二之章

    1

 厳しい冬も峠を越し、縄文の里にもようやく穏やかな季節が廻ってきた。

 邑長の耕平も、この春で四六歳を迎えていた。縄文人の平均寿命が三五、六歳というから、耕平はすでに大長老の部類に達していた。

 また、狩猟民族の末裔であるムナクも、この邑に定住するようになってから、ようやくのんびり暮らす術を覚えたらしく、冬が来る前にライラを嫁にもらい、悠々自適の生活を送っていた。

 平穏な縄文の里にも、ただひとつ思わしない事態が起こりつつあった。耕平の妻でコウスケの母でもある、ウイラ年は明けて間もない頃から、風邪をこじらせて寝込んでいた。かつて山本徹が二十一世紀から、持ち込んできた薬品も残ってはいたものの、とうの昔に期限が切れていて使い物にはならなかった。そして、高熱に耐え切れず肺が炎症を起こし苦しい息遣いの中で、耕平・コウスケ・ライラ・カミラ・ムナクに看取られて、ウイラはついに帰らぬ人となった。

 翌日、ウイラの死は邑人たちにも知らされ、邑人たちの手によって墓が掘られ、耕平がウイラの遺体を両腕で抱えて運び、邑人の掘った穴に横たえて上から土を盛って、周りに花を飾り付けてウイラの埋葬は終わった。

 耕平にしてみれば二十一世紀の世界から、この時代にやってきて初めて出逢ったのが、河で貝を取っていたカイラとウイラの姉妹だったのだ。

 右も左もわからない縄文時代にきて、親切に自分たちの邑に誘ってくれたのがウイラだった。あれからどれくらい経つのだろうと耕平は思った。

『もう、二十年近く経つのか…』

 初めてここに来た時、河で魚を取っていた女たちの中の、ウイラたちに逢ったのがきっかけで、彼女たちの邑に連れて行かれたのが始まりだった。

 まさか、自分が縄文時代に来たとは考えていなかった耕平が、彼女たちが魚や貝を入れた土器を見て、そこが縄文時代であることを知ったのだった。

 耕平はさらに回想を続けていた。

『あれから間もなくだったな…。オレが山本のところにタイムマシンを送ってから、そんなに日が立っていなかった頃だった…。狩りに出かけて草原のあたりまで来たら、山本のテントが目について駆け寄ってみると、山本は捻挫をこじらせ中で寝ていた。それからいろんなこともあったな…、あのログハウス風の山小屋を建てたのも山本だったし、カイラが山本に惚れて一緒に住むようになり、やがてライラが生まれて山本は、奈津実さんを裏切ってしまったと悩んでいたが、あれもこれも遠い昔の話になってしまったな…』

 山本はいまでも奈津実と幸せにやっているのだろうと、思いながらもウイラを失った哀しみが耕平の中に、ひしひしと込み上げてくるのを、どうすることもできなかった。耕平日課のごとく、ウイラが埋葬された墓所に花を手向けに行った。

 そんな耕平を見ていると、コウスケもライラも胸の痛む思いがした。

「ねえ、お兄ィ…。お母ァが死んじゃってから、お父もあんな感じだしあたしらも見ているのが辛いしさ。何とかしてあげられないの…」

 と、ライラに相談を持ち掛けられたが、コウスケにもどうしたらいいのか見当もつかなかった。あんなに落ち込んで生気をなくしたような、父の姿をコウスケはいままで一度も見たことがなかった。だからといって、このまま何もせずに見ているわけにもいかず、コウスケは一計を案じたが何も思い浮かばず、カミラには内緒でガラダに相談してみることにした。草原を越えてやってきた、東の邑はコウスケにとってもひさしぶりだった。

「今日は…、コウスケです。ガラダのお父いますか…」

 コウスケが声をかけると、

「あんれ、まあ…。コウスケさんでねえだが…」

 と、裏手のほうからガラダが出てきた。

「まんず、中に入いって休んでくれらんせ…」

 ガラダはコウスケの体を、抱え込むようにして中に招き入れた。

「カミラもコウタロウも元気だがね…」

「ええ、ふたりとも元気ですから、安心してください。お父…」

「おう。そうが、それは何よりだのう…。ところで、今日は何か用でもあったのかな…」

「ええ、そうなんです。実は…、うちのお母ァが亡くなってから、お父はまるで気が抜けたみたいになって、誰とも口を利かなくなって、毎日お母ァのお墓に通っているんです…。

 それで、なんとか昔みたいに元気なお父に戻ってほしくて、ガラダお父に相談に来たんです」

「あんれ、コウヘイ邑長ともあろうお人が、なんとまあ気弱なことで、それにしたってウイラさまも、大層きれいな人だっただけに、それも無理もねえことがも知んねえなぁ…」

「そんなことはともかく、ガラダお父…。お母ァは死んでしまったから仕方ないけど、おいらのお父を元のように元気にする方法を考えてよ…」

「ううーん…、そっだらこと云われてもなぁ…。まあ…、ひとつねえごともねえがな。だども、二・三日時間ばもらわねばなんねぇ。邑の娘っ子に相談ばして見ねえごとには、何とも云えねえだどもな…」

「邑の娘さんって、どういうことなの。ガラダお父…」

 コウスケは訝し気

 に訊いた。

「邑のな。若い娘っ子を二・三人、コウヘイ邑長のところさ連れてって、裸踊りでも見もらったら、少しは元気になるんでねえがと思ってな…」

「裸踊り…。でも、お父。うちのお父がそんな裸踊りくらいで、元のような元気なお父になるのかな…」

「コウスケさんよ…。男っつうものよ。たとえ按配が悪い時でも、若い女の裸を見せられたら、誰だって一遍に元気になるっつうもんだで、おらに任せでおいでけろ…」

「んでも、ガラダのお父。そんなことでホントにお父が元気になるの…。それにうちのお父、かなり落ち込みが激しいんだよ…」

「まあ、話はわがったからコウスケさんは、邑さ帰って待っててけろ。だども、コウヘイ邑長でなぐ、コウスケさんが元気になっては困るぞ。ガハハハハ…」

 それから間もなく、コウスケは東の邑から帰ってきたが、ガラダはああは言うもののコウスケには、どうしても納得いかない部分が残っていた。

 邑に戻ってからも、コウスケは密かに耕平を観察し続けた。が、しかし、耕平はウイラが亡くなってから精気がなく、どう見ても半病人のようにげっそりとした様子だった。

『うーん…、これはまずいなぁ…。このままにして置いたら、お母ァみたいに死んでしまうかも知れない…』

 そう思うと、コウスケは居ても立ってもいられない面持ちで、ガラダかいうように何でもいいから、何とかしなくてはいけないと思っていた。

 それから二日後、待ちに待ったカミラの父ガラダが、若い娘を五人ほど引き連れて邑を訪ねてきた。

 ガラダは、まずコウスケのところに寄った。

「コウスケさん。約束通り娘っ子を連れてきたで、邑長の様子はどうだべが…」

「変わりはないです。毎日ただ座って何かを考えているようなんです…」

「それにしても、お父…。なんなの、この娘たちは…」

 ガラダが連れてきた娘たちを見て、カミラがしかつめらしい顔で訊いた。

「あ…、これが、これはコウスケさんが…。いや、おらの一存でコウヘイ邑長を元気づけようと、連れてきただが村長はどこさいるだ…」

「うちのお父なら家にいると思うよ。ガラダお父…」

「よす。そんじゃ、ちょっくら行って、ご機嫌伺いしてくっか。コウスケさんも一緒にくるべ…。お前えらも行くぞ」

 ガラダは連れてきた娘たちに声をかけた。

「お父、あたいも行くよ…」

 と、カミラがコウスケの横に並んだ。

「カミラ、お前えはダメだ。ここに残っていろ…」

「どうて、どうしてコウスケはよくて、あたいはダメなのよ。お父、どうしてぇ…」

「ダメだと云ったら、ダメだ。さあ、行ぐべえが、コウスケさん…」

 ブツブツと文句を云っている、カミラを後にガラダはコウスケと娘たちを引き連れて、耕平邑長のところへと出向いて行った。

 家に行くと耕平は留守だった。また、ウイㇻの墓参りに行っているのだろうと、コウスケは思った。それが、ウイラが亡くなってからの、耕平の日課になっていたからだ。

「あんれまあ…。邑長がいなくては、どうすたらいいべな…。コウスケさん…」

「うちのお父は、お母ァが亡くなってから毎日、お母ァのお墓参りに行っているんだ…。今日もきっとお墓に行っているんだと思うけど…。

 おいらも一度だけ、お父には気づかれないように、後をついて行ったことがあるけど、お父はお母ァのお墓の前に座って、何もしないでジッとしているだけなんだ…」

「うーん…。そいづはちぃっとばっかり重症がも知んねえな…。ウイラさまは邑長にとって、よっぽど大っきなものだったんだべな…。これはうっかり下手な手出しばすっと、逆効果になるかも知んねえなぁ…。どうしたらよかんべなぁ…」

