6-4 黎明薄暮(3)

『拝啓 晋祐殿。晋祐殿もキヨも息災で過ごされているだろうか。こちらは変わりなく、元気に過ごしている』

 利良の溌剌はつらつとした雰囲気が文面から滲み出しているようで、晋祐は思わずくすりと笑った。

晋祐様しんすけさぁ! 兄様あにさぁは何ちな? 元気じゃろかい?」

 利良からの手紙を読む晋祐の傍らで、キヨが嬉しさを隠しきれない表情で問う。

「あぁ! 元気そうだ! 今度、西欧視察団の一員として仏蘭西フランス英吉利イギリス等の警察を視察しにいくんだそうだ」

 晋祐の言葉に、キヨは大きな目を見開いた。

 キヨのそんな顔は、利良と似ている。晋祐はキヨを見て口角を上げると、手紙の文字を目で追って読み上げる。

「兄様は、外国へ行っきゃっと?」

「そうみたいだな。優秀な方だからな、利良殿は。きっと白羽の矢が立ったのだろう」

「また、帰っくっとが遅くなっしもなぁ……」

 キヨは、はぁと大きくため息を吐いて呟いた。

「その変わり。キヨさんに、たくさんの土産を持って帰ってくるんじゃないかなぁ」

「じゃっどかい?」

「利良殿は、約束を破ったことはないだろう?」

「じゃっどん……」

 何やら、思うところがあるのか。キヨは丸めた示指じしを口元に当てて言葉を飲み込む。

「どうかしたのか? キヨ」

 不安気に瞳を揺らすキヨの肩を、晋祐はそっと抱き寄せた。

「……あたいの思い過ごっじゃっかんしれんどん。兄様には、片手で数えるひこっしか、会えん気がしっもんそ」

「大丈夫だ。利良殿は必ず帰って来る」

「晋祐様……」

「いつ利良殿が、帰ってきてもいいように。利良殿の好物を常に準備をしておこうか?」

「はい! 分かい申した!!」

 晋祐の提案に、満面の笑顔でキヨが答えてからというもの。有馬家の日課に、蒲鉾かまぼこ作りが加わる。

 蒲鉾好きの利良がいつ帰ってきてもいいように。無事帰ってきて、利良の笑顔が見たいと思うがこそ。晋祐とキヨは、毎日精一杯蒲鉾を作ることを楽しんでいた。


 一方その頃、利良は。

 大きな帆船に乗り込み、遥か彼方まで続く水平線を眺めていた。晋祐とキヨに手紙が届くより前に、利良は既に日本を出国。燃料や食糧の補給をしつつ、一路、イギリスを目指す。欄干に頬杖をついて、利良はため息混じりに独言ひとりごちた。

「遠くまで、来っしもたなぁ……」

 御親兵として上京した利良の身分は、僅か一月ひとつき後には西郷隆盛の名により東京府大属とうきょうふだいさかんとなっていた。

 王政復古により、士族の身分が半端になる。今まで士族が統治していた日本の治安の維持を、根本から覆さねば真の維新にはならない。西郷は頭を悩ませていた。

 当時、警察の前身として、慶応三年(一八六七年)には、イギリス人を長官とした『警察事務所』なるものが設置されている。

 しかし、実際には治安維持として活動することのない代物であったことから、西郷隆盛は本格的に日本の治安に係る法整備に乗り出した。そして、その重要な責務を利良に与えたのだ。

 政治的裏側には、廃藩置県で立場を失った士族の受け入れ先に苦慮したため、警察という組織を構築したとも言われている。

 軍人ではなく文官として官僚となった川路は、東京の治安維持と警察制度の骨子を任された。

 その優秀な働きぶりが評価され、同年十月。利良は、東京府権典事兼第五大区総長に。さらに十二月には、東京府典事へと昇任する。

 そこからは、あれよあれよといううちに。西郷の推薦により、利良は司法省による西欧視察団に選抜された。息つく暇もなく、気がつけば大海原に放り出されてしまっていたのだ。

