私のロダンな彼

ノミン

私のロダンな彼

 隣の部屋――襖の半分開いた和室からすすり泣く声が聞こえて来た。

 リビングで本を読んでいた柚子は、心配になって和室を覗いた。


「詩乃君、どうしたの?」


 詩乃は、いつものように、高座椅子に座り、パソコンと向かい合っている。PCデスクのモニターの横には、どっしりとしたブックシェルスピーカーが置かれ、そこから、少し古めのJポップが流れていた。

 それを聞きながら、詩乃は、涙を拭って、鼻を啜っていた。


「どうしたの、大丈夫?」


 結婚して、一緒に暮らし始めて早一年。

 高校時代は、一年半ほど付き合ってもいた。

 それでも柚子は、詩乃の言動には、未だによく驚かされていた。


「あぁ、ゆっちゃん」


 詩乃はそう言うと、心配してやってきた柚子を、椅子に座ったまま抱いた。ちょうど、柚子のパジャマのお腹のあたりに、詩乃の顔が来る。柚子は、詩乃の頭を少し撫でてやる。


「どうしたの?」

「うん……」


 詩乃は椅子に座り直し、頬に手を当て、じっと考えこんでしまう。

 これは、いつもの事だった。高校時代から変わらない。ポンポンとテンポよく投げ合う言葉のキャッチボールを、詩乃は昔から嫌っている。受け取ったボールを、その編み込みの糸の本数までじっくり観察して、それから、投げ返そうかどうしようか吟味する、そういう人なのだ。


 柚子はと言うと、詩乃の独特の間や沈黙にも慣れたものだった。

 じっくり、待つ。

 そして、その、待っている時間を楽しむ。

 やがて、詩乃が言った。


「いつかはさ……」

「うん」

「どっちかが死んで、離れ離れになると思うと……」


 詩乃はそこまで言うと、自分の言葉が辛かったのか、再び涙を流し始めてしまった。

 スピーカーから流れている歌は、故人を偲ぶような、そんな曲だった。

 なるほど、と柚子は得心がいった。


「大丈夫だよ、どこにも行かないから」


 柚子は笑いながら、詩乃を抱きしめた。


「ずっと一緒だよ」


 柚子は詩乃の耳元で、そんな言葉を付け加える。

 作家、水上詩乃は、いつもこんな調子だった。物書きにとって幸せは猛毒だ、というようなことを誰かが言っていたが、ひと先ず今は、心配ないようである。

 詩乃君は、幸せではない。

 だから書ける。

 しかしそれは、柚子には複雑なことだった。

 折角結婚して、一緒にいられるようになって、心は満ち足りている。だけど詩乃君の場合は、今度は、それを失う恐怖に苛まれて、不幸せがちらほら顔をのぞかせているようだ。


 本当につくづく、詩乃君は生きづらいだろうなと、柚子は思う。


「新しい小説、書いてたの?」

「うん。ちょっと――悲恋モノ書かないかって言われて。でも、無理だ」


 詩乃はそう言うと立ち上がり和室を出て、トイレに向かった。

 柚子も、リビングまでは付き添った。

 ぐええっと、嘔吐の音が聞こえて来て、暫くすると、涙目の詩乃がリビングに戻ってきた。ソファーに座り、息をつく。柚子はそんな詩乃に、氷水を出してやる。

 詩乃はそれをぐいっと飲み、息をつくと、やれやれと言った調子で言った。


「なんで悲恋なんて、皆読みたいと思うんだろう」

「皆泣きたいんだよ」


 柚子は、湯沸かし器の電源を入れ、紅茶の準備をしながら言った。


「泣ければ何でもいいの?」

「うーん……でも昔から悲劇って、人気だよね」

「それの意味が解らないんだよ」


 そう言って、詩乃は片手で顔を拭い、目を瞑って天井を仰ぐ。

 かなり参っているようだ。


「――いや、意味は解るんだけど……書ける神経が、わからない」

「詩乃君のお話、いつもハッピーエンドだもんね」

「うん」

「でも私も、そっちの方が好きだよ。ほっとするもん」


 柚子はそう言うと、詩乃の右隣に座った。

 すると詩乃は、柚子の肩に頭を預けた。


「うーん、でも、いいのかぁ……そこは無理してでも書けるくらいじゃないと、だめなんじゃないのかなぁ……」


 柚子は、詩乃の腕をポンポンと励ますように撫でた。


「書かなきゃだめなの?」

「まぁ一応、打診されたからねぇ。断ってもいいのかもしれないけど、なんかそれは、負けたような気がして、癪なんだ」

「長編?」

「ううん、短編。だからまぁ、一気に書いちゃえばいいんだけど……」


 それができない、という詩乃の気持ちを、柚子は知っていた。

 詩乃曰く、悲劇にしようと決めて書き出しても、いざその段になると、登場人物に同情して、そういった展開を書けなくなるそうだ。「だって、こっちの都合でひどい目に遭わせるなんて、可哀そうで……」と、以前詩乃は、柚子に話したことがあった。