 ガラダは、自分の考えが浅はかだったことを知ったのか、ボウボウに伸びた髪の毛を掻きむしった。

「だったら、どうするんだい…。ガラダのお父…、せっかく遠いところから来てくれたのに、このまま帰したんじゃ、気の毒たよ…」

 ガラダが連れてきた、娘たちのほうを見ながらコウスケは訊いた。

「ほんに、なじょしたらいかんべかなぁ…」

 と、ガラダも思案投げ首の体であった。

「あのう…、ガラダのおじさま…」

 と、今度はガラダの連れてきた、娘のうちのひとりが一歩前に出て言った。

「何だ…。イナク…」

「あのう、差し出がましいことは分かっていますが、あたいらだって、ここまでわざわざ来たんですよ。それなのに手ぶらで帰ってきたなんて云ったら、それこそみんなの笑いものになります。それに西の邑のコウヘイさまと云えば、とっても賢くて神さまのような方だと、南の邑の人たちから聞いています。

 そのコウヘイさまが、奥さまを亡くされて寂しい思いをしているご様子。あたいたちで元気づけられるのなら、裸踊りでも何でもして差し上げますわ。ですから、ここはあたいたちに任せてもらえないでしょうか…」

「むむん…、おらは別段意義はねえだども…、どうするだかね。コウスケさん…」

「それでお父が元のように、元気なお父に戻ってくれるのなら、ぜひお願いしたいです…」

 コウスケは言ったが、カミラ以外の女の裸も見てみたいという、願望がコウスケの中にもあったのかも知れなかった。

「何をしているんだ。コウスケ…」

 その時、背後で声がした。

「あ、お父…」

 コウスケが振り向くと、そこには話の張本人の耕平が立っていた。

「これは、これは…。コウヘイ邑長、お加減が悪いとお聞きしましたので、この娘っ子たちの踊りでも見で、少しでも気を紛らわせてもらえればと思って、こうして邑の娘っ子たちを連れてやってきましただ…」

 ひょうきん者のガラダは揉み手をしながら、耕平に愛想を振りまいて挨拶をした。

「いや、ガラダさん。オレは別に具合なんかどこも悪るくないですよ。それでも遠いところからわざわざ来てもらったことだし、その踊りとやらを拝見させてもらいましょうか…」

 何も知らない耕平は快く承諾して、いつも自分が座っている場所に腰を下ろした。

「ほれ、コウヘイ邑長の許しが出たぞ。みんな一生懸命踊って見せろや…」

 まず、先ほどガラダと話をしていた、イナクという娘が踊り始めて、続いて四人の娘たちも踊り出した。

 日本舞踊と西洋のダンスをミックスさせたような踊りであった。

 イナクが最初に着ている衣服を脱ぎ始め、他の四人も踊りながら次々と、器用な手つきで衣服を脱ぎ去って行った。五人の娘の中で、イナクは実に見事な肢体の持ち主で、はち切れんばかりのふたつの乳房を、揺らしながら踊る姿は圧巻であった。

 それを無言で見ていた、耕平がコウスケを呼んだ。

「コウスケ、ちょっと来い…」

「何だい。お父…」

 父に呼ばれてコウスケが行くと、

「コウスケ、お前は知っていたのか…、ガラダさんが今日ここで女の娘たちに、ストリップをやらせることを…」

 至って真面目な口調で訊いてきた。

「スト…ップって何だい…。お父…」

「トリップというのは、大勢の人の見ている前でだな。ああやって着ているものを、全部脱いで裸を見せる見世物のようなものだ。お前は初めてだろうがな…」

「ふーん…。じゃあ、お父は前にも見たことがあるのかい…」

「ああ…、あるさ。ずうっと昔にな…。ところでコウスケ、あの一番前で踊っている娘の名は、なんと云うのかお前知っているのか…」

「ああ、知ってるよ。イナクって云うんだ。さっきガラダのお父がそう呼んでた」

「イナクか、いい名だ…」

 耕平は、それだけ言うとイナクの踊りに見入っていた。

 こうして、縄文時代としては初めての…、いや、日本の歴史としても初めての、ストリップショーは幕を閉じた。

「いかがでしたでしょうか。コウヘイ邑長さま…、あたいたちの踊りは楽しんでいただけたでしょうか…」

 いま踊り終えたばかりの、イナクが胸に汗をにじませて耕平の横に座った。着衣をつけていない裸の胸には、汗を滴らせたピンク色の乳首が揺れていた。イナクの汗の匂いが鼻を突いたが、それはむしろ耕平には懐かしいものとして感じ取れた。ウイラもそうだったが、母親の亜紀子のそれも同じ匂いとして感じられた。

「ああ、きれいだったよ。とてもね…」

「うわぁ、本当ですか…。コウヘイさま、うれしい…」

 嬉しさのあまり、イナクは耕平に力いっぱい抱き着いてきて、汗ばんだ乳房が耕平の顔に覆いかぶさってきた。

「これ、イナク…。コウヘイ邑長にあんまり失礼なごとすんでねえ…」

 奔放なイナクをガラダがたしなめた。

「構わんでください。ガラダさん、わたしも若い頃のことを思い出しましたよ…」

 耕平はイナクを脇に座らせると優しく肩を抱き寄せた。イナクの体臭が、いま踊り終えたばかりの汗の匂いと相まって、耕平の臭覚に心地よく伝わってきた。

 ガラダの耕平を慰めるための、ささやかな舞踏会も幕を閉じて、ガラダを始めとして五人の踊り子たちは帰って行った。それから七日ほど過ぎ去った頃、コウスケのところにガラダが訪ねてきた。

「どうですか、コウスケさん。邑長のご様子は…」

「ええ、お陰さまで、うちのお父も元のようのに、すっかり元気になりましたよ」

「それは何よりでした。これで、おらもあの娘っ子たちを連れて行った、甲斐があったというもんだがな…」

「それが、ガラダのお父…。少し変なんです…」

「ん…、何がどうしただ…」

「うちのお父は、毎日イナクのことばかり云うんです…。あの娘はいい娘だよなぁ…。コウスケは、そう思わないか…。とか、あの五人の踊り子の中では、一番きれいじゃないかとか、そんなことばかり云ってるんです。聞いているおいらなんか、最後のほうになると段々イヤになってきますよ。ホントウに…」

「ほぉ…、ほれはまた偶然は重なるもんだな…」

「偶然って何のことですか…、お父」

 コウスケは妙な気がしてガラダに訊いた。

「それがな、イナクのほうも毎日のようにおらのとこさ来てな。コウヘイ邑長のごとばっかり聞くんだがや…。これはもしかすると、もしかするかも知んねえなぁ…。うーん…」

「え…、もしかするとって、何のことだい。ガラダのお父…」

「いや、おらの気のせいかも知んねえだども…。もしかしたら、コウスケさんのお母ァになるかも知んねえな…」

「ええ…、おいらのお母ァに…。だって、イナクはおいらよりも歳が若いんだよ…」

「ここはひとつ、試してみる必要があっかな…」

「試すって…、いったい何を試すの…」

「まあ、一遍イナクのことを夜にでも、コウヘイ邑長のことさ行がせてみっから、楽しみにして待ってな…」

 それから三日くらい経った、月の明るい晩だった。

 耕平が山本の小屋に、物を探しに行って帰ってくると、家の前に誰かが立っていた。

「誰だ…。そこにいるのは…」

 耕平の声に振り向いた人影の、月明かりの中にくっきりと浮かび上がったのは、ガラダが先日連れてきた踊り子のイナクだった。

「やあ、きみかどうしたんだい。こんなに夜遅く…、まあ、とにかく中に入りなさい…」

 耕平はイナクを中に招き入れた。

「ガラダに、ここへ行くように云われてまいりました。コウヘイさま…」

「しかし、いくら月夜とは云っても、ひとりじゃ夜道は危険だよ…」

「いいえ、そこまでガラダに送ってもらいましたから…」

「それで、ガラダはどうしたんだい…」

「はい、あたいを送ってきてすぐに帰りました…」

「帰ったって…、それじゃ、きみは帰りはどうするんだい…」

「泊めてもらうように云われました…」

「それは構わないけど、寝床は亡くなった妻のがあるから、それを使うといい…」

「いいえ…、寝床はコウヘイさまと一緒で結構です…」

 イナクは消え入りそうな声で答えた。

『ガラダのオヤジめ、図ったな…』

 耕平は密かにそんなことを思いながら、先に寝床に潜り込むとイナクが入ってくるのを待った。月明かりの漏れ入る中で、イナクは衣服をすべて脱ぎ捨てると、耕平の寝ているとこの中に入ってきた。月の薄明の中で、イナクの乳房が微かに揺れるのが見えた。

