鳴代由

 例えばそれは、海を泳ぐ魚のようである。



 彼女は鯨のようだった。広い海の中、その大きな躰をゆったりと動かす、鯨そのものだった。

 僕は一度だけ、彼女に話しかけたことがある。話しかけざるを得なかった、というほうが正しいかもしれない。それは夕暮れの山吹色が、教室に差し込む時間のこと。

 彼女は教室で、ぼんやりと窓の外を眺めていた。野球部の嫌に耳に残る掛け声と、ひぐらしの鳴き声を背景に、彼女は静かに、涙を流していた。僕は見てはいけないようなものを見てしまった気分になった。だがそんな彼女を見て、僕は自然と、口から声が出ていた。


「……きれいだ」


 どうしたの? とか、大丈夫? とか、もっと気の利いた言葉をかけたほうがよかったと思う。けれど彼女のその様子は、他の言葉で無視できるようなものでもなかった。

 彼女は驚いた様子で僕を見る。そして彼女は、目を細めて笑った。怒っていたり、悲しんでいたり、そんな様子はなかったから、僕は少し安心した。僕は胸を撫で下ろし、さっき、彼女に聞きたかったことを口に出す。


「泣いていたみたいだけど、大丈夫?」

「なにもないよ」

「本当に?」

「うん。でも、夕暮れに焼かれちゃったのかも」

「なにそれ」


 彼女の言うことは、よく分からなかった。僕は彼女の言葉を聞いて、笑みをこぼす。そして彼女も、くすりと笑い声を漏らした。

 誰もいない、夕焼けが照らす教室で、僕たちはひたすら笑い合った。


 そこからどうやって彼女と別れたのかは分からない。少し暗くなった教室で手を振った気もするし、彼女の家の近くまでずっと話していた気もする。僕には「彼女と話した」という記憶だけが残った。不思議なことに、彼女と何を話したのかすらも、あまり覚えていなかった。

 彼女といると、足取りがふわふわする。海の中に、浮かんでいるみたいだった。



 彼女と話したのはそれ一回きりだ。あのときから一度も話さず、目も合わせず、いつの間にか、彼女はいなくなっていた。転校でもしてしまったのだろうか。僕が気が付いたときには、教室に彼女の姿はなかったのだ。

 思い返してみれば、彼女とは同じクラスだったはずなのに、名前も、どこの席に座っていたのかも、あまり覚えていなかった。もちろん、連絡をとるすべなどない。もう一度話したい。そう思ったとしても、彼女とはもう話せなくなってしまった。

 けれど、残念だとは思わなかった。彼女のことだから、またいつか、ふらっと目の前に出てきたり。なんてこともあるかもしれない。

 僕は教室の、彼女と話したあの窓辺から、太陽の昇りきった青空を見上げ、目を細めた。



 それはさながら海の中、目の前を一瞬で通り過ぎて行った鯨のようで。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鳴代由 @nari_shiro26

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