第2話 運命の朝

あれから6年、数え年で16才になったエメラルデラは生きていた。

顔を洗った泉の波紋が収まってくる頃、自分の姿が映し出されていく。

日に焼けた淡褐色の肌が水を滴らせ、黒い癖のない髪は短く、頬に張り付いた。

切れ上がった瞳、光に透かすと澄んだ紫色をした双眸そうぼういまだにあの日の記憶を、網膜に鮮烈に焼き付けている。竜という強大で抗い難い力と、言い知れぬ憧憬を。


竜とは、雌雄の繁殖により生まれるものではない。帝国と神国の間に存在する、竜はらむ聖地に佇む神樹しんじゅに実る生命体だ。

いつ産み出されるか、神のみぞ知る神秘的なその命は、たった一人の主を選び出し、文字通り運命を共にする。

数百年に及ぶ寿命と老化のない肉体、各竜が有する固有の能力と、胆力。

その全てを主になれば共有できる…即ち人智じんちを越えることとなる。


その力を欲する者は多く、しかし機会に恵まれる事は極稀だ。ここ数十年、竜の誕生を言祝ぐ瑞雲は見られていない。


そう、今朝までは────


竜を初めて見たあの明け方の時と同じように、初夏の澄んだ濃紺の空が、にわかに光り輝いた。

夕暮れと夜明けが共に訪れたかのごとく、鮮やかな朱と、柔らかな金色が混じりあった瑞雲は空にうち広がり、新たな竜の誕生を告げたのだ。

美しい光景を反芻し物思いに耽っていたエメラルデラの背後を、小さな足音が走っていく。


「おとうさん!ただいま!!」


「ぱぱ、沢山木の実とってきたの…褒めて」


「ずるい!私も!!」


足音の行き先を見ると、それぞれ肌も、髪の色も異なる子供達がいた。

幼い子供は成果を次々口にしながら、テオドールの大きな身体へと飛び掛かっていった。

後ろからやってくる年長者たちは、見慣れた光景に笑いながら、今日の報告を上げていく。


「父さん、今日は川に罠を仕掛けてきたから、明日見に行ってくるよ」


「親父!今日は山鳩が結構捕れたぜ。あと卵も!」


「お水は瓶に汲んできたから、今日の分はもう大丈夫よ」


テオドールは豪快に笑って、幼い子供達を順繰りに撫でていく。


「流石、俺の子供たちだ!偉いぞ」


彼らはすべて、テオドールが拾った養子やしないごたちだ。

皆、薄汚れた姿ながらも生き生きと輝いていた。泥から伸び上がる蓮に似て、逞しく、美しい表情だ。

エメラルデラはこの光景を愛し、今は目に焼き付けるように静かに眺めていた。


一頻ひとしきり撫で終わり、子供達の興奮が落ち着いてくるのを見計らって、テオドールは皆を見回した。


「今からエメラルデラと大切な話をするから、お前たちは少し待ってなさい」


そう話して聞かせた途端、張り付いていた子供達は大人しく下がっていく。

年長者も幼い子も、エメラルデラを遠巻きに見るようにして、立ち止まった。これが彼らとエメラルデラの、いつもの距離だった。

狩りをし、賊や獣を追い払い、家族としての仕事をこなす以上のことを、エメラルデラはしてこなかった。

家族も親しく交わらないエメラルデラを、受け入れていた。

それなのに今さら、この距離がひどく寂しく、そして愛しくなる。

年長者の影から時折こちらを伺う子供達の姿を眺めていれば、嗄れた声が掛かった。


「本当に行くのか、ルデラ」


「ああ…私は行くよ、父さん」


今朝から何度となく繰り返された問い掛けに、エメラルデラは頷いた。

瑞雲が現れた今日、竜に逢いに行くと考えるより先に、家族に告げていた。

思い止まるようにと、何度となく説得を試みるテオドールを説き伏せたのは、数時間前のことだ。

エメラルデラは改めてテオドールへと向き直る。無精髭がまばらに生えた精悍な顔は、火傷で引きれていた。

初めて見た者は恐れるが、エメラルデラにとっては愛しい父の顔だ。

もう熱を持たない火傷の痕に、泉で冷えた手をエメラルデラは寄せた。途端、テオドールの顔が僅かに歪む。


「ルデラ、お前に功名心もねェだろう。流民るみんっつゥ負い目も、何よりお前は…」


言い掛ける言葉を、エメラルデラは彼の頬を軽く叩いて止めた。それから困ったように微笑わらっって見せれば、テオドールは一層その顔を歪める。痛みに耐えるような仕草に、決心が僅かに揺らぐのを感じた。

もう一度覚悟を決めるよう、エメラルデラは父を抱き締める。


「分かってる。父さん…ごめん、親不孝者で」


名前だけを残された捨て子のエメラルデラを拾い、育ててくれた父の背中は、幼い頃より小さくなったように感じる。

年老いていく父を置いていくのは、後ろ髪を引かれる思いだった。


神を捨てたとされる流民は、常に迫害の元に晒される流浪るろうの民だ。

この大地を支配する帝国と神国、両国から蔑まれ、領土に足を踏み入れることも許されない。

安住の地がない中で、まだ年若い兄弟達を守っていくのは、容易なことではない。

人が一人居なくなるだけで、過酷さが増すことが分かっていながら、それでもエメラルデラは聖地に向かいたかったのだ。


竜は、人の中から主を選ぶ。その選択に、国の所属は関係しない。

流民が竜に選ばれれば、帝国も神国も新しい竜騎を自国に取り込もうとするであろう。

迫害から逃れたい流民も、竜を得たい帝国、神国の人間もこぞって聖地を目指すことになる。

主が早々に選ばれてしまえば、竜に近付く機会は失われてしまう。

それだけは、避けたかった。


エメラルデラはテオドールの身体から腕を離すと、正面から視線を捉えた。


「私は…行ってくるよ。これを逃したら、きっと後悔するから」


聖地に行ったところでエメラルデラ自身は、自分が竜に選ばれるとは微塵も考えていなかった。

自分のさは、自分が一番分かっているのだ。

それでも、毎晩見る夢がエメラルデラを突き動かしていた。

引き留められないことを悟ったテオドールは、エメラルデラの身体を力一杯引き寄せた。

荒れた掌が優しく背中を抱き締めてくれる。重なった頬は硬く、そして僅かに濡れていた。


「分かった…、…無茶だけはするな。絶対に帰って来い」


聖地は遠く、寄り合う仲間もいない。獣や賊に襲われる危険を帯びた旅から、生きて帰れる見込みは薄い。

一瞬困ったように言葉を詰まらせてから、エメラルデラはテオドールをもう一度、抱き締める。


「うん…父さん」


エメラルデラは静かに頷いた。

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