 イナクは耕平に身体をピッタリと押し付けてきて、乳房の重量がじかに伝わってくるのが解かった。

 こうして耕平とイナクの周りでは、ゆっくりとした時間が過ぎて行き、月はとうに沈みいつ果てるともない夜が続いていた。


    2

 縄文の里、西の邑の邑長耕平が妻のウイラを亡くして、すっかり気落ちしているとコウスケから聞かされた、東の邑のガラダは耕平を慰めようと、邑の五人の娘を引き連れてやってきた。「お加減が悪いと聞きましたで、ひとつ娘っ子たちの踊りでも見て頂こうと思って、こうやって連れてきましただ…」と、ガラダが言うと娘たちは踊りを始めた。

 その中のイナクという娘は、実に見事な肢体の持ちで彼女は、着ている衣服を次々と脱ぎだした。残りの四人の娘たちもイナクに倣って脱いで行った。

 こうして、日本の歴史始まって最初と思われる、ストリップショーが開催されたのだった。やがて、踊りが終わると衣服もつけないまま、耕平の横に座ったイナクの乳房から、踊り終わった後の汗がしたたり落ちた。

 それから数日経った月夜の晩、耕平が山本の小屋で探し物をして帰ってくると、家の前にイナクが立っていた。耕平が中に入れると、ガラダに行くように言われたといい、夜道は危険だから泊めてやることになった。

 ウイラの寝床があるから、そこで寝るように言ったが、イナクは一緒でいいと言って耕平の床に滑り込んできて、一夜を共に過ごすことになったのだった。

 そんな経緯もあって、いつしか耕平はイナクを嫁にすることになって、ふたりの婚姻は邑を挙げての祭りのよう騒ぎになって行った。

 ふたりの婚姻に邑中が浮かれているさなか、ライラだけがひとり憮然とした表情でこう言った。

「あたしより年下なのに、お母ァだなんて、あたしは絶対に認めないから…」

 そんなライラをコウスケが諭しても、頑として自分の意思を貫こうとした。

「なあ、ライラ、お父にはお父の生き方があるんだから、お前もその辺をもう少し考えてやらないとやらないとダメだろう…」

 と、コウスケがいくら言い聞かせても、ライラは一向に聞き入れずに、自分の心の扉を閉ざしたままだった。

 そんな話を耕平はコウスケから聞かされて、一度言い出したら頑として曲げないところは、山本譲りの気質で段々アイツに似てきたなと思った。

 しかし、耕平もこのままにしておくわけにもいかず、いろいろ考えた末にひとつの結論を見出した。それは直接ふたりを呼び出し自分の目の前で、話合わせお違いに理解を深めさせようという試みだった。

 まず、耕平はふたりを一ヶ所に集めて、ライラはどうしてイナクのことを、お母ァとして認めないのかと問いただした。すると、ライラは何のためらいもなくこう言った。

「どうしてあたしより年下の女を、お母ァなんて呼ばなくちゃいけないのよ…。あたしはイヤよ、絶対に認めないから…」

 ライラは頑(かたく)ななまでに心を閉ざしていた。

「それでは、どうしても、イナクのことをお母ァと呼べないと云うのかね。ライラ…」

 耕平は再びライラに問いかけた。

「ええ、イヤよ。絶対にイヤ…」

 ライラも相当意固地になっているらしかった。すると、イナクがこう切り返してきた。

「云ったわね…。あたいこそ、あなたみたいな心のねじ曲がった娘に、お母ァなんて呼んでほしくないわよ。バカにしないで…」

「まあ、何ですって…。あなたこそ、あたいだなんて下品な言葉を使う女は、お父のお嫁さんなんか似合わないわ」

「云ったわね。云ったわね…。あなたこそ、そんな貧弱な体をしてて、よくお嫁に行けたもんだわ…」

「何よ、何よ…。あなたにそんなことを云う資格あるの…」

 ふたりの会話は段々エスカレートしていった。

「おい、おい。ふたりとも、いい加減によさないか…。そんなにイナクのことを、お母ァと呼びたくないのなら、お互いに名前で呼び合えば済むことじゃないか。ふたりとも身内なんだから、もっと仲良くしないとダメだぞ…。分かったか」

 耕平にしてはめずらしく、少し口調を荒げてふたりに言った。普段あまり大きな声を上げることのない耕平の声に、一瞬ふたりはビクンとして顔を見合わせ、またそっぽを向いてしまった。

「いいか、ふたりともよく聞くんだ…。いつまでもイガミ合っていても始まらんぞ。お前たちだって、あと二十年くらいしか生きられないんだ。もっと仲良く助け合って生きなくちゃならんのだ。いつ何時どんなことが起こるか知れんのだからな…」

 耕平の言葉に初めて、ライラとイナクは顔を見合わせた。縄文人の平均寿命を知っている、耕平には当然のことだったがライラとイナクは、この時初めて人間は死ぬということを意識したのだ。

「ねえ、お父…。人が死ぬと、どうなるの…」

 いままでイナクとイガミ合っていたことなど、すっかり忘れたようにライラが訊いた。

「人が死ぬとだな。その人の体から、魂が抜けてしまうから息もしなくなるんだよ。体は残るが、その体もそのうち腐ってしまう。だから、墓を掘って埋めるんだよ。お母ァが死んだ時だって、邑のみんなが墓を掘ってそうしただろう…」

「ふーん、そうなのか…」

 ライラは、しばらく何かを考えている様子だったが、急にイナクのほう向き直り、

「ごめんね…。イナク…、あたしが悪かったわ。でも、どうしてもあなたのことを、お母ァとは呼べないよ…。だから、お父のいうように名前で呼ぶようにする…。それでいい、イナク…」

 と、イナクに対して素直に謝った。

「いいわよ。そんなこと気にしなくても、あたい…いや、あたしもコウヘイ邑長の妻として、恥ずかしくないように言葉遣いには、気をつけるからよろしくね。ライラ…」

 イナクも、自分よりひとつ年上のライラにお母ァと呼ばれるよりは、名前で呼ばれるほうがいいと思ったのか、快く受け入れてライラの手をしっかりと握りしめた。

「よし、それでいいんだ。その調子で、これからも仲良くやってくれ…」

 これでふたりのイガミ合いから解放させると思い、耕平はライラとイナクの肩を抱き寄せた。

 それからのライラは、これまでの蟠(わだかま)りもすっかりとけて、耕平のいうように根は気のいい娘だけに、義母というよりは姉妹のように暮らし始めた。

 それから、また時は流れ野も山も見渡す限り、緑に覆われた春の季節が廻ってきた。

 邑人たちは眠りから覚めたように、こぞって狩りや山菜を採取しようと、野や山へと出向いて行った。

 そんな中、耕平もコウスケとふたりで、ひさしぶりの狩りに出ていた。

「お父とふたりで、こうして狩りに来るのって、だいぶ前だよね…」

「ああ、二年くらい経つのかな…」

「そんなに経つのか…、おいらはついこの間だと思っていたけどな…。

 ところで、お父…。ライラは最近イナク…いや、お母ァとは仲良くやってるのかい…。あんまり仲が悪いって話は

 聞かないんだけど…」

「ああ、オレがふたりを集めて、よくいい聞かせたからな…。いまでは仲のいい姉妹みたいだッて、邑のみんなも行ってるくらいだよ」

「へぇ…、お父はどんなことを云って、あのライラを納得させたの…。おいらなんて何回云ったって、云うことを聞いてくれなったのに…」

「いや、オレはただ人が死ぬと身体から魂が抜けてしまって、そのうち体が腐ってしまうから、墓を掘って埋めるんだ。と、云う話をしてから、人間なんて短い命しか持ってないんだから、人は誰でもいつかは必ず死ぬんだ。お前たちみたいに、いつまでもイガミ合いなんかしてないで、仲良く暮らさなくちゃいけないんだ。と、云ってやったらライラが急に謝りだして、イナクのことをお母ァとは呼べないから、名前で呼んでいいのならそうするよ。と、云うわけで話は拗れずに済んだんだ…」

「うん、ライラは気持ちは優しい子なんだけど、意外と強情なところがあるからね。一度云いだしたら絶対後には引かないし、死んだお母ァも云ってたけど、ライラを産んだお母ァのお姉ェだって、あんな強情なところなかったって…」

「それはな。コウスケ、たぶんオレの友だちの山本に似たんだと思うよ。アイツも一度云いだすと、テコでも動かないようなヤツだったからな…」

「そのヤマモトって誰なの。おいら一度も逢ったことがないけど、どこに住んでる人なの…。お父」

 初めて聞く名前に、コウスケは興味を示したらしく、真面目な顔で耕平に訊いてきた。

「誰も行くことのできない遠いところだ…」

「遠いところって、ムナクが来た西のほうよりもっと遠いところなの…。お父」

「ああ、もっとずーっと遠いところだ…。コウスケ、お前は時間というものは分かるな」

「それくらい、おいらだって知ってるよ。朝が来て昼になって夜が来る、そして、また朝が来て明日になって明後日になる。それが繰り返されて春夏秋冬って、順繰りに廻って新しい年がやって来るんだろう。それがどうかしたの…」

