だいだらぼっちのあしあと

華川とうふ

見得てしまっているんです

 武蔵野台地に逃げてきた。

 結婚を機に仕事を辞めたのだ。

 普通、結婚して逃げるというと田舎の空気のいいのんびりとしたところというイメージだが私がもともと働いていたのは田舎だ。

 自分が引っ越してきた場所が武蔵野台地の中央部だと知ったのはつい最近のことだ。


 結婚したおかげで、仕事で病んでしまった無職ではなく、結婚して専業主婦になった普通の人というレッテルを世間から張ってもらえるのはプライドが高い私にとってはありがたかった。


 ただ、その罪悪感からなのか私は最近幻覚を見るようになった。

 心を病む一歩手前で仕事をやめたはずなのに、嫌になる。


 そう、妖怪がいるのだ。


 夫と暮らし始めるときに、住む場所やその近くにいわくつきの場所やひどい事故物件がないかは確認したはずだというのに。

 調べたところ、文豪にゆかりはある自然豊かな場所だった。

 古き良き部分も残りつつ、新宿などへのアクセスもよい人気のある場所。

 確かに物価も安いし、家賃もほどほどに抑えることが可能な暮らしやすいまちだった。

 場所のせいでなければ、自分の心の問題としか考えられない。


 先ほどまで近所の商店街にでかけていたことを思いすとため息が漏れる。


 比較的大きな商店街で八百屋は三件に和菓子屋も二件ある。

 ただ、どうしてかやはりこれらの店の場所も覚えられない。

 同じ場所に行っているはずなのに、三件の八百屋の場所は時々入れ替わっていたりする。

 本格的に自分の頭がおかしくなったことが突きつけられるのがいやだけど、夫のために栄養のあるものを買おうとするとここで野菜を買うのが一番なのだ。

 家計を預かる身としては店の場所が自分で覚えることができないのを理由に手近なスーパーで済ませることなんてできない。

 麻で編まれた買い物袋を片手に艶々した野菜が盛られた籠を見ていると、視界の端にものすごく小さなおじいさんが着物をきて野菜を物色するのが映った。

 あり得ないくらい小さくて着物を着ている。

 人間じゃないのは一目瞭然だ。

 それだけじゃない。商店街のたい焼きやの前の椅子には子供のころアニメで見たような妖怪がおいしそうにたい焼きをかじったりかき氷を飲み込んでいたりする。


 ただの一回じゃない。

 それが日常だったりする。

 しかも、ちっともその妖怪たちは怖くないのだ。

 怖いのは自分の頭。


 だって、私の見えている光景が本物ならば他の人だってもっと大騒ぎするはずだから。

 怖くない幻想が見えるなんて、私は本当に病んでしまっているのかもしれない。


 分かっている。

 会社で働いているとき何度か病院にいっている。

 会社に行こうとして涙が止まらなくなったとき、何度も休職をすすめられた。

 だけれど、無職で何者でもなくなるのが怖くて、私は心の病気をどうにかすることよりも、会社に行くことを選んでしまった。

 そのしっぺ返しがきているのだ。


 誰も妖怪をみて大騒ぎしないなんて変だから。


 きっと見えているのは私だけ。

 夫に聞くこともできない。

 だって、せっかく結婚した相手が頭のおかしい女だったら可哀そうだから。


 私は妖怪と思われる存在をみなかったことにしながら生活をした。

 行列のできるコロッケ屋の前に妖怪が並んでいても、駅前にある立ち食いソバのチェーン店で浮かんでいる人が蕎麦湯を飲んでいても眉一つ動かすことはしなかった。


 よくよく観察してみると、周囲の人には妖怪は見えていないわけではないらしい。

 普通に接している。

 商店で買い物をしていれば「いつもありがとね」なんて店番のおばさんに声をかけれていたりする。


 もしかして、私だけが視えているのだろうか。

 実際は普通の人が妖怪に見得てしまっているのだとしたら大問題だ。


 私の頭は壊れている。

 心というべきかもしれないけれど。

 せっかく仕事を辞めたというのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。


 なんとしても秘密を隠し通さねばという思いと、正直に夫に言ってしまおうかと迷う。


 だけれど、なんて切り出せばいいのだろう。


 夫に嫌われるのも怖いけれど、そもそもなんて切り出して説明するのかとんと想像ができない。


 その日はある雨の翌日にやってきた。

 雨上がりの土曜日に夫とのんびりと散歩をする。

 善福寺川に沿いながら街並みと自然の中を行ったり来たりしながらあるいていると、大きな水たまりがあったのだ。

 それはちょうど足跡みたいな形をしている。

 私はまじまじと、そのバカでかい水たまりを覗き込む。

 そこに移るのは、頬は桃色であたたかそうな服に包まれた幸せな女と私の夫であった。

 久しぶりにみた自分の姿はすごく普通で安心する。

 妖怪の件で悩み始めてから私は鏡をまともにみられてなかった。

 だって、鏡をみてそこにいるのが仕事をしているときと変らない青白い幽霊みたいな不健康な女だったら嫌だから。

 私はちょっとだけうれしくて水たまりを覗き込む。


「ああ、だいだらぼっちの足跡だねえ」


 旦那はのんびりとした声で私に言う。


「えっ?」


 私は思わず頓狂な声を上げる。

 だいだらぼっちってあのだいだらぼっち?

 常陸国風土記に書かれている。

 子供のころから聞いたことのあるその名が唐突に武蔵野という場所で耳に入り驚いたのだ。


 どうやらこの武蔵野台地にもだいだらぼっちはいるらしい。

 それどころか、田舎では昔話とされていたそれらは今もちゃんと日常と一緒に存在する。

 どうやら私の頭は正常だったらしい。

 八百屋の場所がときどき違っても大丈夫。

 妖怪がいても大丈夫。

 自然も豊かで人々を受け入れてくれるこの土地で私は生きていくことを許されたらしい。


 私は夫の手をつかんで、そっと今までみた光景のことを話し始めた。

 水たまりの中には虹がかかり、だれよりも幸せな夫婦の姿が映っているに違いない。

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