約束

 昼ごろになり、ユーファは玄関でリュックを背負ってスニーカーを履いた。


(とうとう、って感じ)


 不安そうにその場で足踏みをしてから、ユーファは「行ってきます!」とリビングに向けて叫んだ。家族全員から、いってらっしゃいの声が聞こえて、彼は表情を崩し、ドアノブに手をかけた。



 森を歩いて行く途中、ニゲラが口を開いた。



「ぼくがやることは…きみが帰ってきた勢いに乗ってやること。身勝手極まりないから、気にしないでね」



「うん」



 池のキラキラ輝く水面が、木々の間から溢れでたのに気づいたノラは途端に走り出した。岸辺に立つと、透き通った水と、水底の石たちがゆらめいているのを見て、ノラは思わず膝をついてまで覗き込んだ。



「…なんかさ」


「うん」



 追いついたニゲラがノラの隣に歩きながら相槌を打つ。



「なんだろう、わかんね」



 そう言って、ノラは笑った。右にいるニゲラも笑った。


 ノラは立ち上がると、膝についた土を払い落とした。その間に、ニゲラはもう獣道の方に歩き始めた。払い落とし終わると、ノラは走り出してニゲラを追いかける。


 なんとなしに池の向こう岸を見てみると、茂みのところに茶色の尻尾が見えた。きっとうさぎだろうなと、ノラはほほえむ。


 ニゲラと横一列で獣道に入ると、ノラは心臓のあたりに手を置いて深呼吸をした。ニゲラの方をチラリとみると、同じように大きく息を吐いていた。ニゲラもノラをチラ見した。目線と目線がかち合って、思わず二人は笑い合う。



「…緊張するなぁ」



 困り眉になったニゲラが、苦笑しながら言った。



「もうついちゃうから、諦めるしかないね。——見えてきた」



 獣道の出口にノラが顔を向けると、木と木の間から白い石造りの壁が見えた。壁のツタの数が、2週間前よりも増えている。3歩駆け出したノラの背中に、声がかかる。



「………できるかなぁ…」



 うつむくニゲラ。


 そんな声が聞こえて、ノラは振り返った。2歩、ニゲラの方に歩き、


「ニゲラはできるよ」


 と、星色の目を輝かせながら手を出した。



「ニゲラのおかげで、僕はいろんなことに気づけたし、前に進めた。ニゲラが先に進んだから。僕が今、ニゲラと一緒に秘密基地に行くことにしたのも、ニゲラのおかげ。ニゲラは強いよ」



 カサドゥよりも明るく言い放ったノラの手を、見て、ノラの顔を見て、また手のほうを見てから、ニゲラはその手を掴んだ。ぐっと力を入れられて、ノラは握り返す。



「もう逃げない」



 夜色の目をこれまでにないほどに挑戦的にギラつかせて、ニゲラは言った。よしきた、と、彼の手を引っ張って、ノラは歩きだす。


 獣道が終わって、ぐわっと光が二人に降り注いだ。ノラが目元を抑える。手が離れた。



 そして、秘密基地の入り口が見えた。



 左の方の扉がない、元は両開きだった入り口。扉のない方に、錆びた蝶番があることに、ノラは気づいた。


 秘密基地の中に、一歩、入った。


 中には、みんないた。


 フォセカがブルーシートの上で、羽を掃除している。その横で、デンファレが口を開けた状態で、腕を組んで立っていた。チアとアジュガが、倒木に腰掛けて、何か話していた。そして、ネモネが、正面の階段で…特に何もしていない。ただ座っているだけだ。



「……久しぶり〜」



 バッグの肩紐を掴んで、ノラは手を振る。後ろでニゲラの「久しぶり〜」と言う声が聞こえた。




 しばし間が入り、そしてネモネが立ち上がって、ものすごい速さでノラのところまで走った。そして飛びつくように抱きついた。



「ノラぁ! ごめんね、ごめんね! あんな、あんな、あんなひどいこと、言っちゃって、ごめんね、ごめんね」



 想像していなかった勢いに、ノラはたじろいだ。


 てっきり、無視でもされるかと思った。



「あ、ぁ、いや、全然、大丈夫…」


「大丈夫なはずないでしょ!! あんな、ひどいこと言われて、傷つかないの⁉︎」


「傷つかないわけじゃないけど…。ほら、全面的に、僕が悪いし…」




「違う!! ノラは何にも、一つも、これっぽっちも悪くない! 悪いのは全部、あのクソみたいな『約束』だよ!」




 秘密基地の中がどよめいた。今まで優しい目で見ていたフォセカも、驚いた顔をし、アジュガは、腰が倒木から浮いた。


 ノラの後ろから、チアの隣までひっそりと移動していたニゲラも、思わず転びそうになった。チアが咄嗟に抱える。


 誰も、あのネモネが『約束』のことをクソと言い捨てるだなんて、思わなかった。



「あんな、あんな『約束』意味がない。いらないよ。アタシが、大人を怖がってるだけだ」



 ノラの肩口に顔を埋めて、ネモネは言った。彼女の言葉に、デンファレが下唇を噛んで、目を逸らした。アジュガがうつむく。



 今にも泣きそうな、ネモネの震える肩を見て、ノラは目を細めた。そうっと、そうっと、彼女の頭に手を伸ばす。優しく、ピンク色の髪を撫でた。



「大丈夫、誰だって怖いよ。大人なんて」



 ノラの肩の部分の服に、小さくシミができた。



「なくしてしまおう」



 ぽそりと耳元で囁く。


「…なくす?」


 ネモネが顔を上げて、ノラの顔を見る。美しくきらきら輝く、星色の瞳にネモネは吸い込まれた。



「うん、そうだよ。なくせばいい」



 まばたきを一つして、ネモネの頬を両手で包み込む。涙が彼の手を伝った。ふわりと笑って、ノラは言った。



「僕らは、自由なんだから。怯えなくていいんだ」



 ネモネは、口を小さく開いたまま、息を吐く。ノラの手に自分のを重ねて、ぎゅっと握った。涙でぐしゃぐしゃな顔が、だんだんと笑顔になっていく。



「うん、うんっ」






 ぼろぼろ泣いているネモネと、優しく笑うノラの様子を、デンファレは羨ましそうに見ていた。隣のフォセカが彼女を翼で包む。



「あんたも自由だよ」



 あたたかい色の翼に、デンファレは泣きそうに目を見開いて、フォセカに寄りかかった。





「あーあ、言われちゃった」


 ニゲラがつぶやく。どさ、と安心したようにアジュガが倒木に腰を下ろした。息を吐いてから、口を開く。


「切り出すつもりなのは知ってた、最初はそれにヒヤヒヤしてたけどさぁ。こうなるとは思わなかった。最初の10倍くらいヒヤヒヤした」


「同じく」


 チアがしかめっ面でぱたん、ぱたんと地面を尻尾で叩く。


「ま、良い方に転がったし、いいよな」


 アジュガはそう言って、チアに視線を送ると、彼は肩をすくめるだけだった。



(約束はなくなって、ノラも帰ってきた。帰ってきたんだ)



 嬉しそうに笑顔になっていくニゲラを見て、チアとアジュガは顔を見合わせ、ふっと笑った。

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