 そろそろ、コウスケにだけは話してもいいと考えたのか、ゆっくりとした口調で耕平は話し始めた。

「山本って云うのはオレの親友だった男だ。親友というのは友だちの中でも一番仲のいい友だちのことだ。話は長くなるから、コウスケもそこに座りなさい」

 耕平は、そういうと草原の一角に腰を下ろした。コウスケも父に倣って腰を下ろす。こうして、耕平は長い長い物語をコウスケに話し始めた。

「いいか。コウスケ、よく聞きなさい…。時間というものは、今日から明日へと向かって進んでいるんだ。決して今日から昨日には戻らないものなのだ。しかし、ある偉い人が昨日にでも明日にでも、自由に往き来できる機械というものを造ったんだ。

 そして、お父は偶然にそれを拾った。それからいろんなことがあって、何も可もがいやになって、いっそのこと誰も知らないところに行って、ひとりでひっそり暮らしたいと考えてやってきたのが、この時代だったというわけだ。

 コウスケ、お前には少し難し過ぎて解からんだろうがな…」

「それじゃ、お父もそのヤマモトって人と同じくらい、遠いところからやってきたっていうのかい…」

「ああ…。そして、ここに来て初めて出逢ったのが、お前のお母ァのウイラとライラのお母ァカイラだったんだ…」

 遠く過ぎ去た過去を思い出すように耕平は続けた。

「ここがどういう時代なのか、まったく解からなかったオレは、女たちが貝や魚を入れて運ぶ土器を見て初めて、ここが縄文時代であることを知ったんだ…」

「ジョウモンジダイって、何…。お父」

 聞きなれない言葉にコウスケが訊いた。

「縄文時代というのはな。いまオレたちがいる、この世界のことだ。ずっと後の世の人間がつけた名前さ…」

 父の話をひと言も聞き漏らすまいと、コウスケは半分以下も理解できない話を、瞬きもせずに一生懸命聞き入っていた。

「お前には、おそらくチンプンカンプンの話だったろうが、お父はな。時間を越えた遠い世界からやってきたんだ…。コウスケには考えもつかないだろうけどな…」

「それじゃ、お父もいつかは、その遠い世界に帰って行ってしまうの…」

「いや、もう帰れないよ。その機械を山本のところに送ってしまったからな…。お父は死ぬまでずっとお前たちと一緒だから、心配しなくてもいいぞ。コウスケ」

「ああ…、よかった…。お母ァが死んで、お父までいなくなったら、おいらどうしようかと思った…」

「大丈夫だ。オレはもうどこにも行かないからな…」

「だけど、お父…。そのヤマモトっていう人、ずいぶんひどい人だね。ライラを置いてひとりで帰ってしまうなんてさ…」

「仕方がなかったんだよ。山本にはちゃんとした嫁さんがいたんだからな。それでも、はるばるオレを探しに、こんなところまで来てくれたんだ…。本当なら、感謝しなくちゃいけないところなんだぞ」

「でも、お父…。ライラは、そのヤマモトっていう人のことは、まだ何も知らないんだろう…」

「ああ、知らんだろうな…。死んだお母ァも、そのことだけは云わなかったようだからな」

「それじゃ、これから先もずっとライラは、自分のお父であるヤマモトっていう人のことは知らないままなんだね…。ちょっと可哀そうな気もするけどなぁ…」

「仕方のないことなんだよ。時代が違うんだからな。いいか、コウスケ。このことはライラにも誰にも云ってはダメだぞ。お前にだけ話したんだからな…」

「分かってるよ。お父、おいらライラにも誰にも云わないよ。

 だけど、お父…。明日の明日の、ずうっと行って、そのまた明日の世界ってどんなところなの…。おいらにはいくら考えても、まったく思い浮かばないんだけど…」

 コウスケは理解できないまでも、未来という言葉さえも知らない、縄文人として生まれても、父親である耕平の二十一世という、まったく新しい血を受け継いだのだから、例え耕平が世を去るようなことがあっても、その血はコウスケによって綿々と引き継がれていくのだろう。

 コウスケは生まれついての利発な子だけに、耕平はコウスケに話したところで、千分の一も理解してもらえないだろうと思いながらも、自分の血を直接受け継いだ縄文人としての、コウスケにだけは話しておきたかったのだろう。

「さあ、話はこれで終わりだ。そろそろ狩りを始めようか…」

 耕平が立ち上がり方々を見渡し、獲物が潜んでいそうな場所を探していると、コウスケはまだ座り込んだままで考えていた。

「おい、コウスケ。そんなことはいくら考えたって無駄だ。それより、早く獲物を狩って帰らないと日が暮れてしまうぞ。オレたちには、家族を養っていかなきゃならない義務があるんだ。さあ、始めるぞ…」

 耕平にしてみれば、めずらしく厳しい口調で促した。コウスケにしてもカミラとコウタロウを、養って行かなければならないという義務に気がついて、発奮したらしく勢い込むように立ち上がった。

「さあ、今日は何が獲れるのかな…」

「うむ、日暮れも近いようだし、そう大物は狩れないだろう…。とにかく今晩の食卓を飾れるような、小物でもいいから何かを狩らないといけないな…。コウスケ、お前はそっちを周ってくれ。オレはこっちから行く…」

 こうして、しばらくぶりに親子で狩りを始めた耕平とコウスケだった。

 コウスケが空を見上げていると、つがいでもあるのか二羽の鷲か鷹が、餌でも狙っているのか中天高く輪を描きながら舞い飛んでいた。

「お父、あれを見逃したら、おいらの猟師としての名が廃るよ。いいかい、見ててよ…」

 コウスケは、そういうとブーメランをふたつ、右手に持つと空高く舞い飛ぶ獲物に狙い定めると、力いっぱいブーメランを投げ放った。コウスケの手から離れたブーメランは、回転しながら弧を描いて飛んで行き、一旦は獲物から遠ざかり途中から角度を変えて、再接近して見事に二羽の獲物に命中した。

「コウスケ、ますます腕に磨きがかかったようだな。実に見事だ…」

 耕平の褒め女言葉を背に、コウスケは獲物の落ちた地点目指して走り去った。

「どれ、オレもコウスケに負けてはおれんな…」

 耕平も弓を肩から降ろすと、矢をつがえるばかりに準備をして得物を探し回った。                                                                                                  

 草むらが一ヶ所だけ風もないのに揺れていた。

『む…、何かいるな…』

 足音を忍ばせて耕平が近寄ってみると、草の合間から薄茶色のうごめくものが見え隠れしていた。目を凝らしてよく見てみると、親と逸れたのか小さな野ブタの仔だった。

『こんな小さなヤツを殺すのも忍びないな…』

 不憫に思った耕平は弓の弦を緩めた。野ブタの仔は草むらの中から出てきて、耕平に気づいても怯える様子もなく、ブヒッブヒッと鳴いて耕平のほうに寄ってきた。

「何だ…、お前お腹が空いてるのか…」

 足元まできた野ブタの仔を抱えあげると、仔犬くらいの重さしかなかった。

「よし、うちに連れて帰って飼ってやるか…」

 そんなことをしているところへ、二羽の鷹を両肩に担いでコウスケが戻ってきた

「いやぁ…、この鷹は意外と重かったよ。あれ、どうしたの。その仔豚は…」

「これか…、親に逸れたらしいんだ。可哀そうだから家に連れて帰って、飼ってやろうと思ってな…」

「それじゃ、大きく育ててから喰うんだね…」

「バカなことを云うんじゃない。いいか、コウスケ。よく聞きなさい。

 動物というのは小さいうちから育てていると、どんな動物でも自然に情が湧いてきて、それなりに可愛くなるものなんだ。そんな子供のようにして育てた命を、お前は平気で殺して食べれるとでも思っているのか…。コウスケ」

 耕平の厳しい言葉に、コウスケはぐうの音も出なかった。縄文の世界なら、喰えるものであればどんなものでも食べる。それが自分たちの生命を繋いでゆく唯一の手段なのだから、当然といえば当然のことなのだが、耕平の言葉はコウスケには計り知れないほどの重さがあった。それが二十一世紀という世界の常識なのだろうと、コウスケには解からないまでも漠然とそう感じられた。

