第19話 ビックホーンの角煮込み 前編

……困った。


よほど気に入られたのか、ダーニャが私を帰してくれない。


攫われてから、すでに数日が経っていた。


「ねえ、いつになったら私を帰してくれるんですか」


「そうだな。妾が飽きたらだろうな」


「そんな悠長な……。早く帰してくださいよ!」


「なにを言う。普段から忙しくしているのだろう? たまにはのんびりしたらどうだ」


必死になって訴えかけても、まるで取り合ってくれない。


正直、たまったものじゃなかった。


お米もくれる気配がないし。


なんだか散々だ。


まもり、心配しているだろうなあ。


ため息がこぼれる。


妹が悲しむ姿を想像すると、胸が苦しくなった。


「……泣いてるかな」


ポツリとこぼして唇を噛みしめる。


おねえちゃんなのに。妹を悲しませてどうするの。


自分で自分を抱きしめた。


早く帰りたい。帰って安心させたい。


こんな場所でのんびりしている場合ではないのだ。


まもりのそばに


「どうしたの」


いつの間にかリリィがそばに立っている。


幼い瞳を向けられて、慌てて表情を取り繕った。


駄目だ、駄目だ。子どもに気を遣わせちゃ駄目。


――私は大人なんだから。


メソメソ、クヨクヨしてる暇なんてない!


「なんでもないよ」


笑顔になって答える。


「どうすれば、ここから帰られるのかなあって悩んでたの」


リリィが小首をかしげた。


「? 変なの、ここほど安全な場所はないのに」


本性が猫の彼女からすれば、家から出なくとも構わないのだろう。


でも、私はそう言っていられない。


――ともかく、帰る方法を探さなくちゃ!





ダーニャは日がな一日、研究室にこもりっぱなしだった。


薬を売って生計を立てているらしい。


種類は、風邪薬や傷に塗る軟膏など多岐にわたる。


意外だった。毒薬でも作っているのかと思っていたのに。


ダーニャという魔女は、人のためになる薬を作り続けている。


――ジオニス様のいうとおり、根はいい人なんだろうな。


せっせと薬作りに励んでいるダーニャの後ろ姿を眺めながら、私は掃除をしていた。


すべては家に帰るため。


手がかりを探すのに掃除は打って付けだろうと、自分から手伝いを申し出たのだ。


それにしても――。


「汚い……!!」


綺麗に見えるけれども、表面だけだ。


棚の隙間には分厚い埃が積もっているし、見えないところにゴミがギュウギュウ押し込まれている。


これだけ汚いのだ。


きっと大量のダニや虫があちこちに――。


「う、うわあああああ……!」


ぞわぞわぞわっ!


全身に鳥肌が立って、せっせと手を動かした。


帰るための手がかりを探していたはずなのにっ!


どうしても掃除してしまう。ピカピカになっていく室内に快感を覚えてしまうッ……!


幼い頃から繰り返してきた掃除。すでに本能に近い衝動だった。


「……ふうっ!」


「ふー」


バケツにたまった汚水を捨てる。額に浮かんだ汗を拭えば、隣でリリィも同じポーズを取っているのに気がついた。


「……なにしてるのかな?」


「まねっこ」


ぴるるるっ! と猫耳を動かす。


まんまるの瞳で私をじっと見上げ、少女は言った。


「おうちの掃除もリリィのお仕事なの。綺麗にしてくれて、ありがと」


ほんのり頬を染めてスカートの裾を持ち上げる。


リリィは無表情が常だった。だが、たびたび仕草に感情がにじむ。なんだか不思議な子だ。


うーーーーーーん。とんでもなく可愛い子だなあ!!


小さい頃のまもりみたい。


あの頃の妹は本当に天使だった……。


ひとり浸っていると、ツンツンとスカートを引っ張られた。


「ね。お掃除、教えて」


「……それくらいならいいけど」


「本当? 嬉しい。お料理もね。リリィ、がんばるから」


気合いを入れている様はなんともいじらしい。


これは応援せずにはいらなかった。


「わかった。すぐに帰るつもりだから、そんなにたくさんは教えられないと思うけど。できるかぎりやってみるね」


「むう」


とたん、リリィのほっぺたが膨らむ。


じとりと不満げに私を見つめた。


「どうして。ずっと一緒にいて。ここは安全なの。なにも怖くないよ」


「でも、妹が待っているから……」


「妹?」


こてんと首を傾げる。


「妹がいるから帰るの?」


澄んだ眼差しを向けられて、思わず目をしばたく。


「う、うん。そうだよ。大切な人が待っているから」


「そっかあ! 穂花はおねえちゃんなんだね!」


ほろりとリリィの表情が和らいだ。


初めて見せた笑顔にドキリとする。


「うわ。可愛い」


「可愛い?」


「いや、笑顔がいいなあって。ハハハ、ごめんね。聞き流してくれていいよ」


なぜだかほんのり頬が熱くなっている。


――なんだこれ。不思議と視線が吸い寄せられる。


ひとり動揺していると、リリィがとんでもないことを言い出した。


「じゃあ、リリィもおねえちゃんの妹になる!」


ぎゅうっと私の腰にしがみつく。


「だから、いろんなこと。教えてね。優しくしてね、ね、ね?」


「……はい?」


「これで!リリィは穂花の妹になった! 甘えても――ゆるされるよね?」


「いや、そんなわけ……」


困惑を隠せないでいる私をよそに、リリィは最高に愛らしい顔に、妖艶さを漂わせて言った。


「よろしくね。おねえちゃん♥」


くらりとめまいを覚えるほどの色気。


いつかは魔性の女になる気配がする。


――……なにこれ。将来が怖い!


正直、心の底から震えあがった。

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