トラヴィス
パタンと扉を閉めて、自室の玄関の扉の内側にもたれた。
俺は先ほどの蘭の姿を思い返し、背中を扉に預けたまま、ずるずると座り込んだ。
そしてしばらく、動けなくなった。
最近、蘭を見ると心が騒がしかった。
ウォルトのことを聖母のような温かい目で見つめる蘭を見ると、自分の方に振り向かせたくなった。
蘭はそう思っていないようだが、ニコラスと配信している動画で、2人の掛け合いやハモリは評価が高い。確かにニコラスほどではないけれど、蘭も歌が上手いのだ。
一緒に動画を撮影している様はとても仲が良さそうで、心の中でモヤモヤとしたものが広がっていくのを感じた。
それに、シリルだ。
彼は、向こうの世界では義弟としての立場をしっかり弁えていたのに、この世界に来てから一切の遠慮がなくなった。
本人が必死に隠していたため他の者は騙されたかもしれないが、昔からシリルは異常なほどクローディアを慕っていた。
きっと、婚約者である俺が気に入らなかったのだろう。王太子である俺に対し、敵対心が見え隠れしていた。
この世界では「姉さん」などと呼びかけ敷居を低くした上で、明らかに男として蘭に接している。
気に入らない。
何もかも。
俺は、自分でも制御出来ない苛立ちを感じていた。
ニコラスの動画チャンネルの名前を話している時、俺としては真剣に話していたのだが、思い掛けず蘭が声を上げて笑った。
彼女のそんな笑顔は、初めて見た。
しかも俺に対するものだと思ったら、どうしようもなく心がざわついた。
あんな笑顔を、いつまでも見ていたい。
出来ることなら、いつまでも俺に向けて笑って欲しい。
だから。
今まで渡したことのなかった薔薇を、俺の名にある薔薇を、贈ろうと思い付いたのだ。
家名にある花を渡すのは、好意や親愛の印。
今更と言われるかもしれない。
けれど、きちんと気持ちを伝えたい。
そう、思った。
それは、とてつもない間違いだった訳だけれど。
あの後、ちょうど炊飯器の米が炊ける音がして、一旦話は後にして夕食にしようということになった。
俺も蘭も帰って来たばかりだったため、一度部屋に戻って着替えることにした。
俺はひしゃげた薔薇の花束を急いで紙袋に押し込んで、自室に駆け込んできたのだ。
ああは言ったけれど、本当は恐ろしい。
自分の過ちと、きっと向かい合わなければならないから。
俺は生まれた瞬間から、フロース王国の王子としての役割を与えられてきた。
決められた教育。決められた友人。決められた未来。本人の意思とは関係なく決められた、婚約者。
王族としての責務を思えばどれも当然だけれど、とにかく幼い頃の俺はその全てが嫌だった。
王子という役を降りられないなら、せめて伴侶くらいは自分の意思で決めたかった。
だから、クローディアには何の罪もないにも関わらず、彼女を嫌った。
彼女が居なければ、自分で選ぶ機会があるかもしれない。
そう思った。
幼い頃の俺は、あまりに短絡的で、そして愚かだった。
今でも、愚かだけれど。
『女の子には、花をあげれば間違いないよ。でも、その気がないなら薔薇は避けた方がいいかな』
あの人はそう教えてくれた。
あの人と俺は、アカデミーで初めて出会ったということになっている。
あの人と俺では、歩んできた人生が違いすぎるから。けれど実は、子どもの頃から何度か市井で会っていたのだ。
きっかけは、俺がお忍びで市井に降りた時、たまたま入ったキャンディショップに財布を忘れ、あの人が届けてくれたことだ。
当然隠れて護衛が付いていたし、後で護衛が取りに行っただろうから問題はなかったのだが、あの人はそんなことは知らず、ただ厚意で届けてくれた。
平民なら、そのままくすねてもおかしくないのに。
なのにきちんと届けてくれたことに驚き、俺はお礼にと広場で売っていた食べ物を買い、一緒にベンチに座って食べた。
これまで感じたことがない程、あの人との話は面白かった。
それから何度か市井に降りる度、あの人と会った。
あの人は俺の知らないたくさんのことを知っていた。
俺は初めて、本当の友というものを知ったのだ。
平民だと思っていたあの人が、実は貴族だったと聞いた時には、本当に驚いた。
しかもまさか、あの家系だったなんて。
自分でも最近まで知らなかったと言っていたから、あの人はどれだけ驚いたことだろう。
急にアカデミーに入ることになったため、その準備でしばらく会えなくなると聞いた時には悲しかったけれど、これからは本来の身分で会えるのだと思うと嬉しかった。
それまでは一応身分は隠していたから、もう何も障害はないと、これまで以上になんでも話した。
あの人は、あの人にだけは、誰にも言えない俺の形容しがたい心の蟠りを曝け出すことが出来た。
あの人はそれを聞く度、『トラヴィスの辛さはきっと誰にも理解できない。だけど、私でも聞くことはできるよ。もっと話して』と言ってくれた。そしていつだって『トラヴィスは悪くない。悪いのは向こうだよ』と手を握ってくれた。