「さあ、そろそろ日暮れだから帰るぞ。コウスケ…」

 仔ブタを抱きかかえた耕平と、二羽の鷹を担いだコウスケが邑に着いたのは、夕闇が迫り空には一番星がチカチカと光り輝く頃だった。

「いま帰ったよ。カミラ、ただいま…」

「お帰り、コウスケ…。なーに、その野ブタの仔は…、カワイイ…」

 目ざとくコウスケの抱きかかえている、野ブタの仔を見つけたカミラは、コウスケはそっちのけで抱えている仔ブタを取り上げた。

「カワイイわね。これどうしたの…、コウスケ」

「狩りの途中でお父が見つけたんだ。親と逸れたんだろうってお父が云ってたけど、可哀そうだし家に連れて帰って育てようと、お父が抱いて連れてきたんだよ」

「そうね…。でも、この子生まれてからまだ日が、そんなに経ってないわよ…。ほら、見て…。へその緒がまだ残っているじゃない…」

 カミラにいわれてコウスケが仔ブタ腹を覗き込むと、干乾びかけてはいるが確かにへその緒らしいものがついていた。

「だとしたら、この仔きっとお腹を空かしているのよ…」

「そうか…。そう云えば、そっきお父が見つけた時よりも、なんだか元気がなくなってきたみたいだよな…」

「どうしよう…。コウスケ、あたしのじゃダメかしらね…。でも、ブタにおっぱい呑ませたことないし、どうしよう…」

「よし、お父に相談してくるよ。困ったときのお父頼みって、邑の人たちが云ってるから知恵を出してもらおう…」

 コウスケから相談を受けた耕平は山本の小屋に行って、かつて山本が作った素焼きの小鉢を探し出した。それにカミラは自分の乳を絞って、仔ブタに呑ませた甲斐があって元のように、ブヒッブヒッと元気に走り回るようになって、一躍邑の人気者になりみんなから可愛がられるようになって行った。


    3

 耕平が草原で見つけて連れ帰った、親に逸れて迷っていた野ブタの仔は、腹を空かせてすっかり弱っていた。カミラが自分の乳を与えたせいもあって、順調に回復して行きライネと名付けられた。

 最初に連れて帰ってカミラが乳を与えたことから、コウスケのところでライネを飼うことになった。ヨチヨチ歩きを始めたコウタロウも、ことのほかライネを気に入ったらしく、まるで自分の兄弟でもあるかのように、毎日ライネとじゃれ合ってはしゃぎ回っていた。

 そんなある日、耕平とコウスケが狩りに出ようとしていると、自分も一緒に行くといって駄々をこね始めた。

「あのな。コウタロウ、森や草原には怖-い動物がいっぱいいるんだぞ…。お前、そいつらに喰われてもいいかぁ…、痛いぞ…。怖いぞ…」

 コウスケに脅かされて、ようやく納得したらしく諦めた。

「やっぱり、コウタロウは子供だね。お父、あんな脅しですぐに諦めてしまうんだから…」

 狩り場に向かいながらコウスケが言った

「あれくらい頃は、誰だってそうなんだろう。ライラ以外はな…」

「え、ライラは違ったの…」

「ああ、違ってたな…、強情っぱりというか、一度云いだらテコでも動ないほど、意志が強いというか、根性が座っているところがあったな…。ホントにアイツは、山本の血をそっく受け継いだなうよヤツだな…」

 耕平は旧友を懐かしむように、遠くの空を見上げながら言った。

「ふーん…、そのヤマモトっていう人も、かなり強情な性格だったの…」

「ああ、強情なヤツだったな…。アイツのおかげでこっちも、何度か助けられたこともあったからな…」

「へぇー、どんな人なんだろう…。おいらも一遍逢ってみたいな…」

「もう逢えんだろうな…。もうここにはやってこないだろうからな…」

「こないのかぁ…。でも、ライラのお父ならきっと根は優しい人なんだろうな…」

「ああ、口は悪いが気持ちはさっぱりとした、いいヤツだったな…」

「おいら、お父が羨ましいな。そんな友だちがいて…」

「そうだな…。友だちは人生の宝って云うからな…。お前も友だちは大事にしろよ。コウスケ」

「おいらには、そんな友だちもいないから、いいや…」

「おい、そんな投げやりな云い方はよくないぞ。コウスケ」

「だってさ。お父、そのヤマモトっていう人は、明日の明日のそのまた明日の、ずうーっと遠いところにいるんだろう…。もうここには来ないかも知れないんだろう…」

「ああ、こないだろうな。もう、ここまでやって来る理由もないしな…。きっと今頃は奈津実さんと仲良くやっているんだろうな…」

「ナツミって誰のこと…、これも初めて聞く名前でけど…」

「山本の奥さんだ」

「オクさんって何…、お父」

「奥さんというのは、コウスケのカミラのようなものだ。つまり嫁さんだ」

「お父は、そのナツミって人も知ってるの…」

「知ってるさ。みんな幼馴染だったからな。何をするにもみんな一緒だった¨」

 耕平は昔を思い出すように、目を細めるようにして遠くのほうに視線を移した。そして、口には出さなかったが、母親である亜紀子のことを思い浮かべていた。今頃は自分も、今の同じくらいの年齢になっていのだろうと思った。

 すると、ある重大な事実に気がついた。それは、取りも直さず自分が経験した過程を違う時間帯の中で、もうひとりの自分が公園のブランコの側で、腕時計を拾って自分と同じような体験をして、それがタイムマシンであることに気づくのは必至だった。

 過ぎ去った過去は、単なる過去ではなく時間帯というベルト状の上で、幾重にも重なり合って今でも存在し続けているという、かつて吉備野博士から聞いた話を耕平は思い出していた。しかし、今の耕平にはそんなことが分ったところで、どうすることもできなかった。吉備野博士から貰った二台目のマシンも、今の自分には必要ないからという理由で、異次元からきた佐々木耕助にやってしまっていたのだから…。

 それにしても、あの時マシンを拾わなかったら、若い頃の母親にも逢わずに済んだはずで、自分が自分の父親だったなどという前代未聞の出来事は、絶対に起こらなかったはずだと耕平は改めて思った。時間が循環しているのなら、また違う次元の自分が同じことの繰り返しで、縄文時代にやって来ているのかも知れないと思った。だが、縄文時代というのは一万年以上も続いているのだから、どの時代に移動しているのか定かではないと耕平は考えた。

 耕平の時は、マシンの計器がすべてハイフンになっていて、半分以上はどうとでもなれという、やけっぱちな気持ちで始動ボタンを押した。それは吉備野博士が意図的に、紀元一年より前の時代はすべてハイフンにしたのかは、耕平にはまったく解かり兼ねたが、もしかすると、自由に時代を行き来することを阻むためだったのかも知れなかった。

 そして、その結果が縄文晩期と思しきこの時代に辿り着いた。そこで、最初に出逢ったのがカイラとウイラの姉妹だったのだ。

 だから、無限連鎖の時間帯の中で耕平と同じように、また違う次元の佐々木耕平という男が、公園のブランコの側で腕時計を拾い、自分と同じように過去へ行って、若き日の母に出逢っているのかと思うと、居ても立ってもいられない心境に耕平は駆られた。

 焦りに近いものを感じながらも、自分ではどうすることもできない歯がゆさに、耕平はひとりもがき苦しんでいた。こんな時、吉備野博士に相談することができたら、どんなにか気が安まるだろうと思ったが、今となっては連絡を取ることさえ叶わない、夢のまた夢の話になってしまった。

 その吉備野が自分の研究対象として、耕平の数奇な運命に目をつけたのが、そもそものことの始まりだったのだ。そして現在の耕平は、縄文の里の小さな邑里の邑長として生きている。自分の父親は自分だったという、その衝撃的事実だけが耕平の中で今もって尾を引いていた。

 人間を問わず、すべての生き物(一部のものを除いて)は親が子を産み、その子が成長してまた子供を作る。この繰り返しが地球誕生以来、生物と呼ばれるものが発生してから、綿々と受け継がれ現在に至っている。

 そういった流れの中で、耕平だけが祖父はいたが父親の顔も名前も知らなかった。母に訊いても、ただひと言『若い時に死んだの…』とだけいって、口を閉ざしてしまうのだった。父親に関しては、死んだとは言っていってたが写真も位牌もなかったのだ。

 そんな経緯(いきさつ)もあって、公園のブランコの側で腕時計を拾った耕平は、それが偶然の出来事からタイムマシンであることを知り、親友の山本徹に相談して子供の頃から懸念していた、父親の消息を確かめるために、自分の生まれた一九九〇年に行くことを話した。

 山本は『過去に干渉すると、未来である現在にどんな悪影響を及ぼすか、解かったもんじゃないから、止めとけ…』と、耕平を引き留めたが耕平の意思に変わりはなく、一週間後の日曜日山本に見送られて、九〇の世界に旅立って行ったのだった。

 それが、耕平のマシンに不慣れなこともあり、九十年に行くつもりが一年早い八九年に着いてしまったのだった。

 あれから二〇年近くが経過して、時代区分は耕平にもはっきりとはしなかったが、縄文時代晩期と思われる時代の、西の邑と呼ばれている小さな集落の邑長に収まっていた。

 今になって思えば、あの時山本の忠告を聞いて思い止まっていれば、自分の父親は自分だったなどという、前代未聞の出来事には遭遇しなかったと、思う反面なぜこのような事態が起こったのかという、吉備野博士も頭を抱えていたように、絶対に起こるはずもないことらしかった。

