拾「己が命の使い方」

 天地が鳴動している。

 上下左右も分からぬまま、千代子は夜空の中を落下している。


(――嗚呼ああ、今度こそ、死ぬ)


 皆無かいな、皆無はどうなったのであろうか。


「――――子!」


 先ほどのこぶしは、皆無を狙っていた。

 あれほどの大質量に押しつぶされては、さしもの皆無と言えども――。


「――チョコ子!!」


 気が付けば、数メートル先に璃々栖リリスがいた。

 赤い瞳をヱ―テルでさらに赤く輝かせながら、こちらを見ている。


「皆無は生きておる!」


 その言葉を聞いた途端、千代子の脳が目まぐるしく活動を始める。


「そなたの助けが必要じゃ! チョコ子、助けてたもれ!」


 見れば璃々栖リリスもまた、成す術もなく落下している。

 状況は、こちらよりもなお悪いと言えるだろう――何しろ、彼女には両腕がないのだから。


「助けるったって――」


 千代子にはもう、余力がない。

 体内ヱ―テルは使い果たし、それどころか寿命の前借りの秘術にすら手を出してしまった。

 正直、手を伸ばすのも億劫おっくうだ。

 寿命を使い果たしたこの身には、かすんだ視界の先に見える手には、無数の皺が刻まれている。

 だが、


璃々栖リリス姫は――あの甲種悪魔デビルが持つ巨大なヱ―テルは、皆無くんにとっての切り札)


 ならば、助けねばならぬ。

 自分はすでに、皆無のために命を捨てると決めたのだから。


 ちょうど目の前を煉瓦レンガ造りの塀がすっ飛んでいくところであった。


(――【韋駄天の下駄】ッ!!)


 千代子は驚嘆すべき集中力で以て、今まで一度も成功させたことのなかった脳内高速省略詠唱による重力操作密教術を試みる。

 果たして体の向きがくるりと変わり、千代子は塀の上に降り立つ。

 一歩、

  二歩、

   三歩と塀の上を駆け、空を漂う璃々栖リリスに抱き着いた。


「あはァッ! でかした!」


 璃々栖リリスが笑う。

 事ここに至ってもなお笑っていられる少女の胆力に、千代子は恐れ入る。


「チョコ子や、口をお開け」


「え――むぐっ!?」


 問答無用の口付け。

 どろりとした甘いヱ―テルが、千代子ののどを、胃を温める。

 失われたヱ―テルが回復していく。


「を? ををを? まだ入るか? よしよし、たっぷり飲ませてやろう」


 さらに、口付け。


「ぷはぁっ……よし。チョコ子や、皆無を助けに行くぞ。じゃがまずは――あはァッ」


 璃々栖リリスが笑う。


「着地せねばならぬのぅ!」


「【阿闍世アジャータシャトルの愚・釈迦牟尼如来しゃかむににょらいが説きし十三の観法・観無量の尊き光・オン・アミリタ・テイ・ゼイ・カラ・ウン――光明】ッ!!」


 千代子の詠唱とともに、眼下が探照灯たんしょうとうの如き光で照らし上げられる。

 見れば、地面がぐんぐんと近づいてきている。

 このままでは墜落死してしまう!


「【五大の風たるヴァーユ・十二天じゅうにてんの一・風の化身けしんたる風天ふうてんよ】――」


 地面が、もう、目の前に。


「ええい、【風布団】ッ!!」


 中途半端な詠唱だったが、真言密教術は確かに発現した。

 風の布団が地面と千代子たちの間に生み出され、千代子と璃々栖リリスは間一髪、墜落死を免れた。


「さて、皆無じゃが」


 死にかけて早々、数秒の休憩もなく次の行動に移る璃々栖リリス

 彼女は驚嘆すべき脚力でもってそばにあった洋館の屋根の上に飛び乗り、さらに一番背の高い屋根に上り、避雷針の上に立つ。

 それも、片足で。

 そう、姫君は右足を負傷しているのである。


「おお、おお、やっておるやっておる。チョコ子もおいで」


【韋駄天の下駄】をまとった足で、千代子も屋根の上に上がる。

 先ほど姫からもらったヱ―テルがよほど大量だったのか、倦怠感が薄れ、力がやや戻ってきている。


「見えるかの?」


 璃々栖リリスが顎で示した方角で、赤黒い、巨大な何かがうごめいている。


「【新月の夜・夜空を駆けるラクシュミーの下僕・オン・マカ・シュリエイ・ソワカ――梟ノ夜目】。あ、あれは――」


「百獣公爵馬羅鳩栖バルバトスじゃな」


 夜目が利くようになった視界に映るのは、『城』と見まごうばかりの巨大な体を持った巨人。

 その巨人が、ひどく緩慢な動きで歩き、そして拳を振るっている。


(――いや、緩慢なんかじゃない)


