2-3 江戸へ(2)

兄様あにさぁ! 無事に帰ってきてくいやいなぁ!」

 日も昇りきりない時刻。

 薄暗い山間の道に、甲高い娘の声が響く。

 家族を起こさぬよう、利良は物音を立てずにそっと家を出た。誰にも気づかれてないはずであったのに。気配を察したキヨが、闇に輪郭を残す後ろ姿に向かい声を張る。

 泣きているのだろうか? 

 叫ぶ声が震えているのが分かった。

「キヨ……」

 一言呟き、思わず爪先が声の方に向く。

 今、走って戻ってしまえば、きっと。キヨを抱きしめ、泣き止むまで宥めてしまうだろう。ただし、そうしてしまえば、目の前に拓れた知らない世界に続く道を、二度と踏み出すことは決してできない。利良の感覚が、警鐘を鳴らしそう伝えた。

「行って……きもんで」

 小さく呟いた言葉は、揺らぐ決意を強く自分自身の中に落とす。利良は菅笠を深く被り直すと、踵を返して薄暗い山間の道を速足で進んだ。


 利良は島津斉彬の参勤交代のお伴として、初めて江戸に行く。そのお役目は、薩摩と江戸をつなぐ飛脚。

 所謂いわゆる、大名行列の情報を早く伝え、情報を収集する斥候せっこう的役割だ。新太郎と上役の推薦に加え、妙円寺詣りで良い走りをしていた利良を見ての大抜擢だった。

 希望を含み高鳴る胸と、後ろ髪を引かれる思い。利良は頭を横に振ると、全てを振り切るように勢いよく山間の道を走り出した。

 

 利良が参勤交代の役に就く三年前の嘉永六年(一八五三年)。

 ペリー率いるアメリカの軍艦が浦賀に上陸した。

 大統領の国書を幕府に差し出し、ペリーは開国を迫ったのだ。このことは、遠く薩摩にいる利良の耳にも届いていた。

 --時代が、変わる!

 さらに知らない世界が、広がる予感と希望を胸に秘め、利良と晋祐は黎明の夜明けを感じたものである。

 島津斉彬が参勤交代により上京する僅か一週間ほど前、幕府とアメリカは日米和親条約を結び、下田と函館を開港した。

 その後、立て続けに日米修好通商条約を締結。

 アメリカの強い姿勢は、下田・函館の二港のほかに、横浜・長崎・新潟・神戸を開港させ、幕府に自由貿易を行うことを認めさせた。

 さらに幕府は安政五年(一八五八年)、同じ条約をオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも締結する。これを「安政の五カ国条約」という。

 しかし、これらの条約は「領事裁判権を認める、関税自主権がない」などといった幕府に非常に不利な内容を含んだ不平等条約であった。自由貿易と称したこの不平等条約により、幕府を含む日本の経済は大きく変わることとなる。結果、金や銀が日本国外に大量に流出し、不安定になった日本経済は、物価高騰を引き起こすきっかけとなってしまったのだ。

 日本経済が大きく揺らいでいた中の参勤交代。

 各外様大名が抱える藩の財政も、例に漏れず逼迫ひっぱくしていた。

 逼迫する日本全体を尻目に、薩摩藩は藩財政を密貿易政策という別の形で藩政を補っていたのである。

 本土南端に位置した薩摩藩は、加えて海上に南西諸島を有する。地理的にも交易に有利であったことから、密貿易政策を行う以前より、中国との貿易が盛んに行われていた。古くから行われていたそれらの交易は、藩の財政を長い間支えていたのだ。

 中世より、坊津をはじめとする(現・鹿児島県南薩地域)薩摩藩の南にある寄港地は,幕府や民間の日中貿易の基地として重要な役割を果たす。

 紀国屋文佐衛門などと並び称された豪商が、南薩界隈の各港町を牛耳り幅を利かせていたのだ。

 さらに鎖国後には「抜け荷」と呼ばれる密貿易が公然と取り仕切られていたことを踏まえると。交易は薩摩藩にとって切っても切り離せない財源といっても過言ではない。

 しかし、いくら密貿易が藩財政を潤していたとはいえ、薩摩から江戸への参勤交代は莫大な費用を伴う。

 従って晋祐をはじめとする勘定役は、参勤交代中、息吐く暇もないほど算盤そろばんを片手に必死に資金繰りに奔走していた。新世界の黎明、その感傷に浸るなど二の次、いや三の次である。

「晋祐殿ーっ!!」

「と……利良殿!?」

 滴る汗が帳面に落下しないように。額に鉢巻を巻いた晋祐は、聞き覚えのある声に振り返った。真新しい着物を肩口までたくしあげ、袴をはためかせて走る長身の男。晋祐に向かって大きく手を振る利良の姿が、あっという間に立ち尽くす晋祐に近づき並ぶ。

「……相変わらず、元気だな」

「あぁ! 今切関所いまぎれせきしょ(現・静岡県湖西市新居町新居)まで行っきもした!!」

「い、今切!?」

 奈良の山間、吉野古道にいる大名行列本隊。

 そこから今切関所は、最低でも六十里(約二百四十キロ)はある。かなりの長距離を移動してきたにも拘らず、爽やかに答える利良とは反対に。晋祐は飛び出さんばかりに、つぶらな目を見開いた。

 鉢巻に流れる額の汗が、一気に引いた気がした。

(飛脚・斥候役とは聞いていたが、これほどまでのことをするとは……)

 過酷であろう職務を、あからさまに想像できた新太郎は、堪らず晋祐は自らの腰にぶら下げた竹水筒を利良に差し出した。

「先刻、湧水を入れたばかりだ! 利良殿、飲めっ!」

「気をつこわんでくいやい! おいも先刻、井戸水を分けっもろたで!」

 上がる息を整え、利良は手拭いを菅笠の下に手拭いを入れる。

「いーや! こっちの方が冷たい! こっちを飲めっ!!」

「……晋祐殿は、飲まんとな?」

「俺はいい! いいから飲め!」

「あ……あいがとさげもす(※ ありがとうございます)」

 利良は、グッと目の前に差し出された竹水筒を手に取る。そして、晋祐に視線を落としながら、一口水を口に含んだ。

「ッ!? んたか!?」

 五臓六腑に染み渡る、冷たい水。

 甘く、軽やかな味わいが、疲れがたまっていた利良の体を奥底から覚醒させる。目を見開き驚く利良を見て、晋祐は満足そうに笑った。

「こげん時は、いっもそうじゃ」

 はぁ、と深く息を吐く。静かに呟いた利良が、竹水筒から口を離して続ける。

「俺の弱か所を、すぐ見つけてくいもはんなぁ」

 破顔一笑。利良の満面の笑顔と、紡がれる黎明の声。新太郎の頭の中で、琵琶のばちが弦を弾く音を立てた。

「晋祐殿は、なんだか兄貴あんにょのごたぁ」

「兄貴とか……。買い被りすぎだ」

「いやいや。俺の自慢の兄貴でごわす」

「い、今切の様子はどうだった?」

 照れと恥ずかしさで、湯が湧きそうなほど真っ赤になった晋祐は話題を変える。

 その問いに、利良の表情が一瞬険しくなった。遠く、吉野古道のその先にある街道を見るような目つきで。利良は低く、短く、呟いた。

「穏やか……では、あいもはんなぁ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る