 しかし、そういったことも今の耕平には、遠い昔に過ぎ去ったこととして、どうでもいいようにも思えた。ただひとつ気がかりだったのは、自分を産んでくれた母の亜紀子が、今はどうしているかということだけだった。

 この時代に来る前に山本から、『お前がそれほどいうのなら、もう止めたりはしないよ。その前にひと目だけでもいいから、おふくろさんに逢っていけ』と言われたのだが、『事実を知った以上はどんな顔をして、おふくろに会えるって云うんだ…』と、断ってどこに行き着くのかさえ解からない、この時代へと旅立ってきた耕平だった。

 そんなことを顧みながら耕平は、これからどれくらい先になるのかも計り知れない、はるかな未来に思いを馳せていた。

「何だ…。いないのかと思ったら、居るんじゃないか。どうしたんだい。お父…、ひとりでボーとしてたみたいだったけど…」

「ああ…、コウスケか…。いや、何でもないんだ。ただ、考えごとをしてただけだ…。ところで、お前はどうしたんだ…。こんなに天気がいいから、狩りにでも行っているのかと思ったぞ」

「だからさぁ…。天気もいいし、またお父も一緒に行かないかなと思って誘いに来たんだ」

「狩りか…。そう云えばここのところ、しばらく行ってないな…。よし、行って見るか」「そうこなくっちゃ、さすがはお父…。行こう、行こう」

 自分の誘いを快く受けてくれた、父の気持ちがコウスケは嬉しかった。耕平にすれば、過ぎ去った昔のことを、いつまでも思い悩んでいるよりも、どれだけ気が楽かと考えたからに他ならなかった。

「最近はどんな物を獲っているんだ。コウスケ…」

「うん、相変わらず鳥とかウサギとか小物ばかりさ。おいらお父と違って、弓や槍はカラッキシだろう。だから、おいらはブーメランひとつに徹することに決めたんだ…」

「それはいいことだぞ。コウスケ、ひとつのことに 打ち込める者こそが世界を制するっていうからな。お前のブーメランだってそうだ。ただひとつのことに打ち込めば、いつかは誰にも負けないくらいの、その道の達人になれるんだ。コウスケも、そのつもりで精進してみるんだな…」

「え…、だってお父。おいらは今でも誰にも負けない自信はあるんだよ。それでも、まだ練習しろっていうのかい…」

「そうだ。人間は裏切りもするが、努力というのはひとつのこと打ち込んだ分だけ、自信となって自分に返ってくるものなんだ。だからな。コウスケ,お前のように自意識過剰になっていてはダメだ。

 世の中にはお前など足もとにも及ばない、優れた能力を持った者がどれだけいるか、知れたものではないんだからな。

 いい例がムナクだろうよ。彼は二本の矢を同時に射って 少しのずれもなく的確に獲物を射止めてしまうんだから、あれは実に見事なものだった…」

「アイツ、そんなに凄いのか…。…」

「何しろ、両親をふたりとも殺されて,彼は彼なりに血の滲むような努力をして、ひとりで独自の弓法を編み出し、見事に親の仇を討ったんだから大した男だ…」

「うん、おいらも話はライラから聞いたけど、ホントに凄いヤツなんだね。アイツは…」

 改めて耕平から話を聞かされたコウスケは、イノシシと闘っている勇壮なムナクの姿を思い浮かべて身震いをした。

「だからな。コウスケ、お前も少しばかりブーメランが上達したからと云って、そうそう有頂天にはなっていられないぞ。と、云いたかったんだ。オレは…」

「何だ。そんなことか、それなら大丈夫さ。ブーメランなんか使えるの、ここじゃおいらしかいないんだから、絶対に大丈夫だよ。お父」

「オレはそんなことを云っているのではない。お前のそういう思いあがった心のことを云っているんだ。人間というものは、もう少し謙虚でなくてはいかん。

 人に褒められても決して自慢などしてはいかん。自分なんかは、まだまだこれからです。もっと練習をして上達したいと思っています。くらいの気持ちで接しなければいかんのだ。例え自分で自信があったとしてもだ…。ムナクを見てみろ。彼が一度でも自分のことを自慢したことがあるか。どうなんだ。。コウスケ、云ってみろ…」

 耕平の厳しい言葉に、コウスケも少しは反省したようだった。

「わかったよ。お父…、おいらも悪かったよ。謝るよ…」

「わかってくれたか、さすがはオレの息子だ。人間は素直に前向きな姿勢で、生きなければならないんだ。決して人を裏切ったり恨んだりしてはダメだぞ。もし、そんなことをすれば、いつかはその何倍にもなって、自分に返ってくるからな…」

「うん、わかったよ。お父…、あのさ、もう一回だけ聞いてもいいかい…」

「何だ。どんなことをだ…」

「お父のいた、明日の明日のずうっと遠い世界には、お父のように頭のいい神さまみたいな人たちが、いっぱいいるのかい…」

「あのなぁ。何度も云うようだけど、オレは神さまでもなけば頭だって、落ちこぼれではなかったが、コウスケと同じ普通のただの人間なんだ。邑の人たちならともかくお前までが、そんな風に考えているとは思わなかったぞ」

「だってさぁ…。お父は何でもく知っているし、ブーメランの作り方だって、おいらに教えてくれたじゃないか。邑の人間なんかじゃ誰も思いもつかないし、やっぱりお父は特別な人間なんだって、邑のみんな が噂してたよ」

「ふう…、やれやれだな。どうしても人のことを神格化したいようだな。ここの邑のみみんなは…」

 耕平はため息交じりにつぶやいた。原始的な生活を営んでいる者たちにとって、自分たちの納得のいかないことに対しては、すべて神あるいはそれに近もののなせる業として、無理矢理に自分たちを納得させてきたいう、痕跡が世界中の古代遺跡の中から発見されている。

 こうした理由から、二十一世紀の知識を持つ耕平は、縄文人たちの手によって神のような存在として、神格化されていったとしても無理な話ではないのだろう。

「それがオレのいた世界では普通のことなんだ。だから、オレは誰でも知っていることを、みんなにも教えてやっただけなのに、神さま扱いされるこっちの身にもなってみろ。いいか、もう一回云うぞ。コウスケ、オレはお前たちと何ら変わらない普通のなんだ。

 せめて、お前だけでもいいから、オレのことを神さま扱いにするのは、止めてはくれないか…」

 耕平が、これまで悩んできたらしい、悲痛な叫びに似た言葉を聞いて、二十一世紀の血を直截受け継いだコウスケが頷いた。

「わかっよ.お父、お父はおいらたちと一緒の普通の人間なんだね。でも、よかったぁ…。お父が神さまなんかじゃなくて…」

「神さまなんてものはな。人間の目には見えないものなんだ。オレの姿はコウスケにもちゃんと見えるだろうが…」

 耕平のいうとおり、たまたまタイムマシンのメモリーを、ハイフンマークにして始動本を押した結果、縄文晩期と思われる時代にやってきただけのことなのだ。

「さあ、そんな昔ことは、もうどうでもいいだろう…。早く狩りをして帰らないと日が暮れてしまうぞ。コウスケ」

 耕平は立ち上がると、コウスケもそれに続いて立ち上がった。

「さあ、今日はどこに行こうか…」

「それなら、お父。泉の森に行ってみうよ。あそこなら、いろんなものがいるから、何でも獲り放題だよ」

「泉の森か…、かなりの距離があるから、あそこまで行くとなると、帰ってくるのは夜遅くになってしまうぞ」

「それなら大丈夫だよ。昨夜は満月だったし、今日もこんなに晴れてるから、少しくらい遅くなっても平気だよ。行こう、お父」

「うーむ…。よし、それじゃ行ってみるか…」

 空を見上げて様子を窺っていた耕平だったが、雲ひとつなく晴れわたった空をみて決断したよう言った。

 こうして、耕平親子はひさしぶりに狩りへと出かけて行った。道なき草原をふたりは黙々と歩き続けて、やがて泉の森が見える地点まで辿り着いていた。

「ほら、見えてきたぞ。急げ、コウスケ」

 森の中に一歩足を踏み入れると、相変わらず森の中は深閑として静かで、鳥の鳴き声ひとつ聞こえてはこなかった。

「いつ来ても薄気味の悪いところだな…。オレはどうもこういう場所は好かないな…」

「お父はそんなこというけど、ここはいろんなものが獲れるし、泉には魚がいっぱいいんだ。カミラと逢ったのもここの泉だったんだよ」

「だけど、オレはあんまり好かんな。何か、こう悪意に満ちているようなが気がするんだ…」

「そんなことないって、それはきっとお父の気のせいだと思うよ」

「そうかも知れんが、やっぱり好かんものは好かんのだ」

 耕平は頑として、自分の感じたことを譲ろうとはしなかった。

「そんなことはどうでもいいや。とにかく何か狩って帰らないと、ホントに日が暮れっちゃうよ。お父…」

「よし、さっさと済ませて早く邑に帰ろう。行くぞ。コウスケ」

「運ぶのに大変だから、あまり大物は狙えないね。お父…」

「そうだな。狙うにしても、せいぜい鳥とかウサギと云った小物類だけだな…」

 そんなことを話しながら、いつしかコウスケがカミラと出逢った、小さな泉の近くまで来ていた。

「あ、この辺りだよ。おいらがカミラと逢ったのは、この辺まで来た時に水の跳ねる音がしたんだ。おいらは、てっきり動物が水浴びでもしてるのかと思って、藪を掻き分けてそっと覗いてみたんだ。そうしたら、水を浴びていたのは動物なんかじゃなくて、裸のままで泳いでいるカミラだったんだ。

