8、罰

 ヨルちゃんが好きだ。

 誰よりも、何よりも。大好きで、大切なぼくの女神。

 ぼくを決して顧みない、好きにはならない、愛しいひと。


 ヨルちゃんと出会う前、ぼくはたぶん人を殺した。償う機会のなかった罪を犯した。

 だからこれは、罰なのかもしれない。

 どんなに焦がれても、願っても、決して満たされることはないという罰。


 でもぼくはきっと、罰を、受けたかったのだとも思う。

 だからこそ、選んだのは決してぼくを振り返らないヨルちゃんだったのだろう。


 そんなものをヨルちゃんに求めて、勝手に役割を当てがって、勝手に打ちのめされて本当にいい迷惑だと思う。

 でもそれでようやく、ぼくは人として生きていける。ヨルちゃんのおかげで。




 バーからの帰り道、お酒は飲んでいないぼくが車を運転することもできたけど、あえて二人で歩くことにした。

 星が煌く夜空の下、ヨルちゃんの歩調に合わせてゆったりと歩く。

 この時間が、永遠に続けばいいのに。


 少しふわふわとした空気を纏うヨルちゃんは、どこか吹っ切れたような雰囲気で、お酒のせいで少し酔っ払っていて、ちょっと目の毒だった。

 そんなヨルちゃんを隣に感じながら、ぼくは夜の空を見上げて歩いた。


 見上げた夜空は、雲一つない。

 星がたくさん見えて、月明かりに照らされて、遠くには連なる稜線が影を描き、プルシャンブルーとミッドナイトブルーが複雑なグラデーションを作り出している。

 奇蹟みたいに美しい夜だ。

 この夜の下で、ヨルちゃんと二人歩く。

 いっそこのまま死んでしまえたら、どれだけ幸せだろうか。


 本当は、手でも繋げたらいいと思うのだけど、それはさすがに高望みが過ぎるだろう。

 ぼくはちゃんと弁えている。その、はず。


 そんなことを考えていたら、妄想が、本当に熱を伴っていた。

 何か、温かいものが指に触れた。見れば儚く消えてしまうんじゃないかという思いが込み上げつつも、身体が勝手に動いて自分の手元を確かめる。


 見慣れた自分の指に絡む、自分以外の指。雲丹の色の絵具を付けた、温かい指先。

 信じられない気持ちに、思わず脚が止まった。

 ぼくと手を繋いだヨルちゃんが、ぼくを見上げてちょっと得意げに、ふんわりと笑う。


「いいでしょ、たまには」


 何も考えられないまま口を突いた「いいけど」は、全然声にはならなかった。

 ヨルちゃんが、ふふっと笑う。


 なんだ、これ。ぼくはもう、死ぬんだろうか。


「大丈夫、折ったりしないよ」


 ほんの少し自虐的な色を醸して、そんな風にまた笑う。


「……ヨルちゃんがそうしたいなら、別にいいよ」


 ぼくの指なんて、折ってくれて構わない。

 それで、そんなことぐらいで、そうやって笑ってくれるなら、こんな指全部いらない。

 絵を描くことしか能がない、ぼくの全部を君にあげたい。


 こんな奇跡のような夜を過ごせるなら、ぼくの全部を貰って欲しい。

 指ぐらい、なんでもない。


 ぼくのそんな重いだけの言葉は聞き流して、ヨルちゃんはしっかりと手を握り直した。

 そのまま手を引かれるようにして、また歩き出す。今までずっと、そうしてきたみたいに。


「ルイ、あのね」


 星が瞬く。

 月が輝く。

 繋いだ手。

 そして、君が笑う。


 その全てが、ぼくにとってはこの上ない奇跡。


「私は、絵を描くことが一番。それはずっと変わらない」


 知ってる。知ってるよ。そんなこと、誰よりも、なんなら君よりずっと、ぼくが一番分かってる。

 でも、それでいい。

 その分、君の分までぼくが好きでいるから。

 だから、憎んでてもいいから、傍にいて。ずっとずっと、傍にいて欲しい。


「うん」


 ヨルちゃんが語りかけてくる。それが、その声が、ぼくにとっては福音にも等しい。


「ルイのその才能が妬ましい。羨ましい。憎くて堪らない」


 それも、知ってる。

 それでもぼくはちゃんと、描き続ける。

 君が望むように、ぼくが望むまま、ずっと、描き続ける。

 君が妬み、羨むぼくであり続ける。


 だから、いつかでいいから、ヨルちゃんがお婆ちゃんになって、ぼくがお爺ちゃんになって、死ぬ前のほんの少しでいい。

 一回だけでいいから、ぼくを、好きになって欲しい。

 死ぬ前の、ほんの五分程度で構わない。

 好きになって欲しい。好きだって、言って欲しい。


 そんな、来世までずっと宝物にできるぐらいの、言葉が欲しい。

 そのいつかを夢見て、ぼくは生きていく。


「うん」


 全部を混ぜ込んだぼくの「うん」は、涙交じりになった。


 想いの欠片を見出そうと目を凝らす。

 言葉の裏に隠された想いを夢想する。

 そして何度でも思い知る。

 ぼくはこれからも、何度でも自分を哀れみ涙を流すのだろう。


 でもちゃんと、わかってる。

 だからぼくは、この溢れる想いの全てを抱えてカンヴァスの前に立つのだ。

 この渇望を燃料にして、絵筆を握る。


 夢を描く。

 想いの果てを、描き続ける。


 ずっと、きっと死ぬまで。


「――――――でも、それでも、ルイが好きだよ」


 ヨルちゃんが、笑った。


 そんな、そんなぼくの妄想でしかあり得ない、夢みたいなことを言って、笑った。


 満足げに微笑んで、全部の機能を停止したみたいにただ立ち尽くすぼくを見上げ、言い聞かせるみたいに繰り返した。


「ルイのこと、ちゃんと大切に思ってる。大好きだよ、ルイ。一番じゃないけど、それでも」


 なんてことを、言うんだ。


 そんな風に言われたら、ぼくはもう、満たされてしまう。


「ルイが、好きだよ」


 満たされる。渇きが癒える。

 ああ、なんて残酷で、酷いひと。


 それとも、これこそが罰なのだろうか。


 そんなことを言われたら、描けなくなってしまう。

 これが、ここが、ぼくの夢の果て。想いの果てが、今のこの夜。


 君が折る。ぼくの全てを。


 ぼくの絵なんかより、もっとずっと残酷で、もっともっと美しい君が笑う。


 この、ぼくを弄ぶ気紛れな、ぼくだけの女神が。

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カンヴァスの神さまと夜の女神 ヨシコ @yoshiko-s

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