2-4 江戸へ(3)

「地図を解読すっとに、ようやっ慣れっきもした」

 と照れながら前置きをして。利良は口をゆっくりと開いた。

 夜の帳が下りたころ。

 島津藩の参勤交代の一行は、山間の寺院に宿を設けた。

 息つく暇もなく宿に雪崩れ込み、こざこざとした業務をこなす。晋祐がはぁと深く息を吸った時はもう、既に子四つ刻(午前一時頃)になっていた。

 久しぶりに顔を合わす晋祐と利良は、寺院の庭先に穴だらけの後座を敷き腰を下ろす。

 そして、こっそりと利良が持参していた辛い芋焼酎を、欠けた二つの黒い猪口ちょこに入れた。

 故郷にいるより近く感じる丸い月が、焼酎に小さく浮かぶ。さながら夜空を飲み込むように、二人は焼酎を酌み交わした。

「利良殿、富士山を見たか?」

「見もした!! あげんふっとか山ははいめ見いもした!」

「俺も初めて見た時は、開いた口が塞がらなかったなぁ」

「田子浦清松樹間(田子の浦清し 松樹の間に)

芙蓉天半破雲間(芙蓉は天半に 雲を破りて間かなり)

行人誰識赤人意(行人は誰か識らん 赤人の意を)

只誦歌詞謾望山(只歌詞を誦えて みだりに山を望む)」

「え?」

「富士山のこつ、キヨにも教えてやらんならっち。ついでに歌どん、作ってみいもした」

 機嫌良く歌を詠む利良に、晋祐の気分も緩む。

 気を張った参勤交代で、久しぶりに気心知れた者と酒を酌み交わす喜びが、湯を浴び、仄かに上気した晋祐の頬までも朱く染める。さらに体中に染み渡る焼酎のせいで、晋祐は余計に頬の熱さを感じていた。

 利良は猪口の焼酎を一気に煽り、ぼろぼろになった地図を両手で丁寧に広げる。そして、真っ直ぐに晋祐を見上げ言った。

「今切関所で江戸から来たもんに聞っもしたが、将軍様しょうぐんさぁはその役目を全うしておらんげな」

 時の将軍は、十三代・徳川家定。

 薩摩藩では言わずと知れた篤姫が嫁いだ将軍である。家定は生まれながらにして病弱であったことから、丈夫な世継ぎの誕生を切実に願っていた。そこで、南国の地ですくすくと育ち、健康体である篤姫に白羽の矢が立ったのである。

 しかし、この輿入れには多くの「否」が投げかけられた。

--将軍家と、あまりにも身分が違いすぎる。

 今和泉島津家の当主・島津忠剛の長女として、篤姫は薩摩藩鹿児島城下上竜尾町大竜寺馬場(現・鹿児島県鹿児島市大竜町)に生まれた。所謂、島津家直系ではない〝一門〟の出だ。

 徳川家と姻戚関係を築きたかった薩摩藩主・島津斉彬は、一計を案ずる。

 従姉妹である篤姫を養女としたのだ。更に右大臣・近衛忠煕の養女となった篤姫は、ペリー来航の年の十一月、徳川家定の正室になった。

「将軍様は、積極的に政治を行おうとはしぃちょらんらしい。将軍職についてから、さらに病に伏せっちょっち噂もあいもんそ。江戸に住んじょった町民の殆どが、声を顰めることなく言うもんじゃっで。十中八九、噂では無かと思いもす」