 おいらは藪を這い出して、近く思って出見ようと立ち上がった時、枯れ枝かなんかを踏んづけて気づかれてしまったんだ。

 勿論、おいらはすぐに謝ったよ。別に覗く気なんてなかったし、話してるうちに妙に気が合っちゃって、また逢う約束をしてその日は別れてきたんだ。

 そして、次に逢ったのがここの泉で魚釣りをやった時さ。お父にも上げただろう。

 あれも全部おいらがひとりで釣ったんだよ。すごいだろう…」

 コウスケは、カミラと逢った時のことを思い出し、耕平に自慢話をし始めた。

「コウスケ自慢話もいいが、早く獲物を狩って帰らないと、本当に日が暮れてしまうぞ」

「いっけねえ…、そうだった。ゴメンよ。お父…、さあて、今日は何が獲れるかな…」

 ひさしぶりに親子で始めた狩りだであった。こうして狩り始めた作業も、最終的な収獲は山鳥が三羽野ウサギが二羽、タヌキが一匹というまずまずの成績で、ふたりが家に戻った頃は日がとっぷりと暮れて、空には十六夜月がかかり邑を蒼白く照らし出していた。


    4

 邑長を務める耕平のところには、まず間違いなく毎日のように邑人の誰かが訪ねてきては、困り事とか相談事を持ち込んでくるのだった。

それには理由があった。耕平に頼めば、どんなことでも立ちどころに解決してくれるる、ということもあって、『困った時のコウヘイ頼み』と、いうのが西の邑近隣の縄文人たちの、いわば常識になっていたからだった。

耕平にしても、どんな些細なことでも真剣に向き合って、二十一世紀の知識をもってすれば、何の造作もないことばかりだった。それだけ、縄文人たちの困りごとや耕平に相談にやって来る内容というのは、現代の小学生高学年クラスなら、即座に回答を得られるような単純なものばかりだった。

そこで耕平は考えた。

『これはひとつ、ここの邑人だけでもいいから、ものの常識というものを教え込まなくてはなるまい…』

と、しかしながら縄文人の平均寿命が、三十五から四十五と言われている中で、ひとつの世代に教えたとしても、果たしてそれが次の世代まで受け継がれていくかというと、耕平にもいささかの疑問が残る問題ではあった。というものの、縄文人たちにどうやって、それらの常識を教え込むのかといえば、それはまるで雲を掴むような話で、耕平自身にも皆目見当もつかないことではあった。

耕平は考えた。試行錯誤を繰り返しながら耕平はひたすら考えた。やがて、考えた末にひとつの結論に達していた。

時代はもう少し後の時代になるのだが、九州北部あるいは畿内のいずれかにあったと言われている、邪馬台国のことを耕平は思い出していた。邪馬台国、その国は卑弥呼という女王が統治していたとされ、その名は遥か中国にまで届いていたと言われる。

卑弥呼が登場するのは、古代中国の史書『魏志倭人伝』に記された。「倭国の女王」と称される人物で、魏志倭人伝によると倭人の国のほとんどが、男の王が治めていて小国に分けられていた。

それが、二世紀後半頃になると小国同士の抗争が続き、倭人の国は大いに乱れたという。そのために、卑弥呼を女王として擁立した、連合国家的組織をつくり倭人の国はようやく安定した。

卑弥呼は鬼道に仕え、呪術を用いてよく人を惑わしたというが、その姿を倭人たちの前に表すこともなかったという。

これら卑弥呼の記述が、古代の日本で編纂された「古事記」や「日本書紀」に見られないのは、当時(卑弥呼が生きていた時代)は、日本国内では卑弥呼の名前は、別名で呼ばれていたのではないかという説もある。

それはさておき、耕平は卑弥呼と違って鬼道や呪術とは関係はないが、あまり邑人の前に姿を見せないでおこうと思った。何故なら耕平も、もともとはこの時代の人間ではないのだから、やはりその姿を縄文人たちの眼に、いつまで留めておくわけにはいかないと考えたからだった。

だから、邑人の相談事には乗ってはやるが、耕平は直接邑人の前に出ていくのではなく、息子のコウスケに相談や困り事を聞かせて、自分は奥の間に控えていて後からコウスケに、答えさせる方法を取ったのだった。

耕平の家は、かつて山本が縄文時代にやってきた頃、自分が住むためのログハウス風の小屋を造った折に、耕平が見にきた時に『お前も欲しかったら、造ってやろうか…。どうせ、材料も人材もタダなんだし…』と云って、建ててくれたのがこの家だったのた。

その耕平が口実として、コウスケにはこう言わせた。

「お父は今、あまり具合がよくないだけなんだ。でも、大丈夫だよ。代わりにおいらが聞いて答えを教えるから…」

 そんな暮らしがしばらく続き、耕平の存在は邑人たちの間で、ますます神格化を強めて行った。そんなある日、耕平はコウスケを呼んでこう切り出した。

「コウスケ。オレはここに来てから、狩り以外にはあまりどこにも行ったことがない…。邑もだいぶ安定してきたようだし、この辺でひとつあちこちを見て回り、見聞を広げたいと思うのだ。

 お前も立派な大人になったことだし、しばらくの間は邑を任せるから、邑長の代理を努めてはくれないか…。コウスケ」

「それは構わないけど、イナクはどうするんだい…。お父、ひとりだけ置いていくのは可哀そうだよ…」

「もちろん一緒に連れていくさ、心配はいらんぞ。コウスケ」

「だけど、大丈夫かな。イナクはおいらよりもずっと歳は若いし、お父ひとりじゃ心配だな。大丈夫なのかい…」

「何を云うか。コウスケ、オレだって弓の腕は名人級だって、弓の名人と云われている人から、褒められたことがあるんだぞ。お前は知らんだろうがな…」

 こうして、耕平はコウスケと話をして、自分がいない間のことを細かく指示を出し、近いうちに邑人たちにも了解を取ることにした。

「しかし、コウスケ。このことはまだ誰にも云っちゃならんぞ。みんなが動揺するといけない…。オレのほうから折りを見て話すから、今のところはまだ誰にも云わないでくれ…」

「お父がそうしろというなら、おいら誰にも云わないよ…」

それからしばらく経った頃、相変わらず縄文の里の時間は、ゆっくりとした歩調で過ぎて行き、ある日耕平は邑人を集めて話し出した。

「みなの衆、どうかオレの云うことを聞いてほしい。オレはこれからしばらく旅に出ようと思っている。旅に出て方々の邑を見て周り、他所の邑の人々がどんな暮らしをしているのか、この眼で見て見聞を広めてきたいと思うのだ。

 オレが留守中のことは、コウスケにすべて任せてあるから、何かあった場合はコウスケの指示に従ってほしい…、まずは南の邑に行ってみようと思っている」

「邑長、ひとりで行くのかね…」

 邑人のひとりが訊いた。

「いや、イナクもいっしょに連れて行くが、どうかしたのか…」

「男ひとりなら分かるが、若い娘っ子が一緒じゃ、ちょっと危険でないのかい…」

「そうだ、そうだ。南の邑までは、かなりの距離があることだし、どんな危険が待ち構えているか知んねえだ。誰かお供につけてやったほうがええ…。なるべく腕節の強いヤツがいいぞ」

「ほだらば、イサクのヤツが適役でねえべか。何しろ強力が自慢の男だからな。この前も熊の背中に飛び乗って、首の骨をへし折ってやったって豪語してたから、腕節だけは確からしい。イサクのヤツは今日は来てねえみてえだども、どうしたんだ。誰か知らねえか…」

