第20話 ファースト

「……本当にいいの? 自分の心を全部覗かれるなんて気持ち悪いでしょ?」


 泣きやんだ妃乃が、すがるようにわたしを抱きしめながら言った。


「いいよ。妃乃になら」

「本当に、本当?」

「本当だってば。っていうか、わたしの気持ち、妃乃は全部わかってるんでしょ? そんなに疑うなら、わたしの心をじっくり覗けばいいじゃない。わたし、なんて思ってる?」

「……いいよって」

「だったら、それが全部じゃん。妃乃が心を読める人で良かった。一切の誤解もなく、わたしの気持ちがちゃんと伝わるね」

「……うん。ありがとう」


 そのまましばらく、無言で抱き合っていた。

 妃乃が落ち着いてくると、わたしもだんだんと思考が別の方向に向かってしまって。

 いい匂いがするなぁとか、柔らかくていい感触だなぁとか、煩悩がひょっこり顔を覗かせた。


「……瑠那ってやっぱりやらしいよね」

「……仕方ないじゃん。妃乃のこと、好きなんだもん」

「雰囲気が台無しだよー」


 文句を言いながら、妃乃はくすくすと笑っている。耳元で笑うものだから、そのまま脳が溶けそうな気分。


「こんなわたしは嫌?」

「ううん……いいよ。そんな瑠那が好きだよ」

「良かった。……それで、その……この状況、これからどうすればいいのかな? わたしとしては、この流れでキスの一つくらいはしたいところなんだけど」

「それ、あえて言葉にしちゃうの?」

「……黙ってたって伝わっちゃうんだから、言っても言わなくても同じでしょ?」

「そだね。じゃあ、キス、しよっか」

「……うん」


 事前に宣言するなんて、雰囲気作りがなってないなぁ。

 けど、これももう仕方ないことだ。妃乃と付き合っていく限り、これはずっと変わらない。それでいいっていう関係を築いていこう。


「私、キスって初めてなんだよね」

「……うっそだー。妃乃、前に彼氏いたじゃん」


 妃乃とクラスメイトになったのは今年の四月から。しかし、それ以前にも存在は認識していて、男子と手を繋いで歩いているところを目撃したことがある。


「あの彼氏とは、なんにもしなかったんだよ。付き合ってはみたけど、恋人らしいことはほとんどできなかった。……男の子の心はやっぱり少し怖くて、近づきすぎるのをためらっちゃった。

 それに、考えていることもちょっと……いい加減というか……。瑠那であっても、詳しくは言えないんだけど……」

「……そっか。言いづらいことは無理に言わなくていいよ。プライバシー、大事。わたしのことも、勝手に他の人にしゃべらないでよね。わたしの全部を知っていいのは、妃乃だけだから」

「わかってる」


 前置きはここで終わって、お互い少しだけ距離を取る。

 抱き合う距離より少し遠いのに、キスのための距離はもっとどきどきした。


「……瑠那の顔、赤いね」

「お互い様だし。っていうか、そういうのこそいちいち言葉にしなくていいし」

「瑠那、可愛い」

「……妃乃の方が可愛い」

「大好き」

「わたしも、大好きだよ」


 近距離で見つめ合う。妃乃はわたしを見つめるばかりで、なかなか動こうとしない。これ、わたしから動けってこと? キスってどうやるの? 動き出すタイミングってどうなの?

