ぷにきち

春雷

第1話

 僕は大人なので、色んなことを考えなくっちゃいけない。でも、時々、むしゃくしゃして、どうにもならない夜がある。そんな夜には、飲めない酒を無理矢理飲む。レモンサワーのロング缶を買って、半分も飲まない内にゲロを吐く。ストレス解消どころかむしろストレスが溜まる。慣れないことをするもんじゃない。

 夜は考え過ぎるので、音楽を聴くようにしている。クラシックやジャズ、映画の劇伴など、歌詞のない曲を聴く。適当にネットでダウンロードした曲を流しているので、別に音楽に詳しいわけではない。無音よりはいいかな、くらいの感じで流しているだけだ。

 酒を飲み、音楽を聴き、そうして様々な問題から眼を逸らし、それでも虚しい夜は、僕は散歩に出かける。星のない空を見上げ、すぐに俯き、溜息をつく。

 様々な問題……。大人って大変だ。

 しばらく住宅街を歩いていると、電柱が溶けているのを目撃した。小さな公園の側にある電柱である。放っておかれたアイスクリームのように、電柱がどろどろに溶けていた。それは地面に泥のように流れ出ていた。

 僕は周囲を見渡した。すると、住居の壁ですやすや寝ている生き物を発見した。

 見た目はとうもろこしに近い。イタチにも似ているかもしれない。全身を、赤い粒状の、鱗のようなものが覆っている。鼻先が尖がっている。牙が鋭い。眼は細長い。異界の生物。つまり、外来種だ。一時期、雑誌やテレビ、ネットで話題になっていた。名称は忘れたが、彼らは電柱やマンホールを溶かして食べるので、害獣扱いされ、駆除の対象となっていた。害獣とは、ただ生きているだけなのに、人間にとって不都合な活動をするために、敵視されている生物のことである。

 僕はそっと近づいてみた。

 すると、そいつはびくっと身を震わせ、飛び起きた。警戒心が強いのだろう。

「ああ……、すまない。驚かせるつもりはなかったんだ」僕は両手を上げる。

 異界の生物は、知能が高い。人間の言葉も、ある程度理解できるのだと言う。

「ひゅう」とそいつは笛のような声を出した。

 そして僕の足元までとことこ歩き、僕の足にすり寄って来た。

「ええっと……?」

 懐いた、ということなのだろうか。分からない。餌とかやってないのに。

「ひゅう、ひゅう」とそいつは再び鳴く。

 僕は屈み込む。そいつは小猫くらいの大きさである。

 恐る恐る、身体を撫でてみる。ぷにぷにしていた。僕はそいつをぷにきちと名付けた。動物の名づけ方は「動物のお医者さん」で習ったからばっちりである。

 僕にもようやく、友達ができた、ということだろうか。近頃どうにも反りが合わなくなって、友達と疎遠になっていたのだ。ペットは孤独を紛らわせる。ぷにきちを飼ってみようかと思った。

 僕はぷにきちを抱きかかえ、家路についた。


「地球には四十六億年の歴史がある」と僕は教科書を見せながら、言う。「地球は、微惑星が衝突、合体してできた。そのために、表面は高温で融解していて、マグマオーシャンに覆われていたんだ。その後、地球の表面は冷却していき、岩石が形成され、重い元素は地球の中心に沈んでいった。そうして、核、マントル、地殻、大気が形成されていったんだね。ここまでは大丈夫?」

 僕は個別学習の塾でバイトをしている。高校受験対策で塾に通っている中学生に、勉強を教えるのが僕の仕事だ。大体の生徒はつまらない顔をして、半開きの眼で、僕を睨む。たぶん、早く帰ってゲームをしたい、と思っているのだろう。それは僕だって同じだ。

「勉強って何の意味があるの」と彼は頬杖をつきながら言う。

 面倒だな、と思いつつ、僕は答える。

「何の意味もないよ。ただ色んなことを知っていた方が、世界を面白がれるというだけのことさ。たとえば、君が旅行に行って、富士山を見たとする。地学を学んでいれば、富士山やその周囲の地形の形成プロセスを頭に思い浮かべることができるし、文学を学んでいれば、太宰治の短編を思い浮かべることができる。その他の学問を駆使して、富士山の文化的な位置づけや、歴史的意義、地理学的意義、民俗学的な重要性など、色々な考えを巡らせることができる。芸術的な感性があれば、美しいと思うことができる。何も知らない人は、ただぼーっと富士山を眺めるだけだけれど、知識があれば、富士山に対して色々なことを思うことができる。物事に対する解像度が上がるんだ。勉強は、確かに、実用性がないかもしれない。でも勉強すれば、色んなことを面白いと思えるようになるし、数年、数十年先のことについてより精度の高い予測を立てることができる。それって、すごく面白いことだと思わないかな」