 巨人の拳が家屋の一つを押しつぶし、膨大な量の瓦礫を巻き上げる様子を見て、千代子は考えを改める。

 巨人が大き過ぎて、遠近感が狂ってしまって、素早く見えないのだ。

 千代子は横浜港で戦艦や巡洋艦を見たことがあるが、あれらが艦首を天に向けて立ち上がったら、ちょうどあの巨人くらいの姿になるのではないかと想像する。


まずいのぅ。防戦一方じゃな」


「え?」


 そう、巨人は何も、目的もなく暴れ回っているのではない。


 千代子は目を凝らす。

 巨人の周りを飛び回る、小さな人影がある。

 蝙蝠コウモリの翼を動かして馬羅鳩栖バルバトスの周りを飛び回り、隙を見ては打撃や火炎を浴びせ掛けているあの人影は――


「皆無くん!? た、助けに行かなくちゃ!」


「いや、そうは言ってもじゃなァ」


 だが、姫は首をひねるばかり。


「助けに行けると思うか?」


「え、あ…………」


 拳の一振りで家を一つ叩き潰す巨人。

 そんな巨人を相手に立ち回っている大悪魔グランドデビル


「じゃあ、どうすれば――」


「あやつらが距離を取ったのを見計らって、素早く皆無に近づく。チョコ子、結界の準備をせよ」


「いやいやいやいや、あんなバケモノの攻撃、私なんかの結界で防げるわけがないじゃないですか!」


 そのとき、皆無が大悪魔グランドデビルの拳をまともに喰らった。

 跳ね飛ばされる。


「あはァッ、ちょうどこっちに飛んできおった!」


 璃々栖リリスが跳び上がった。

 砲弾のような勢いで飛んできた皆無を腕のない身で受け止めようとするが、当然ながら当然の如く受け止められるわけもなく、二人してもみくちゃになって飛ばされていく。


「ちょっ、姫様!? 皆無くん!!」


 千代子は慌てて屋根伝いに二人を追い、跳び上がって二人を抱きとめる。


「うむ。助かったぞチョコ子」


 降り立ったのは、小さな公園。

 千代子は皆無を仰向けに寝かせる。

 皆無は見るも無残な有り様だった。

 手足は折れてひしゃげて肉が飛び散り、全身血塗れである。

 皆無は目を開いてれない――気を失っているのだ。


「助かりついでに、一分ほど稼いでたもれ」


「え!?」


 見れば巨人が、百獣公爵馬羅鳩栖バルバトスが、こちらに向かって走ってきつつある。


「無理です無理です!!」


「いいからやれ。やらねば死ぬぞ?」


 にたり、と微笑む璃々栖リリス


「くっ――」


 千代子は懐から十字架独鈷杵とっこしょを取り出し、


「【物理防護結界アンチマテリアルバリア】ッ!!」


 三人を取り囲むような大きな球形の結界を発生させる。

 直後に巨人が来た。


「オォォォオオォォオォォォオオォォオオォオォオオオォォォオオォォオオォオォオオオォォォオオォォオオォオオオオオオオオ――ッ!!」


 地響きのような雄叫びとともに、目もくらむような巨大な拳を振り下ろしてくる!