 妃乃から動いてほしい……と念じているのだけれど、妃乃はなかなか動いてくれない。わたしの心、わかっているはずなのに。

 だんだんうずうずして、焦れったくなる。

 早くキスしたい気持ちが高まる。

 くすっと妃乃が笑う。


「もう! なんだよぉ! どれだけ待たせるつもり!?」

「キス待ちの瑠那が可愛すぎて、焦らしたくなっちゃった。ごめん」


 全然悪びれる様子がない。妃乃、やっぱり意地悪だし性根がねじれている。


「……早く、してよ」

「瑠那から動けばいいのに」

「妃乃からがいい」

「はいはい。瑠那のこだわりね」

「……もう。妃乃のせいで、本当に雰囲気台無し」

「緊張しすぎて、初めてのキスを何も覚えてないなんて嫌でしょ?」

「緊張してたって、初めてのキスを忘れるわけない」

「それもそっか」

「うん」


 一拍置く。それからすっと、妃乃の顔が近づいてくる。

 とっさに目を閉じる。

 唇が重なった。

 他人の唇に触れるのは初めてだ。こんなに柔らかいものだったんだね。

 その感触だけは鮮明で、だけどそれ以外のものが意識から外れていく。

 柔らかな筆先でちょいちょいと相手をつつくような、繊細で優しいキス。

 陽気で明るい妃乃の、脆くて弱い部分に触れているようにも感じられた。

 決して強いだけじゃない妃乃の深いところを覗けたようで、愉悦と呼ぶような嬉しさがあった。

 そして、一生に一度の、ファーストキスが終わった。


「……妃乃、好き」


 キスの距離を保つ必要もなくなって、もう一度妃乃に抱きつく。こうして触れあっているだけで幸せ。他に何もいらない。嘘。もっと欲しい。妃乃にもっと触れたい。


「……好きだよ、瑠那」


 頭の中で、好き好き好き好き好き好きと訴えてみる。

 妃乃がくすりと笑って、やっぱりまた雰囲気を台無しにしてくる。


「なんだよぉ。笑うなよぉ」

「瑠那が笑わせにきてるくせに」

「わたしは好きって伝えてるだけだもん」

「限度があるでしょ」

「妃乃が好きすぎるせいだもん。仕方ないじゃん」

「はいはい」


 またしばらく抱き合って、ちょっと足が疲れてきたなぁ、と頭によぎったところで、妃乃がわたしを離す。


「……瑠那、泊まってく?」

「……いいの?」


 泊まるってことは、つまり、そういうことだよね?


「瑠那が良ければ。けど、親は何も言わない?」

「ん……連絡しておけば大丈夫」

「そっか。なら、泊まっていきなよ。明日は日曜日だしさ」

「……うん。じゃあ、そうする」


 恋人のおうちにお泊まりである。これは、脳内妄想が実現すると見て間違いないだろう。妃乃もわかっているはず。


「……ちょっと、親に連絡する」

「うん」


 妃乃から離れ、スマホを取り出す。

 親に連絡しようと思ったのだが、同時に、銀子から来たメッセージも目に入った。


『よー。例の子との初デートはどんな感じだった? 上手くいった?』


『珍しくなかなか返信がないけど……大丈夫か? 何か上手くいかなかった?』


『いや、これはむしろ、上手くいきすぎて、そのままいくところまでいっちゃった感じ? 既に情事に及んでる!?』


『お邪魔するつもりはないけど、状況報告求むー。大丈夫かどうかだけ教えてけろー』


「……銀子、心配しすぎ」

「いい友達ね。けど、やっぱりちょっと悔しい。今まで瑠那を支えていたのは、その銀子さんなんだよね」

「……うん。ずっと誰にも言えなかったこと、銀子にだけは言えた。色んな相談もできた。ネット上の付き合いだけでも、素直に色々と言えるのは、それだけですごく救いだったよ」

「……私と付き合ってても、銀子さんとの関係を絶つつもりはないよね?」

「……ごめん。ない」

「それでいいよ。でも……瑠那が恋していいのは、私だけだからね?」

「わかってるって。銀子はあくまで友達。直接会うこともない」

「……そうね。なら安心かな」


 心配性な銀子のために、返信を返す。


『大丈夫だよ。詳細は省くけど、例の子と付き合うことになった。それで、今夜はもう連絡できない。またね』


 銀子からすぐに返信が来た。


『おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお! え? なになに? 一気にそこまで進展しちゃったの!? マジかー! すげー! 羨ましい! おめでとー! 頑張れよ! 日頃の妄想で鍛えたテクニックでひぃひぃ言わせてやれ!』


「もー……。変なこと言うなし……」」


 銀子のメッセージは、自動的に妃乃にも伝わってしまう。とても恥ずかしい。


「いい友達だね」

「……うん」

「年期が違うし、仕方ない、か」


 妃乃がわたしを背後からぎゅっと抱きしめる。


「すぐに、瑠那の一番になってみせる」


 既にわたしの一番は妃乃なのだけれど……妃乃はわたしの心の何を読んだのかな?

 妃乃はなかなか離してくれなくて、じゃれあう時間がまたしばらく続いた。

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