「思わない」と彼は言った。

「思わないなら仕方がない。何も考えず高校受験のことだけを考えてやればいいさ」

 それから、僕は、彼が理科の小テストで間違った項目について、教科書を用いて解説した。理科は、僕の苦手な分野である。だから途中で頭が痛くなってきたが、堪えた。


 家に帰ると、ぷにきちが出迎えてくれた。僕はビニール袋を、鞄から取り出す。透明なビニール袋に、ブロックを砕いた粉を入れている。ぷにきちの大好物らしい。

 僕は灰色のその粉を、猫用の皿に入れる。小さな砂山のようになる。それをぷにきちの前に差し出すと、彼は長い舌でぺろぺろ舐め始める。

 溜息をつき、僕は洗面所に向かう。手を洗い、うがいをする。鏡を見ると、疲れた男の顔が見える。

 もう二十台も中盤。何を始めるにしても、遅いという気がする。本当は、まだ若いのだから、何でもできるという錯覚がまだ通用するのだろうけれど、どうにも気力がない。きっと疲れているのだろうと思う。

 コンビニで買った弁当を一人で食べる。いつも通り美味しいけれど、毎日同じメニューなので、流石に飽きてきた。チキン南蛮なんて毎日食べるものじゃない。

 弁当を食べ終わると、コーラを飲んだ。甘くて美味しかった。

「これからどうなるんだろうな……」

 受験に失敗して、第一志望の大学に行けず、親の期待した教職にも就けず、就職活動にも失敗し、知り合いの塾でバイトをする日々。好きでもないし得意でもない勉強を、どの面下げて中学生に教えているのだ、と思う。駄目な大人の見本。つまりは反面教師だ。

 何かやりたいことがあったはずだ。小さい頃の夢……。でも、日々の忙しさに身を削られ、夢を見る暇もない。彼女を作る余裕もない。静かに、そして緩やかに、死に向かっていく感覚。あるいは、錯覚。

 しかし人間が感じていることの大半は、錯覚に過ぎない。

 最近はそう思っている。

 でも、だからこそ、その錯覚は厄介なのだ。錯覚にどうしても囚われてしまう。疲れてくたくたになっている夜は、悪い方向に物事を捉えがちだ。その傾向を自覚してもなお、治らないのだから、仕様がない。

 同級生たちは、結婚したり、出世したりして、それぞれの道を歩いている。起業し、成功した奴も多い。僕の友達は皆有名大学に進学し、エリートコースを歩んでいる。僕だけがどこにも行けず、こうして悶々と日々を過ごしている。

 どうしてこんなにも、駄目な人間になってしまったんだろう。

「くそっ!」

 僕は空になったペットボトルを壁に投げつける。

「ちくしょう……」

 僕は、その場に蹲る。

 惨めだ、と思う。

 そうだ……、僕の友達は皆優秀で、僕だけが、僕だけが……。

 馬鹿で愚鈍で、醜い……。

 阿呆だ。

「ああああああ!」

 涙が溢れて止まらない。子どもじゃないんだから、泣くんじゃない、と思うが、どうすることもできない。ちくしょう、ちくしょう……。


「ひゅう」という笛の音が鳴った。

 蹲る僕の側に、ぷにきちがいた。僕をじっと見つめている。

「お前は……、僕の味方でいてくれるか……?」

「ひゅう」

「ぷにきち、ありがとう」

「ひゅう」

「痛っ!」

 突然、右手に痛みが走った。激痛だ。びりっと来た。なんだ?

 見ると、僕の右手が溶けてどろどろになっていた。

「うわっ!」

 ぷにきちが僕の右手を溶かしたのだ。

「このやろ!」

 僕はぷにきちを殴ろうとした。しかし、あまりの痛みに耐えきれず、その場に蹲ってしまった。

「アぐっガガガガあ!」

 訳のわからない悲鳴を上げていると、ぷにきちが僕に近寄って来て、僕の右耳を噛みちぎった。

「ああああああ!」

 痛みを少しでも和らげようと、部屋を転がってみたが、痛みは消えない。

 そうして地獄の苦しみに悶えていると、部屋の天井がどろりと溶けていることに気づいた。天井の一部が溶かされていたのだ。やがて天井に穴が空いて、ぷにきちと同じ種類の外来種が、僕の部屋にぞろぞろと入ってきた。五、六匹いた。

 彼らは僕の周りに群がって、僕を溶かし始めた。僕は痛くて痛くて、死にたいという気持ちになった。逃げたい逃げたい。

 僕がどろどろに溶けてしまったので、この小説はここでお終い。

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ぷにきち 春雷 @syunrai3333

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