血潮と虜囚とアナスタシア

伊島糸雨

血潮と虜囚とアナスタシア



 二十二時のライブハウス。薄暗い控え室にひとり残って瞑目する。臓腑が縮むのを抑えつけ、汗ばむ手に握ったアンプルを折る。生温い粘性が突き出した舌を伝って口腔を這う。私はそれを呑み下し、鉄錆の酩酊に欠片ほどの魂を売り渡す。「そろそろだよ」蒔田まきたが顔を出して出番を告げる。ギターを掴んで立ち上がり、いつものように舞台に上がる。観客の漣、光の波濤に心臓が音を刻む。叫び歌い爪弾くうちに、音楽はいつもどこかに消える。すべては心地良い悪夢のようで、最後には嘔吐の饐えた感触ばかりが脳裏に残る。わずかに伸びた犬歯が唇を裂き、濡れる血は不思議と甘い。私はラベルを思い出す。アナスタシア。解放者。鎖を砕くもの。重苦しい肉体の虜囚から私を解き放つ、どこかの誰か。


「ワクチン」吸血種の弱毒化した血液は、皮下注射か口腔摂取で束の間私を眷属にする。アッパー系。気が大きくなり、記憶が飛び、気がつくと血を流している。でもそれはラズベリーケーキのようにトロリと甘酸っぱく、あの不快で無機質な生の感触はどこにもない。酩酊。私はどこの誰ともしれないあなたの血潮に酔う。人外種の隔異器官デミオーガンには特異な物質を生成する機能があるという。再生能の高い彼らは頻繁に自身の肉体を切り売りする。それは時に生薬となり、時には中毒性のある薬物になる。アナスタシア。そのラベルは私の鎖を打ち砕く。最初は緊張を紛らわすためだったけれど、今はただ、いつかあなたの皮膚を裂き、溢れる血を啜りたいと妄想している。棺の中で奏でる音が、いつか地上に届くように。


 遠く、私は密かにあなたの虜囚けんぞくになる。アナスタシア、アナスタシア。私の音はきっと届かない。言葉は観客の波間に埋もれ、欠片ほどの自分を売り渡したあなたは凍てつく夜を今日も歩く。何食わぬ顔で、何も想わぬ心のまま。地下室の暗がりで爪を割りながら叫ぶ私のことなど知る由もなく。


 午前〇時のライブハウス。腐り落ちる私はこの眩いトリコロールに埋葬していく。かき鳴らす弦の振動の中、私は空想のあなたに未熟な牙を突き立てる。そしてあなたも。私を舞台に立たせ、私をひきつけて止まないあなたと私は踊る。アナスタシア。この血は私のもの。代わりにいつか、私をあげる。この歌と、音楽の代償に。


 鎖が落ちるその時には、きっと。

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血潮と虜囚とアナスタシア 伊島糸雨 @shiu_itoh

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