのだ! 今後の人生が! 夢が出来るのってこんなに素晴らしいのか! 今から未来の自分を想像するだけで、身体から名前のつけようない果てしないエネルギーが無限に湧き出てくるような気がした。


 そして、彼女は天の羽衣を身に纏った。

 彼女の瞳に、ボクの姿は映っていなかった。


 だけど、それでいいのさ。


 ボクは、絶対絶対、

 君にまた、会いに行くのだから。



「行ってらっしゃい」



 ボクは言った。サヨナラなんか言わなかった。だってこれは永遠の別れじゃない。たった、数十年、数百年のお別れ。サヨナラなんてそんな重い言葉を彼女に押し付ける気はなかった。


 牛車の牛がモオーと鳴く。

 そして天へと駆けていった。


 ボクは大きく伸びをする。


 その瞬間、ボクの腕時計の針がカチッと音を鳴らした。


 九月一日。0:00分。

 それはボクの夏休みの終幕を知らせる音で、同時にボクが果てしない未来へ駆ける幕開けのホイッスルだった。






〔了〕

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