 ――死んだ、と思った。

 が、


「チョコ子や、その、魔王のなりそこないのヱ―テル総量がどの程度か、分かるか?」


「…………え?」


 生きていた。

 千代子も、皆無も、璃々栖リリスも。


 璃々栖リリスがヱ―テルを纏わせた赤い瞳で馬羅鳩栖バルバトスを見上げている。

 見上げながらゆっくりと腹式呼吸をしている。


「――五千万単位じゃァ」


「五千万ッ!?」


「生贄が足らんかったのじゃろうな。不完全な形で顕現しておる」


 ……千代子は空恐ろしくなる。

 璃々栖リリスがまるで、五千万単位――皆無のさらに二倍ものヱ―テル総量をして、『少ない』と言っているかのようであったからだ。


 巨人が再度、拳を振り下ろしてきた。

 結界にひびが入る。


「シィィ――…そう言えばそなたには、のヱ―テル総量を言っておらなんだな」


 璃々栖リリスへその下あたりが、活性化した丹田たんでんが、抑えきれないほどのヱ―テル光をたたえ始めている。


のヱ―テル総量は――」


 璃々栖リリスが、嗤う。

















「――五億じゃ」

















「ごっ!?」


「さぁ、皆無。可愛い我が子や、たっぷりとお飲み」


 璃々栖リリスが身をかがめて皆無に口付けする。

 皆無ののどが鳴る。何度も、何度も。

 皆無の口の端から零れ出てきた唾液が、直視できないほどの光を帯びている。


「ゴァアァアアアアアァアアアアアッ!!」


 皆無が飛び起きる。

 あまりにも多すぎるヱ―テルが苦しいのか、皆無が胸を掻きむしる。

 ――そう、いつの間にか、あれほど非道ひどく損傷していたはずの皆無の体が、綺麗さっぱり再生している。


「すまぬな、皆無。受け入れてたもれ」


 璃々栖リリスはなおも皆無に口付けする。

 苦しみながらも、皆無はそれを受け入れる。

 入りきらないヱ―テルが背中から溢れ出し、第二、第三の翼となるが、それもやがては皆無の体内に戻っていく。


「あはァッ。皆無よ、やはりそなたとは抜群に相性が良い」


 皆無と自身の間に架かる光の橋を舐め取る璃々栖リリス

 千代子の目には、皆無の姿が揺らいて見える。

 あまりにも高密度なヱ―テルが陽炎を発しているのだ。


「死ぬまで――いや、死んでもこき使ってやるから、感謝せよ。さぁけ、我が子よ!」


 そのとき、巨人の三度目の拳が来た。

 ガラスが砕けるような音とともに、【物理防護結界アンチマテリアルバリア】が崩壊する!


「ウガァアアァアアァァアアアアアァァアアアアアアッ!!」


 皆無が、巨人の拳に向かって吠えた。

 たったそれだけのことで、巨人の拳が弾け飛ぶ!