 〝将軍様も、執政にやる気を見せていない〟と。

 まことしやかに晋祐の耳に入っていた。仮にも薩摩藩の出である篤姫が契りを交わしたお相手である。

 激動する時勢の中、薩摩藩の命運を小さな身体で背負っている篤姫には、末永く心穏やかな幸せをと。

 晋祐は、そう願わずにはいられないかったのだ。しかし、はたから見ると、その小さな願いは神仏には届いてないらしい。

 晋祐は眉間に皺を寄せて、「あまり、耳心地の良い話じゃないな……」と呟いた。

 その言葉の後に続く、言いようもない感情を抑え込むように。晋祐は黒い猪口の中に揺れる焼酎を一気に煽った。

「晋祐殿は、そげん言うち思ちょいもした」

「え?」

「晋祐殿は、優しで。きっと篤姫様のこっに、胸を痛めっじゃろなぁ、って」

「……そんなに、優しくはないよ。俺は」

「話すそん言葉も、晋祐殿のお母様っかはんに、さんしか思いをさせんごつやっで」

「……」

 まさか。利良にそこまで見られて、読まれているとは。

薩摩の言葉を話せない母親に、寂しい思いをしたせないように。晋祐が薩摩の言葉を話さないのは、晋祐なりの小さな気遣いだったのだ。

 したがって、晋祐が篤姫を深く思うのは、おそらく自らの根底に自分の母親と境遇が似ているという思いがあるのだろう。

 参勤交代中の父親に見染められ、思いっきりよく江戸から嫁いだ晋祐の母親は、いつもにこにこと楽しげに笑う。

 顔や言葉には出さぬとも、薩摩藩に来てだいぶ苦労したのは想像に固くない。篤姫と母親の身分や境遇は違えど、母親の経験した苦労が自然と篤姫と重なる。それが晋祐の胸を、無性にざわつかせた。

「晋祐殿は、優しで。本当ほんのこち」

「あんまり茶化すなよ。利良殿が言うほど、優しくないよ、本当に」

「その性根が、俺には羨ましか」

「何を急に! 何を……言い出すんだ、利良殿」

 羨ましいとか、ありえない。

 ましてや、自分より能力の劣る相手に羨ましいなどと、どの口が言っているのか。晋祐は眉間に皺を寄せて利良を見上げた。

「俺は、本当に晋祐殿が羨ましか……」

「まだ言うか……ッ!!」

 本心か? もしくは馬鹿にしているのか? 

 真意が分からない利良の言葉に、晋祐は本格的に臍を曲げ、手にした黒い猪口を割れんばかりに握り締める。瞬間、力の篭った晋祐の手に、利良が自らの手をそっと重った。

 熱く、厚い、大きな手。

 軽く重ねられただけにも拘らず、晋祐はその手を払い除けることができないでいた。漬物石でも乗せられているような圧力。晋祐は下唇を噛んで、利良を睨んだ。

 晋祐に睨まれてもなお、利良の表情や目の輝きは怯えるでもなく、優しげに凪いでいてる。利良はゆっくり口を開いた。

「あんとっも、晋祐殿に助けてもらっちょらんかったなら……俺は、この世に居らんかったかもしいもはん」

「あの時?」

 〝あの時〟と言われても、と。晋祐は首を傾げた。

 利良に助けてもらったことは両手の指では数えきれないほどあっても、利良を助けたことは記憶のざるにも引っかからない。

「え?」

 晋祐の反応に、利良は素っ頓狂な声をあげた。みるみる悲しげな表情となる。

「まさか……覚えちょらんとか、言いもすか?」

「……」

「信じられん」

「そんなこと……言われても」

 未だ記憶が見つからない晋祐に、痺れを切らしたのか。

 黒い猪口を地面に叩きつけるように置いた利良が、間髪入れず、乱暴に晋祐の着物の袖を捲った。

「わっ!? ちょ!! 利良殿、何を!?」

「晋祐殿に、こげな傷を残っしもた」

「……あ」

 新太郎は堪らず声を上げた。左腕の内側から肩口にかけて残る古い傷が、露わになる。

 瞬間、忘失していた記憶が断片的に瞼の裏を掠めた。

 僅か、八年前の記憶。

 晋祐の記憶が欠如するほどの、八年前の出来事--。

「まさか、あの時の?」

 晋祐自身、利良に袖を捲り上げられるまで、傷の存在とその出来事すら、今の今まですっかり忘れていたのだ。

 利良は大きな手で、晋祐の傷をそっと撫でた。指先が傷を辿る度に、利良の目から涙が一筋、二筋と溢れ落ちる。

「痛かったどなぁ……。すいもはん……晋祐殿、すいもはん」

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