 海と空の間に浮かぶ日本の影も、いつの間にか水平線の向こうに消えてしまった。途端に、記憶に刻まれた、ハスイモの酢漬けと大根おろしを思い出す。

 何時ぞや。江戸へ遊学した際に、晋祐や木戸等と船内で食したあの味が、口の中で再現されて広がっていった。

「晋祐殿は、元気しぃちょっどかい」

 新しい世界を切望するのに。自分を取り巻く環境が、急激に変化してしまったがためなのか。遠く離れてしまった故郷が、懐かしくてたまらない。

 利良は、欄干に頭を乗せて西に沈みゆく大きな太陽をひたすら眺めていた。

「なんだ、川路君はホームシックか?」

 郷愁真っ最中の利良の背中に、突然、耳慣れない言葉が投げつけられる。

 利良は、欄干からゆっくりと頭を上げて振り返った。

「井上殿……」

「いつも穏やかな川路君でも、ホームシックになってしまうのだな」

 一糸乱れぬほど。几帳面に整えられた散切り頭に、堂々とした態度。利良より九つも下とは思えないほどの風格を宿した井上毅いのうえこわしが、腕を組んで立っている。

 肥後藩出身。〝熊本藩下の秀才〟と言われた井上は、後に憲法の設計や学校・教育改革に尽力した。明治維新の立役者の一人である。

とはなんな?」

 初めて聞く未知の言葉を、ゆっくりと発音しながら井上に問う。

「〝郷愁症〟という意味の英語だ」

「さすが井上殿じゃ! よう勉強をしぃちょいもんごわんさぁ」

「そういう川路君は、どうなんだ?」

「どう……って、語学でごわんか?」

「そうだ」

 井上は相変わらず腕を組んだまま、短く答えた。

英吉利イギリスん言葉は、ちっとしか分からんどん。仏蘭西フランス語は、大体分かりもんそ」

 利良は満面の笑みを浮かべると、洋装の内側から表紙がぼろぼろになった冊子を取り出した。

おいには、強い味方があっでなぁ!」

「やっと笑ったな」

「え?」

「ここ二、三日、元気がなかっただろ?」

「……そうで、ごわしたか?」

 一瞬目を丸くした利良だったが、井上に指摘されたことを頭の中で反芻する。

 確かに、西欧視察団の打診が来てからというもの。慌ただしく日々過ごし、冗談をいう暇も、笑う暇もなかった。気も急いて、夢中で船に乗り込んだせいか、直近一週間ほどの記憶が全くない。

 新世界への思いは強いのに。

 押し寄せる恐怖や重圧、懐かしい故郷への思いがごちゃごちゃと頭の中をかき乱した。

 そんな現実を目の当たりにして、利良は再び欄干に頭をのせる。

「こげんこっじゃいかんなぁ……。全く余裕が無かが」

 その時、頭の隅の方で『大丈夫だ!』と、晋祐の声が響いたような気がした。

『大丈夫! 利良殿ならできる! 楽しんでこい!』

 郷愁ばかり膨らんだ胸中が、一瞬で澄み渡り晴れ晴れとした気になってくる。

「船中で、徐々に慣らせばいいじゃないか」

 気を使い優しげな声音で話す井上に、利良は吹っ切れたような笑顔を見せた。

「じゃあさいなぁ! 徐々に! 徐々にじゃな!」

「お? もうホームシックは治ったか?」

「たまには〝ほーむしっく〟も良かしとぉ!」

 利良の言葉を待っていたかのように、井上は懐から小さな猪口を取り出す。井上のあまりの準備の良さに、利良はつい吹き出してしまった。

「元気を取り戻した直後で悪いが、川路君。一緒に酒など飲まないか?」

「良かなぁ! 船室から焼酎を持っくっで! 一時いっとん待っくいやい!」

 利良は大きく伸びをすると、思いっきり息を吸う。

 湿っぽい潮風は、桜島の裾野に広がる錦江湾にも似て。甲板の上で一歩踏み出すと、小気味いい音が短靴に伝わってきた。

 同時に利良は、心の中で踏みとどまっていた新世界への一歩を、大きく力強く踏み出したのだ。


 フランスで岩倉具視使節団と合流した利良等は、ジョセフ・フーシェが確立した警察制度を学ぶ。

 フランス革命後、一七八九年の人権宣言が基本となった「疑わしきは罰せず」は、有罪が証明されるまでは無実とみなされることになる警察制度。

 そこでフランスは、一刻も早い治安基盤を確立をすべく内務省を創立する。

 一七九一年には、警察署がフランスに配置され、九年後の一八〇〇年には、パリ警視庁が創設。

 五千人以上がクラス都市に警察署が配置された。この近代警察の組織を作ったのがジョセフ・フーシェ、その人である。

 政治家であるフーシェはナポレオン政権下では警察大臣を務め、〝複数の場所に同時に存在する警察機構〟という近代警察の原型を組織した。

 一方では秘密警察(※ 現代では公安警察が近い)の情報収集力や機動力を自らのために利用し、政権中枢をうまく渡り歩いた謀略家としても知られている。

 狡猾な印象が強いフーシェではあったが、彼が確立した警察機構は実に効率よく、機能的にできていた。

 利良は、フランスやイギリスで司法に係る制度や法律を片っ端から学ぶ。昼夜も問わず、なりふり構わず。懸命に警察制度を習得した利良は、日本の警察を確立する際、フーシェの近代警察を範とした。

 日本警察の父--それを成し遂げたのが、川路利良。その人なのだ。

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