あの人に話を聞いてもらい、そして手を握られると、不思議と頭がすっきりと軽くなり気分が良くなった。あの人が言っていることは全て、俺のためを思ってのことだ。
俺はいつしか、あの人のことを全て信じるようになっていった。
しかしどうだ。
あまりに不自然に、あの人の言葉を信じていたのではないだろうか。
『トラヴィスは、あの婚約者が気に入らないって言っていたよね。実は彼女……屋敷の中ではかなり酷いらしいよ。うちのメイドの親戚が、オーキッド家の使用人にいるらしいんだけど、見えない所で使用人を虐めているんだってさ。この前なんて、ついに怪我をして障害が残った子が辞めたらしい。そんな子と婚約者だなんて、トラヴィスはなんて可哀想なんだろう』
あの人はそう言った。
調べると、確かに怪我を理由にオーキッド家を辞めたメイドがいることが分かった。
メイドに話を聞こうとしたが、障害により声を失い手に麻痺が残って字も書けなかったため、証言を得ることは出来なかった。
しかし同僚のメイドからは証言を得ることが出来た。
そこまでの重傷を負わせるなど、人として許さざる所業だと憤った。
『前に一緒に行った小さなパン屋あるでしょう? 市井での馴染みに聞いたのだけど、クローディア嬢が自分が店を出したいからって、その店を無理矢理自分のものにしたって。酷いよね。元の店主は泣く泣く出て行ったらしいよ』
あの人の話を確認しに店へと向かうと、看板が変えられ、店の名が変わっていた。不動産業者に問い合わせて確認すると、確かに所有者がクローディアに変わっていた。
元の店主にも話を聞きたかったが、もう既に王都を出たのか行方がわからなくなっていた。
けれど、クローディアと店主が揉めていたという近所の人間の目撃証言が取れた。
『今巷で出回ってる麻薬の取り締まり、トラヴィスも陛下も頭を悩ませてるんでしょう? 私が市井で暮らしていた時の仲間に聞いたのだけれど、密売人の1人が酔って言っていたらしいんだ。「元締めからはいつも蘭の香りがする」って。もしかして……』
貴族は皆、家名に冠する花の香水を付けるのが一般的だ。
香水を付けていなくても、髪の香油やクローゼットのサシェなどにも使われるため、本人が意図せずともその匂いが付いているというのはあり得る。そして蘭の香りがするということは、それは即ちオーキッド公爵家の者なのではないかと考えられた。
正式に公爵家を捜査するほどの証言にはなり得ないため、密売人側の方から調査を進めていった。
そして、やっと捕まえた密売人が所持していた麻薬の仕入れメモと、クローディア名義で購入された小麦の量が同じであるということまで辿り着いたのだ。
まずわざわざ個人が小麦を購入する必要性がなく、実際にその小麦がオーキッド家に搬入された形跡はなかった。
代わりに、麻薬が出回っている地域に納品されていることが分かり、実際、小麦の袋に隠された麻薬を発見したのだった。
クローディアの罪をついに捉えたと思った。
証人も証拠もある。
あの傲慢な彼女なら、間違いないだろうと思った。
けれど。
今考えれば、クローディアから花の香りがするはずがない。
あれ程までに花を拒絶するクローディアが、そんなものを纏って平然と出来るはずがない。
彼女は常に人と一歩離れた距離で話すことが多かった。それは下位の者が自分に近付くことを嫌っての態度だろうと言われていたが、きっとあれは貴族たちの匂いが嫌だったのではないだろうか。
きちんと彼女と接したことがなかったから、彼女の匂いなど、全く気付かなかったけれど。
きっと、誰かが彼女を嵌めたのだ。
考えてみれば、他の件に関しても、事件当事者からの話は一切聞けていない。
麻薬の件も、小麦に偽装しているとは言え本人名義で購入するなど、お粗末が過ぎる。
そう考えれば、段々と1つの事実に帰結する。
あの人は平民に顔が利くから、市井の噂話を聞くこともあるだろうと思った。
けれどそんなにも都合良く、彼女に関する噂話ばかり聞いてくるだろうか。
何故あんなにも盲目的に信じていたのか?
落ち着いて考えれば、いっそ不思議だ。
『彼女は君が好きだから、リリーさんを虐めるんだよ。リリーさんも言っていたじゃないか。クローディア公爵令嬢にされたと』
それを聞いた時には、全く不思議に思わなかった。
クローディアが俺を好いているというのは、皆が噂していたから。
でも違った。
今なら分かる。
彼女は俺のことを、何とも思っていない。
それならば、ミシェル嬢を虐める理由など何もない。
確かに誰1人、クローディアとミシェル嬢が一緒に居る所など見ていないのだ。
いや、1人居た。
虐めの場面を目撃したという人が。
確信に近い予感がする。
信じたくない。
けれど一度仮定すると、どんどんと確信が深まっていく。
まさか本当に、ロベリア先生……リチャードは、俺を洗脳していたというのだろうか。
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