 拳を成していた動物霊たちが散り散りになって宙に溶けていく。


 皆無が馬羅鳩栖バルバトスの腕に飛び乗り、四足獣のような動きで駆け上がっていく。


「ウガァアアッ!!」


 皆無が馬羅鳩栖バルバトスの頭部目掛けて拳を振るった。

 濃密すぎるヱ―テルが衝撃波を発し、馬羅鳩栖バルバトスの頭部を吹き飛ばす。


 馬羅鳩栖バルバトスの巨体が、ゆっくりと倒れていく。

 千代子は慌てて璃々栖リリスを抱き上げ、夜空へと退避する。


 巨人が地に伏した。

 天地が引っくり返るかと思われるほどの地揺れと、空を覆い尽くすほどの砂ぼこり。


「【オン・アラハシャノウ――文殊慧眼もんじゅけいがん】!」


 吹き飛ばされてきた家屋の壁などを足場に空を舞いながら、千代子はヱ―テルを纏った瞳で皆無の姿を探す。

 果たして皆無は、巨人の無事な方の拳――その指の一本を抱え込んだところであった。

 皆無がそのまま、駆け出す。


「あ、あはは……そんな莫迦ばかな」


 まるで冗談のような光景であった。

 身長百数十サンチしかない皆無が、全長百メートルを超すような巨人を、振り回し始めたからだ。

 皆無が巨人を何度も何度も振り回し、遠心力が最高潮に達したところで、天へと放り上げた。


嗚呼ああ――」


 この光景には、何やら見覚えがあった。

 そう、二十四時間ほど前、物理アッシャー界側で皆無が見せて呉れたものと同じ光景だ。


 果たして、巨人・馬羅鳩栖バルバトスが投げ上げられた方角に向けて、空を覆い尽くすほどの巨大な魔法陣が立ち上がる。

 深紅の魔法陣。


「行け、皆無くん!!」


 千代子は興奮する。

 距離があるため、皆無の声は届いてこない。

 が、きっと彼はいま、こう唱えているはずだ。





「「――――【第七地獄火炎プレゲトン】ッ!!」」




 空が炎で埋め尽くされた。

 ――後には何も、残らない。





   ❖   ❖   ❖   ❖





「皆無、よくやった!」


 璃々栖リリスを抱きかかえて皆無の元へ行くと、皆無は動物霊の残骸をむさぼり喰っているところであった。

 千代子は璃々栖リリスをゆっくりと下ろす。


「ウガァアアァアアアアッ!!」


「あぁ、あぁ、じゃ予じゃ!」


 飛び掛かろうとしてきた皆無に片足で自ら近づき、豊満な乳房でもって皆無の顔を受け止める璃々栖リリス

 先ほど見せた身のこなしといい、たった今見せた、さりげなく皆無の勢いを殺してみせた動きといい、この姫は体術の類が相当にできるらしい。


「ほれ、可愛い我が子や。褒美の口付けをれてやろう」


 相手が璃々栖リリスと分かるや、急に大人しくなる皆無。

 明らかに理性を失っている状態であるが、璃々栖リリスに対しては従順であるらしい。


 皆無が顎を上げる。

 璃々栖リリスが皆無に口付けする。

 今度は、璃々栖リリスのノドが鳴った。

 何度も、何度も、何度も。


(吸い出しているんだわ……皆無くんの中から、姫のヱ―テルを)