 柚子は、出来上がったレディグレイを二人分、カップに注いだ。

 詩乃は柚子の淹れた紅茶に砂糖を溶かし、一口飲んだ。


「――でも、書かなきゃね」


 詩乃はそう言うと、ソファーの背もたれから背中を離し、テーブル横に常置しているメモ帳とペンに手を伸ばして取り、そこに何やら書き始めた。何か閃いた時、詩乃はいつも、そのことを紙に書く。いつでも書けるようにと、ペンとメモ帳は、部屋の色々な所に置いてある。


 柚子は、詩乃の丸まった背中に横から抱き付いた。

 本人は全く自覚していない、広い背中。

 詩乃は、柚子の頬を、猫を撫でるような雰囲気で撫でつけながら、メモ帳に文字を書いてゆく。暗号のような、誰にも読めない文字を。


 例えば「小説家」という単語を詩乃がメモ帳に書くときには、「小せつ家」とか、「ショウ説カ」とか、詩乃はそんな風に書く。あるいは、「小説家」の「説」の「つくり」が消えて「ごんべん」だけになり、「言」と「家」が組み合わさった新しい漢字が、あたりまえに誕生する。時によってはその「家」も、音の同じ「加」というような漢字に代わる。そうしてその上から、カタカナで「セツカ」とルビが添えられたりする。


 しかしそんな、傍から見たらふざけた文字を書く詩乃は、いたって真剣で、その横顔を見るのが、柚子は好きだった。子供が蟻の様子を観察をしている時のような、そんな目をしている。


 柚子は詩乃にくっつきながら、その横顔を観察する。


 ずっとこうしていたいな、と柚子は思ったが、小説を書いている詩乃は、幸せの中でそれを書いているわけでは無い。命を削ぐように考えて、書いている。

 根を詰めすぎないでねと、そう言いたい柚子だったが、前にそう言って、少し叱られたことがあった。中途半端に書くくらいだったら、書かない方がマシだと、そんな風なことを言われたのだ。


 柚子からすれば、詩乃が小説家であろうがなかろうが、どちらでも一向構わなかったが、物書きではない詩乃の事を、今さら想像ができないのも確かだった。

 たぶん、詩乃君が小説を書かなくなるのは、死ぬ時なのだろうなと、柚子は思った。何しろ、詩乃の執筆は、遊び半分ではないし、単なる趣味の延長でもない。かといって、仕事だから書いている、という感じもしない。


 たぶん、生きることそのものが書くことなのだろう。息を吸ったり、心臓を動かしたりするよりも意識的に行う、それをしなければ死んでしまう行為。

 詩乃のその習性と、「書く」ということに対する尋常ではない執念に、柚子は時折、怖くなることがあった。酒を飲み飲み、丸二日間、寝ないでパソコンに向かっていた時などがそうだった。そのあと眠りについた詩乃は、ほとんど丸一日寝てしまう。

 そういう時柚子は、詩乃が死んでしまったのではないかと、寝ている詩乃の呼吸と心臓の音を、何度も確認する。後からすれば冗談だが、その時は、柚子も、いたって本気なのだ。


 そしてそんなことが、詩乃の生活には珍しくはない。

 詩乃は、一日三度の食事、夜になったら朝まで眠る、というような一般的な生活スタイルや、規則正しい生活リズムなどというものとは全く無縁だった。傍から見たら、その生活は、壊滅している。

 柚子が詩乃を見るのは、ただその横顔が好きだから、というだけではない。

 自分の体や生活に無頓着すぎる詩乃が心配で、怖いのだ。いつか体を壊すのではないかと、集中している詩乃を見るたびに思う。今だって、吐くほどのストレスを抱えながら、書こうとしている。


 無理しないでと、そんな気持ちを込めて柚子は、詩乃を抱きしめる。

 言葉で言わない代わりには、そうするしか方法が無い。


「よし」


 と、詩乃は、メモ帳に書くべきことを書き終えて、短く息を吐いた。

 そうして、何の前触れもなく、柚子の首筋にキスをした。

 くすぐったいのと、不意打ちの詩乃の唇の感触に、柚子は「んっ」と小さく呻いた。そのまま柚子は詩乃に抱きしめられて、こてんと、ソファーに倒れた。


 詩乃は、柚子の頬に触れ、そして柚子と目が合うと、今度は柚子の唇に口を付けた。

 柚子は、詩乃の不意打ちに驚きながらも、その目には、それを楽しむような無邪気な色があった。


「――ご飯、まだなのに?」

「今日は、先にデザートから」


 映画のような詩乃の返しに、柚子は笑って、詩乃の背中に手を回した。

 デザート食べて、ちゃんと幸せになってねと、柚子はそんな事を思って、微かに染まった頬を詩乃の頬にくっつけた。

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