第44話 あーあ

 どういう道筋で移動したかは曖昧だけれど、気づけばわたしは妃乃の家に来ていた。

 妃乃は別の友達と遊んでいるから、チャイムを鳴らしても当然誰も出てこない。

 すぐに会いたいなんてメッセージを送れば、妃乃はきっと駆けつけてくれる。

 でも、そんなことをするのは申し訳ないから、表からは人目につかない隅っこに腰を下ろして、ぼうっと空を見上げることにする。

 妃乃が帰ってくるのはいつ頃だろう? 予定では午後七時過ぎと言っていた。

 あーあ。妃乃が他の誰かと遊びになんて行かなくて、二人でまったり過ごしていたら、こんなことにはならなかったのに。


 湿った風が吹く。もうすぐ雨が降るかもしれない。折り畳み傘は持っている。取り出すのは面倒くさい。

 何も考える気力は沸かなくて、ただただぼんやりと空を見上げ続ける。

 小説を書き始めて以来、暇だなんて感じることはなくなっていた。時間があれば小説を書き続けた。小説を書く環境じゃなくても、頭の中でストーリーを展開させていた。

 時間って、こんなにゆっくり進むんだな。

 そんなことも久しく忘れていた。

 豊かな時間が煩わしい。妃乃に早く会いたいのに、時間は遅々として進まない。


「妃乃……わたし、どうすればいいのかな……?」


 銀子とは、今まで通りに接したい。でも、もうそれは無理だ。

 素知らぬ顔で、今まで通りになんてできない。

 ぼぅっとしていると、空からぱらぱらと雨が降ってきた。

 強い雨じゃない。気温も低くはないから、この程度の雨に濡れても問題はない。


 しかし、次第に雨足は強くなっていった。流石にずぶ濡れになるのはまずいので、場所を移動。屋根のある玄関先に腰を下ろした。

 雨はしのげる。ただ、門扉の向こうからは丸見えなので、少し居心地が悪い。

 結局、鞄から折り畳み傘を取り出して、それを広げて目隠しとする。ピンクベージュの傘に視界を遮られて、空を眺めることもできない。


 しとしとしと。雨の音が鼓膜を揺らす。普段は意識しないけれど、雨の音はとても優しい。不思議と落ち着く。

 だんだん眠くなってくる。人の家の玄関先で眠りこけるのもどうかと思うので、どうにか眠気と格闘する。うとうとうと。頭が揺れる。このまま横になって眠りにつきたい。

 何も考えず、ただずっと、眠っていたい。

 雨のせいか、少しだけ気温が下がる。身を縮こまらせ、薄手のカーディガンをきゅっと掴む。

 まだかなぁ。まだかなぁ。

 妃乃の帰宅を待つ。

 まだかなぁ。まだかなぁ。

 なかなか帰ってこない。

 まだかなぁ。まだかなぁ。

 ずっとこんなことをやっていたら、自分が壊れた機械になった気分になる。

 本当に壊れてしまったのかな。銀子のこと一つで、わたし、壊れちゃった?

 まだまだ妃乃は帰ってこない。

 雨足は強まるばかり。

 梅雨入りして初めて、こんなに本格的に雨が降ったかもしれない。


「何を、しているの?」


 妃乃の、酷く困惑したような声が聞こえた。

 これは夢? 清雨ちゃんがいい夢でも見せてくれた?

 妃乃が帰ってくるにはまだ早いような……。けど、今、何時? あれ? 空はもう暗い?

 っていうか、わたし、気づいたら横になってた?


「瑠那! どうしたの!?」


 妃乃が慌てて駆け寄ってくる。寝転がるわたしの体を必死に起こす。


「妃乃……? 本物?」

「本物だよ! ねぇ、瑠那、どうしたの? 具合でも悪いの? いつからここにいたの? なんでこんなところで寝てるの?」

「うー……一遍に訊かないでぇ……」

「とにかく、中に入るよ! もう……なんでこんな……」


 妃乃が玄関の鍵を開ける。妃乃に会えたおかげで、少しだけ気力が戻った。のそのそと立ち上がって、妃乃に手を引かれながら家の中へ。


「手が冷たい……。服も濡れてるし! お風呂入って!」

「うん……」


 妃乃がわたしを脱衣所に押し込む。呆けたまま突っ立っていると、妃乃が呆れ顔でわたしの服を脱がせ始める。


「瑠那が自分で脱がないのが悪いんだからね」


 一人じゃ何もできない幼児になった気分で、妃乃がわたしの面倒を見てくれる様を見届ける。

 ぼうっとしている場合じゃないのはわかっている。でも、上手く思考が働かない。


「……あとは、自分でやって」


 下着姿になったわたし。ええっと、何をどうすればいいんだっけ?

 わたしがおろおろしていたら、妃乃が目を閉じながらわたしの下着も脱がした。

 浴室に放り込まれるわたし。

 そこでもまだ呆けていたら、妃乃がシャワーを調整してくれようとしたのだけれど。

 その前に、わたしは妃乃にしがみついた。


「瑠那……?」


 特段、わたしより頼りがいがあるわけでもない、華奢な体。

 折ってしまいそうなくらいにきつく抱きしめて、わたしは随分と久々に、大声を上げて泣きわめいた。


「瑠那……。本当に、どうしたの……」


 何も言えないわたしを、妃乃が優しく抱きしめてくれる。

 冷えた体に妃乃の温もりがしみていく。

 このまま涙と一緒に、わたしの心とか魂も、全部流れちゃえばいいのにな、なんてことを思った。

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