 皆無の体を覆い尽くしていた毛皮が、筋肉が白いヱ―テルの粒子となって宙に溶けていく。

 翼と角も消えていった。

 後には――


「あら」


 千代子は思わず声を上げてしまう。

 素っ裸の皆無が出てきたからだ。

 皆無はその場に倒れ伏す。

 千代子は慌てて、皆無を抱き起す。

 気を失っている様子だが、呼吸も脈も問題なさそうである。


「皆無くん……」


 安堵とともに、疲労が来た。

 許嫁の裸体が目の前にあるはずなのに、少しも興奮しない。


 ――そうだ。

 自分はもう、若さの全てを失ってしまったのだ。

 今の自分には、鏡を見る勇気はない。

 早晩、自分は『寿命』で死んでしまうことだろう。


「でも、良かった。皆無くんを守ることができて――」


「おお、そうじゃったそうじゃった」


 千代子の感傷を、璃々栖リリスの陽気な声が破壊した。


「そなたにも苦労を掛けてしもぅたのう、チョコ子や」


 苦労、などという言葉で表現できるような軽いものではない。

 自分は何十年もの、いや、それ以上の人生を失ったのだ。


「予には、そなたの功績に報いる用意がある」


「な、何を――むぐっ!?」


 再び、璃々栖リリスが千代子の唇に吸い付いた。

 ヱ―テルが流し込まれる。

 今日の日中は、三千単位を注ぎ込まれただけで気絶した己であったはずなのに、何やらものすごい量が入ってきて、入ってきて、まだまだ入る。


「ぷはぁっ。よぅ入ったのぅ! 【神使火撃ミカヱル・ショット】をたくさん使って、天使に近づいたのかもしれんの。――【収納空間アヰテムボックス】」


 姫の魔術で、虚空から手鏡が出てきて、千代子の手に収まる。


「ヒッ――」


 千代子には、己の顔を見る勇気がない。


「大丈夫じゃ。見てみよ」


「は、はい――――……ヱ? ヱヱヱヱヱッ!?」


 千代子は、仰天する。

 数十歳分は年を取っていると覚悟していたのに、皺の一本もなかったからだ。


「こ、【光明】!」


 省略詠唱で小さな明かりを灯し、さらに詳しく検分する。

 老けているどころか、むしろ若返っていた。

 血色は良く、肌はつやつやもちもち、髪にもちょっと信じられないほどのツヤがある。


「ど、ど、ど、どういうことですか!?」


が下賜してやった多量のヱ―テルによって、失った寿命が相殺されたのじゃ」


 璃々栖リリスが笑う。


「というか、さきほど大量のヱ―テルを飲ませた時点で、寿命はほぼ回復しておったのじゃがな」


 言われてみれば、姫のヱ―テルを受けてから、自分はいくつもの術式を立て続けに使っていた。

 それも、省略詠唱や脳内詠唱という、ヱ―テル消耗の重い手段でだ。

 威力もすごかった。【物理防護結界アンチマテリアルバリア】などは、あの魔王・馬羅鳩栖バルバトスの巨大な拳を三度も防いだほどである。


「な、な、なん……ッ!? 私の絶望は何だったんですか!?」


「いや、『何』と言われてもじゃなァ。まァ良かったではないか。しかも今の追いヱ―テルで、常人よりも寿命が延びたくらいかも知れぬぞ」


「何てこと!」


「さてチョコ子や、命令じゃ。皆無に服を着せてやってたもれ。――【収納空間アヰテムボックス】」


 千代子の手の中に、皆無の着替え――ワイシャツと洋風袴ズボンが現れる。


「え、着替えさせてもいただいても良いのですか!?」


 てっきり、璃々栖リリスは皆無が他の女に触れられるのを好まないのだと思っていた。

 ましてや今の皆無は、全裸なのである。


「何しろ予には腕がないからのぅ。それに、今日はそなたも頑張ってれたからのぅ。このくらいの褒美を呉れてやる程度には、予にも度量というものがある」


「で、で、では……じゅるり」


 先ほどは『興奮しない』と思った皆無の裸身であるが、改めて見ていると、何やら胸の奥がざわざわしてくる千代子である。

 さきほどの心境は、『年を取った』と思い込んでいたがゆえのものだったのだろう。


 洋風袴ズボンを手にし、改めて皆無の裸身を眺める千代子。

 弟以外の異性のイチモツなど、無論見たことはない。


「こ、こ、これは……ッ!!」


 皆無のイチモツをまじまじと見つめていると、


「――ぁ痛ッ!?」


 璃々栖リリスに頭を蹴られた。


莫迦ばか者!」


「こ、ここここれは失礼を!」


 千代子はすでに、璃々栖リリスのことを認めてしまっている。

 璃々栖リリスは自分に多量のヱ―テルを与えてれた、いわば自分の人生を救って呉れた相手である。


 それに皆無は、まごうことなき悪魔デビルであった。

 皆無が璃々栖リリスのことを好いている様子も含め、もはや二人の間に割って入る余地はないように思われた。


「そういうことをするのなら、予も混ぜよ」


「は、はい! ――はぁ!?」


「ん……ぅ……」


 そのとき、皆無が目を覚ました。


「お前ら、何を――」


 皆無が千代子を見て、璃々栖リリスを見て、それから全裸の自身を見て、


「ひゃぁぁああぁああああ~~~~ッ!?!?!?」





   ❖   ❖   ❖   ❖





「うっうっうっ……僕もうお嫁に行けへん」


「ですから、私がもらって差し上げますよ!」


「チョ~コ~子~!?」


「ひぃっ、ごめんなさい、姫様!」


「……? 何やお前ら、いつの間にか仲良ぅなった?」


 女三人寄れば姦しいとはよく言ったもので――うち一人は男であるが――千代子たちは談笑しながら異界の神戸を歩く。


「さぁてのぅ。それにしてもそなた、回復魔術も上手くなってきたのぅ」


 そう、今や璃々栖リリスは右足首を完全に回復させ、元気に歩いている。


「時間をかけて【治癒ヒール】の重ね掛けをしても塞がらなかった傷口が、ものの数秒でつるりと消えるのじゃからのぅ!」


「いや、まぁ……」


 璃々栖リリスに褒められた皆無が、そっぽを向いて口をもにょもにょさせている。

 本当は嬉しいのに、子供っぽい矜持プライドが素直に喜ぶのを恥と思わせているのだろう。


 道中、何度か丙・丁種悪魔デビルと出くわしたが、皆無が得意の射撃で瞬殺してしまった。


 そうして千代子たちは、ケルベロスの使い魔が捕らえられていると思しき屋敷へと戻ってきた。

 驚くべきことに、あれほどの大激闘があったというのに、屋敷はまったくの無傷だった。


「あぁ、璃々栖リリスと合流したときに、屋敷の中にケルベロス閣下の使い魔がおるらしいことは聞かされとったからな」


 と、皆無。

 だから結界魔術で守っていたのだ、という意味らしい。

 首をねられ、理性のない悪魔デビルとして黄泉帰って以降もちゃんと結界を維持し続けているあたり、皆無の――有意識下・無意識下の両方における――璃々栖リリスに対する忠誠心は本物のようだ。


