軌条は架け橋を亙る

篤永ぎゃ丸

銀杏橋

 老人男性の目の前で、女子高生が橋の手摺りに身を預けて泣いている。からっ風が、曝された耳や手をはたいて真っ赤にする時期だ。受験に落ちたのか、恋に破れたのか。部外者目線でも、その辺りの見当が付く。悲しみに暮れる女子高生を支える橋の中央には、列車を想起させる軌条が引かれている。玉川上水を跨ぐ橋の入り口にいた老人は、新しさに囲まれながらも、在りし鉄道時代の足跡を履き慣れた革靴でなぞった。

 老人の手には野球ボールが握られていて、背後から鮮やかな薔薇のワンピースを着飾る琥珀セピア色の若い女性達が野球場を目指して、ウキウキ気分で歩いてく。カキンと伸びていくバッティング音と人々の歓声を追いかける列車が、ガタン、ゴトン、と橋を横切った。だが、消魂けたたましい警笛が時間旅行を終わらせる。


 その昔、この場所には『武蔵野競技場線』が走っていた。三鷹駅から武蔵野球技場を結ぶ列車は戦後、前向きに生きる客人達を野球場まで運んでいたが、その役割は僅か数年で終わりを迎えたという。


 橋に居座る軌条は戦後の武蔵野を語りかけるが、現代に戻ってきた老人は更に昔を遡ろうとゆっくり橋を渡ってく。その背後せうしろで女子高生は、今の武蔵野を湿った瞳で見つめていた。その橋の横に伸びる四車線の道は、以前列車が走っていた影を塗り固めたのか、綺麗に整っている。そんな情景を見つめる涙雨の先には、今も地域を支える遺構が身を潜めていた。しかし最近架けられたと思われる橋から、その全容を覗く事は難しい。


 引き返す事無く、橋と線路をわたる老人の横に砂利を積んだ蒸気機関車が、煤を撒き散らしながら横切った。汽笛が聞こえたのか、老人はその場から振り返った。咽返す蒸気が晴れていくと、上空に零式艦上戦闘機が次々と姿を現した。老人は幼き目で空飛ぶ芸術を追い掛ける。ところが、息衝くエンジン音と旋回の傾きを見せる機体が慌てて頭上を過ぎ去ってく。


 戦闘機が目指す方角には、北多摩郡武蔵野町西窪。すると、一帯を埋め尽くす平たい屋根の軍需工場が老人の視界に建てられた。それは航空機エンジンを製造していた『中島飛行機武蔵製作所』である。零式戦闘機の動力もこの場で作られていた。全ては未来の為に。勝利の為に。


 耳鳴りを誘う空爆音がした。工廠こうしょうから目を逸らした老人の周りに瓦礫が飛び散る。頭痛を促す重い音が頭上からする。空から爆弾が降ってくる。機関銃の弾が注がれる。昭和初期の風景を無差別に焼き尽くしていく。標的は動力を作る武蔵野製作所、敵の心を圧し折る為だ。

 老人が立ち止まる橋の奥から、豪火と黒煙から逃げ惑う住人達が次々と橋から川に飛び込んでく。赤ん坊の泣く声が、母ちゃんと叫ぶ少年の声が、耳にこびり付く。


 そこに選挙カーの拡声音が横切って、老人はハッと現代に戻ってきた。今、見える景色は焼け野原から程遠い。手摺りにいる女子高生の鳴き声も静かで、落ち着いている。二人を乗せる橋梁きょうりょうが平和を支える下で、崩れて蔦が巻き付く橋台が現代にしがみ付いている。初めは中島飛行機武蔵製作所引込線として、戦後は国鉄武蔵野競技場線として、時代を橋渡ししてきたのだ。


 泣きつかれた女子高生は、手元のスマホでメッセージアプリを操作した。それを見た老人は息が整っていくが、疲れて橋の手摺りに身を預けて休んだ。そして、二人が見る景色が一致する。程良い緑、見慣れたグレー、過ぎ去っていく綺麗な車両の数々。

 工廠こうしょうのあった武蔵野市緑町は現在、武蔵野緑町パークタウンとして都営住宅に姿を変え、その西側は都立武蔵野中央公園で人々の憩いの場となっている。


 橋は人を振り返らせる。立ち止まって景色を見せる。老人と女子高生が休憩する橋の名は『ぎんなん橋』である。その橋に引かれている軌条は今日も道をき、積み重なる土地の記憶は、色褪せない事を願うのだ。

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