裏と裏

 少年はタブレットのディダル語練習用のアプリを開いて、上級を選ぶ。一問目から順にテンポよく解いていく。


 単語、穴埋め、長文。後半に行くにつれ、当たり前だが難易度が上がっていく。思考の時間が長くなっていく。トントントントンと規則的に机を指先で叩く。チクタクと秒針の音が静まり返った部屋に鳴り響いた。



 なあ、今日の夕飯、なんだと思う?


 知らないよ。自分で考えて。


 お前が考えないと僕も思考できないんだよ。


 はいはい、一緒に考えるよ。


 で? なんだと思う?


 うーん。そうだなぁ、父さんが今日作ると思うから…。


 父さんの得意料理ってなんだっけ。ペイダクア?


 それさっき僕が今日の夕ご飯を当てずっぽうで言ったやつ。


 そうだったっけ。


 うん。そう。


 まーどうでもいいっしょ。


 まあね。


 そんで? この問題に手こずってるっぽいけど、手伝ってやろうか?


 手伝うくらいなら黙って。


 それなら協力しなーい。一人で悩みなよ。僕が妨害してやるからさ。



 少年は大きなため息を吐いて答えを選択する。ここまでにしよう、と少年は左上のメニューボタンから停止を押す。


「晩御飯できたぞー!」


 リビングから父の声が聞こえ、少年は椅子から立ち上がる。ドアを開いて出ていった。


 少年から、何かを鬱陶しがるような表情が消えた。



 夕飯が終わり、シャワーに入り、寝る準備が整った頃、少年は自分のベッドに背中から飛び込んだ。



 な? いっただろ? 今日の晩御飯はペイダクアだって。


 そうだね。


 なんかつまんね。なあなあ、お前、ネモネたちに不満とかあるか?


 …は?


 あるだろ、不満。ここが嫌いとか、苦手とか。


 ないよ。あるわけないだろ。


 うっそだ〜。あるだろあるだろ。愚痴のひとつもねえのかよ。どこまでも優等生かお前は。


 あると思ってるのはきみだけだよ。僕は彼らを悪く思ってなんかいない。


 あっそ。ほんとつまんねーな、お前。それでよく友達ができるよな。つっまんねーし、優等生のガワを被っただけの考え足らずになーんで友達ができるのか。いやー世界は不思議だなー広いなー。


 きみは愚痴があるの?


 は? あるわけねーだろ。喋ったこともないんだぞ。僕はずっと見てただけだ。お前とあいつらの会話とか、やってたこととか。僕は見てただけ。触れたことも話したことも認識されたこともない。お前は僕よりも恵まれている。


 わかってる。


 ならいい。



 少年はベッドの中に転がり込むと、ブランケットを引き上げて体をそれで包む。目を閉じれば、ほどなくして彼は眠りに落ちた。



 時計の短い針が夜中の一時ほどを指している頃、少年の二つの目は唐突に開いて、闇を感じた。上半身を起こす。カーテンの隙間から見える真闇で、深夜であることに気がつく。ベッドから滑り落ちるように出ると、無防備な両足が紺色のカーペットを踏みつける。あくびを口から引きずり出しながら、電気のスイッチを押す。パッと部屋が明るくなった。


 ゆったりとした藍色のガウンを羽織り、紐を結ぶことなくそのままテーブルにある椅子に座った。肩あたりにある藍色の髪の毛を左手にある髪ゴムで結ぶと、少年はテーブルの上で行儀良く待っているメガネをかける。メガネのあったところの右隣にいる充電中のパソコンを開くと、少年はとある通話アプリを起動させた。マイク付きヘッドホンをつけて、すでに通話しているグループのアイコンを少年はカーソルで選択する。


『お、来た』


 黒いアイコンが点滅した。喋っている証拠だ。


「来たよ。なんの話してたの?」

『今日の話』

「あー…」


 なんともないように言われた言葉に少年の顔がくもる。


『ほらほら、全部このアルガ様に吐いちゃえ』


 紫色のアイコンが喋る。黒いアイコンと少年が同時に笑った。


「アルガの相談室?」

『無駄に頼もしいのがなんかヤダ』

『ひっで』


 そう言いながらもアルガと呼ばれた紫色のアイコンは楽しそうに笑う。


「それで、今日の話ってネモネとノラのこと?」

『うん』

『俺ノラに忠告したんだけどな…』

「ほとんど無意識に言ってるみたいだったよ」


 頬杖をつきながら、少年は自分のアイコンを点滅させた。


『あー』

『でもだからって許されるわけじゃないじゃん』

『ケルヴァ厳しー』

「平常運転だね」

『てかさ、ノラ帰ってんの見たけど、なんか言われてたのか?』

『あー、うん。まあ』


 黒いアイコンがどもりながら答えた。少年も「あー」とこぼす。


「カブスリャータって、言われてた」

『…え、なんて?』

『カブスリャータ。ネモネが言った』

『うーわ、マジか…』

「どう思う?」

『いや、なんというか、衝撃がえげつない…』

「やっぱそうなるよねー」

『おれもびっくりしたー』

『こりゃでっかい難題だな』

「そんなに?」

『デカイもデカイ。ちょっとした昔話があってな、エルフ族とダークエルフ族に受け継がれてるやつなんだけど。ちっさい頃にめっちゃ聞かされんの。その話からカブスリャータって言葉ができたんだよね。調べたら出てくるよ』

『へー。結構やばいやつじゃん』

「もう調べたんだ」

『うん』

『さすがケルヴァ〜。調べる速度は五億キロ毎時〜。まあケルヴァの調べる速度を数字にすることはどうでもよくてだね諸君」


 アルガは笑った表情のまま、続ける。藍色と黒色の四角が点滅して、少年二人分の笑い声がイヤホンを伝って聞こえる。


「その物語で出てくる【敵】の名前がカブスリャータなんだよね」

『じゃあ、ネモネにとってノラは敵なのかな』

 藍色が喋る。見えなくてもアルガは頭を縦に振った。

「多分、そうなるんじゃないかな。小さい頃からずっと聞かされ続ける昔話だからさ、ネモネの思考の深いところまで強く根を張ってるんだと思う。だから、敵だって思った瞬間、敵を意味する言葉が出てきた。んで、たまたまその言葉が普通に侮辱として通る言葉だった…っていうこの考察が当たってたらこの世界がご都合主義で出来てるように思えるな」

『メタやめ」


 ケルヴァは口の端を釣り上げて笑う。


『現実世界にメタとかないでーす』

『本題見失ってない…?』

「確かに」

『本題はノラだな』

「だね〜。かなーり傷ついてたし、来ることはもうないんじゃないかな」

『お前ら二人でなんとか出来そう?』

『多分?』

「おれ全部ネイドに任せるー。そーゆーの得意じゃねーし」

『そういうと思ってた』

『んじゃ、ネイドよろしく〜』

『ぼくに全部丸投げ…まぁいいんだけど』

「なんで?」

『それだけ信頼されてるってことじゃん? なんか嬉しいなーって」

『そういうもの?』

「そういうもの」


 ネイドは安心したような表情をしながら答えた。

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