 焼け野原となった庭を抜け、璃々栖リリスがドアを蹴破り、屋敷の中に入る。

 物理アッシャー界側とそっくりな造りをしている屋敷の中を進むことしばし。


「…………あれ?」


 千代子は、後ろから一匹の犬がついてきていることに気付いた。


「き、キミ、ケルベロス閣下の使い魔!? 良かった、無事だったのね!?」


 燕尾服テヱルコートを来た独逸犬ドーベルマンが、『ワン』と鳴く。


「あ、本当ホンマや。良かったなぁ」


「ん? チョコ子や、何を言っておる? それに、皆無まで」


 璃々栖リリスが首を傾げる。


「まぁよい。もう、この扉の先じゃ」


 バーン、とドアを蹴破る璃々栖リリス

 果たして、部屋の中にいたのは――


「「け、ケルベロス閣下ぁ~~~~ッ!?」」


 仰天する千代子と皆無。


 黒い肌の麗人――ケルベロス女史が、手足を縛られ、洋室の床に転がされていた。

 その、ケルベロス女史が独逸犬ドーベルマンの姿を認め、涙ながらにこう言った。
















































「ご主人ざまぁぁあああッ!! 怖かったでずぅぅぅううッ!!」





「「…………………………………………え?」」


 千代子と皆無の声が、重なる。

 二人して首を傾げる。


 犬が部屋にすたすたと入っていき、その前足でもって女史の頭を撫ぜ、『ワン』と鳴く。


「「えぇぇえええええ~~~~~~~~~~~~~~~~ッ?」」





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖十数分後 / アストラル界 とある洋館❖



「ええとつまり、ケルベロス女史が使い魔で、使い魔がケルベロスだったってことですか???」


 えぐえぐと鳴き続ける黒人女性と、女性の頭を前足でぽんぽんと撫ぜる独逸犬ドーベルマンを見やりながら、千代子は首を傾げる。


「はぁ~~~~……呆れたのぅ!」


 璃々栖リリスが憤慨している。


「チョコ子はまだ分かる。が――皆無!」


「ぎゃっ」


 璃々栖リリスに容赦なく尻を蹴り上げられ、涙目の皆無である。


「そなたまで勘違いしておったとは、何事じゃ!?」


「いや、だって! あんなにいっぱい会話しとったやん!」


「あれは、閣下のお言葉を日本語に翻訳していたのです」


 ようやく落ち着いた女史――いや、ケルベロスきょうの使い魔たる女性が、ケルベロス卿のそばに控えながら言う。


「「な、なるほど……」」


 皆無とともに、千代子はうなずく。

 言われてみれば、使い魔女性が話しているときは、いつも隣で犬――ケルベロス卿がワンワンとやっていた。


 驚きで、千代子は未だ頭が混乱している。

 が、同時にいろいろと納得もした。


 甲斐甲斐しく卿のブラッシングをしていた女性。

 ――甲斐甲斐しいのは当然だ。使い魔が主の世話をしているのだから。


 卿に自分の分の牛メシを差し出した女性。

 ――主が食べたがったから差し出したのだ……生卵を食べたくなかったと言う可能性もあるが。

 そして思い返しても見れば、女性はあのとき、独逸犬ドーベルマンに対して敬語を使ってはいなかったか。


 ケルベロス卿は女性のことを『良い買い物をした』と言った。

 黒人奴隷制度は数十年前の亜米利加アメリカで終わったとされてはいるが、果たして世界中の全ての国の、表社会と裏社会から全ての奴隷がいなくなったのだろうか?

 世界では、今現在も有色人種への風当たりというのが大層強いのだ。

 士官学校の教師陣の中には西洋人も多いが、彼ら彼女らは時々、日本人に対して露骨に差別的な目を向けることがあった。

 ケルベロス卿が女性のことを買ったのは、一体全体何処どこの国でのことなのやら。


 そしてこの女性、人間としては破格のヱ―テル総量を持つ。

 それこそ、己や皆無がこの女性をケルベロスその人だと勘違いするほどに。

 璃々栖リリスが魔術で焼き切った、女性を拘束していた縄には、何やら不思議な拘束魔術が練り込まれていた。

 なればこそ女性は拘束されたままだったのだろうが、和楽園では男性の店員相手に怪力を見せた。


 他方、当のケルベロス卿は大層弱っていた。

 璃々栖リリス姫が言っていたではないか。ケルベロス卿は『地獄から離れては力が出せない』のだと!


 さすがはケルベロス女史の使い魔、大したヱ―テル総量を持った犬である――などと思っていた千代子だったが、全ては逆だったのだ!


「皆無ぁ……これは、みっちりと鍛え直さねばなるまいなァ」


 璃々栖リリスわらって、ペロリと唇を舐めた。

 皆無が泣き出しそうな顔をしている。


「あはァッ、そう言えば!」


 璃々栖リリス姫がケルベロス卿に対して、思い出したように言う。


「そなたは本当に器用じゃなァ! あのふみ、ちゃァんとさまになっておったぞ」


「――あッ!」


 千代子は思わず叫んでしまう。

 あの、ミミズののたくったような汚い字の手紙!

 なるほど確かに、肉球の手でペンを持ち、手紙をしたためるなど、『器用』以外の何物でもなかろう。





   ❖   ❖   ❖   ❖





 本物の田中大尉――女性悪魔祓師ヱクソシストとその部下二名は、別の部屋で発見された。

 三名とも非道ひど飢餓きがの状態に陥ってはいたが、目立った外傷もなく、治療を受ければ復帰も可能な様子であった。


 そうして、今。

 彼女たちの治療と食事、着替え等の世話を終えた千代子は、洋室のソファに深々と座り、長い長いため息をついている。


「つ、つ、つ、疲れたぁ~。これでようやく、一件落着……」


 千代子はほぼ二十四時間振りに、同じ言葉を口にした。

 そう、自分が異人商人の悪魔デビルに殺されかけ、皆無に命を救われたあのときから、まだ二十四時間しか経っていないのだ。


(何て濃厚な……)


「あはは、お疲れさん」


 不意に、背後から可愛らしい声が聞こえてきた。

 声変わり前の男児の声――己の許嫁・皆無の声だ。


「千代子のお陰で、助かった」


 皆無が労ってれる。


本当ホンマ本当ホンマに、助かった」


「いえ、そんな」


 口では謙遜するものの、千代子の胸の中は誇らしい気持ちでいっぱいだ。

 如何にも絶望的な戦いの連続であったが、奮戦の甲斐あり、こうして犠牲者ゼロで乗り切ることができたのだから。


「お礼に、僕にできることなら何でもしたるで」


「そんなこと言って。じゃあ皆無くん、私と結婚して呉れますか?」


「や、その……」


 振り向けば、皆無の複雑そうな顔がある。

 その顔を見て、千代子はこの気持ちに区切りを付けることに決めた。


「ふふっ、冗談ですよ。じゃあ、そうですね……ふわぁ~。疲れたので、少し眠ります。寝つくまで、頭を撫ぜてはもらえませんか?」


「そ、それくらいやったら……」


 おずおずと、皆無が頭に触れてくる。

 皆無の手指が千代子の髪の間を通っていく。

 非道ひどく甘美で、それでいて残酷な感触だ。


 涙は、こらえた。

 そうして千代子は、眠った。





   ❖   ❖   ❖   ❖





 次に千代子が目覚めたとき、状況は一変していた。


 大悪魔グランドデビル沙不啼サブナッケの神戸襲来と、璃々栖リリス引き渡しの要求。

 璃々栖リリス皆無かいなの逃亡。

 璃々栖リリスたちの行方を血眼ちまなこになって探す第七旅団――。


 璃々栖リリス皆無かいなと親しかった人間は、尋問を受けた。

 千代子もまた同様だった。

 だが、千代子は何も知らなかった。

 何も知らなかったのだ。


(皆無くん、璃々栖リリス姫……何処どこへ行ってしまったの?)


 答えてくれる者は、いない。





   ❖   ❖   ❖   ❖





 こんにちは。

 作者の明治サブです。


 短篇『腕を失くした璃々栖リリス ~吾輩は猫にあらず~』。

 最後までお付き合いくださり、本当にありがとうございました!

 皆無は、璃々栖リリスは何処へ行ってしまったのか――。

 この続きは、全国の書店・各通販サイトで大絶賛発売中の、


 第27回スニーカー大賞【金賞】作

『腕をくした璃々栖リリス ~明治悪魔祓師異譚~』


 を是非ご購入の上、ご堪能くださいませ!

 ここまでお付き合いくださった皆様になら、間違いなく『刺さる』であろう極上の物語です。

 何卒!! m(_ _)m

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腕を失くした璃々栖 ~吾輩は猫に非ず~ 明治サブ/角川スニーカー文庫 @sneaker

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