「アイツは気まぐれなヤツだから、どこで何をしてるのやら…」

「せっかく邑長からお呼びがかかったのに、どこに行ったんだか分らないんて、まったく困ったヤツだ…」

「ほんに、ほんに…」

邑人たちは口々にイサクの噂をしていた。

「済まねえな。つい遅くなっちまって…、邑長がお呼びだそうだども、おらに何か用でもあるだか…」

 どこから現れたのか、邑人の後ろのほうで声がして、みんなの間を掻き分けてイサクの姿が前に出てきた。

「これ、イサク。お前は肝心な時に、いつもみんなより遅れてくるが、その癖は何とかならんのか…」

邑役のひとりがイサクに小言をいった。

「済まんこって…、おらも自分では遅れるつもりなんて、さらさらないんじゃが結果的に、そう云うことになってしまうんだ。なんでそうなるのかは、おらにもさっぱり分かんねえ…」

「そんなことはどうでいい…、お前には明日から邑長とイナクについて、南の邑までおふたりをお守りして行ってほしいんじゃ」

「あれまあ、南の邑だかね。おらも一遍南の邑に行ってみたかったんだ。喜んでお供しますだよ。邑長…」

「面白い男だな。君も…、よろしい気に入った。よろしく頼む…」

 その日は耕平の家に泊めもらい、ふたりは酒を酌み交わしながら、いろんな話をして過ごした。

「これはな。オレが山ぶどうで造った酒だ。さあ、どんどん飲んでくれ」

「うん…、これはなかなかうまい酒だ…。邑長はこんなものまで造るのかね…」

「そうだよ。本当は米という植物の実で造った酒が、一番好きなんだがここにはまだ手に入らないから、こんなもので我慢しているんだよ」

「コメ? それは何だね。おらは聞いたこともねえな…」

「それはそうだろう。この辺まで伝わってくるのは、これからずつと先の時代になるだろうからね」

「ところで邑長、邑長は何でもよく知っとるようだが、みんなの噂どおりにあんたは、本当に神さまじゃないのかい…」

「息子のコウスケにも、同じことを聞かれたよ。しかし、残念ながらイサクよ。オレは君たちと同じ人間だよ。心配することはないさ…」

「やっぱりそうか。おらも、この世に神さまなんかいねえ。もし、いたとしてもおらたちの前に、そう簡単に姿を見せるわけがねえと思っていただ」

「ホントに面白い男だね。君は…、縄文人にしておくのは惜しいくらいだよ」

「ジョウモンジン…、何ですだ。それは…」

「いや、何でもない。こっちのことだ…」

 耕平は言葉を濁したが、このイサクという男を二十一世紀に連れて行き、しっかりとした教育を施したら十分通用するだろうと思った。

「だども、邑長。どうして邑長は、みんなの知らないことまで、何でも知ってるだね…」

「うむ…。コウスケにだけは話したが、オレはな。お前の知らない、明日の明日のずーっと遠い未来から来たんだ。だから、お前たちの知らないことでも、知っていて当然なんだよ。たけど、イサクよ。このことは誰にも云っちゃいけないぞ。もし、云ったとしてもお前がバカにされるだけだからな…」

「おらぁ、誰にも云ねえだで、心配はいらねえ。おらには難し過ぎて、よくは分からねえだども。とにかく、邑長は偉い人だちゅうことだけは、分かったから口が裂けたって、おらは誰にも云わねえだ…」

「そうか、分かってれたか。それで十分だぞ。イサク」

 耕平は自家製のぶどう酒の壺を取ると、イサクの手にした素焼きの茶碗に注いでやった。この素焼きの茶碗も、かつて山本が造り残して行ったものだった。

『ふふ…、山本も器用なヤツだったよな…』

 耕平は、そんなことを思いながら、自分の茶碗にもぶどう酒を注ぎ入れた。

「ん、ん、ん…、これはうまい。おらはこだなうめえ酒は初めて飲んだだ…」

「そうか、それはよかった。さあ、どんどん飲んでくれ。まだまだいっぱいあるぞ。時に、イサクよ。お前は噂では熊の首をへし折ったと聞いたが、あれは本当なのか…」

「ああ、本当だとも。熊が暴れているって聞いだから、おらは駆け寄って行って、背中に飛び乗って首をひと捻りしてやったら、熊のヤツは口から泡を吹いて死んじまっただ」「ほう、そうか…。お前は力自慢ばかりではなく、身のほうも相当軽いようだな。こいつはますます頼もしい限りだな。よろしく頼むぞ。イサク…」

「まあ、任せてくれや。邑長、邑長だってイナクだって、みんなまとめて守ってやるから、心配はいらねえだでよ。安心してけろ…」

「いや、オレのことなら気にせんでいい。自分の身くらいは自分で守れるからな。お前には重点的に、イナクのこと守ってほしいんだ。彼女は歳も若いし、旅にも慣れていない。だから、できる限り目を離さないで、見守っていてほしいんだ…」

「よっしゃ、そんなものは容易いとでさぁ。任せておいてもらうべ。それで、いつ経つんで…、邑長」

「明日の朝だ。イサクも今夜は酒を飲んで、十分に鋭気を養っておいてくれよ」

「合点でさぁ。任せておいてけろ…」

 こうして、その晩はたらふく酒を飲んで、イサクは高いびきで眠りについた。

 翌朝、耕平イナクイサクの三人は、コウスケたち一族の者と邑人たちに見送られて、三人とも初めての地、南の邑に向けて旅立っていた。

「うわぁ…、天気もいいし気持ちがいいな。邑長、南の邑までどのくらいかかるだべ…」

「さあな…。恐らくは、山あり谷ありの極めて厳しい道筋になるだろうな…」

「ひゃァ…、そこを乗り越えて行くだかね…」

「何をいまさら弱音を吐いてる。力自慢の怪力男の名が廃るぞ。イサク…」

「誰も弱音なんて吐いてねえだよ。邑長、おらはただ、山あり谷ありのところを行くって聞いたから、ちよっぴらびっくりしただけだ…」

「そうか…。それならいいが、実はな。オレもここから先の南のほうは、あまり行ったとこがないから詳しいことは、よくは解からないんだよ…」

「おらは誰かに聞いたことがあるだども、南の邑の一番端っこまで行くと、河よりもでっかい水たまりがあるって云うぞ…」

「それはな。海というものだ。そこの水はしょっぱくてな。それを乾燥させると塩ができるんだ」

「へぇ…、ほんに邑長は何でもよく知ってるだな…」

 ふたりでそんな話をしていると、

「コウヘイ…」

 後ろのほうで耕平を呼ぶ、イナクの声がした。

「どうした。イナク…」

 耕平とイサクが振り向くと、イナクは草むらの中にうずくまっていた。

「あたし足が痛くて、もう歩けない…」

「おお…、こりゃア、いかんわい…。おらが邑長と話しに夢中になっていて、すっかりイナクのことを忘れておった。すまんのう。可哀そうに…、だども、もう大丈夫だぞ。イナク、ここからはおらの肩に乗っけてやっからな…」

 そういうよりも早く、イサクは片方の腕でイナクを軽々と持ち上げて、荷物を担いだ反対側の肩に乗せ上げた。

「うわぁ、ラクチン…。ありがとう、イサク」

 大きな胸を揺らしながら、イナクはひとりではしゃいでいた。

 その日は何事もなく夕方近くになった。

「よし、今日はこの辺で休もうか…。オレとイナクはここでテントを張るから、荷物を下ろしてくれないか。その間にイサクは、オレの弓を貸してやるから、今晩食べる獲物でも獲って来てくれないか」

「なーに、おらにはそっだなものいらねえよ」

「え…、だけど、お前は手ぶらじゃないのか。それで、どうやって獲物を狩るんだ…」

 耕平は怪訝そうに聞いた。すると、イサクはニヤリと笑って、そこいらに落ちている石を拾い上げた。

「おらには、コイツがあれば何もはいらねえよ」

「それじゃ、お前は石つぶてだけで、獲物を狩っていると云うのか…」

「そうだよ。石ならただでどこでも手に入るし、こんな便利なものが他にあるか…」

なるほどと、耕平は思った。こんな合理的な考え方をする、縄文人には今まで逢ったことがなかった。

「ほしたら、おらは行くでよ。さあて、今日は何が獲れっかな…」

 イサクは口笛を吹きながら行ってしまった。

『やれやれ、世の中にはすごいヤツもいるもんだ…』

 耕平はイナクとテントを張りながら思った。

 テント張りは、一時間もしないで終わり。しばらく待っていると、またイサクが口笛を吹きながら、肩に狩った獲物を担いでやってくるのが見えた。

「いやぁ、お待たせ。こんなもんで三人で喰うには充分じゃろう…」

 と、言って肩から狩ってきた獲物を下ろした。そこには名前が分らない鳥が三羽と、野ウサギが二羽つる草で結わえられていた。

「おお…、充分、充分。これだけでも食い余るほどだ…」

 イナクはさっそく火を熾(おこ)し始め、耕平はサバイバルナイフで野ウサギの皮を剥ぎ、イサクは鳥の羽根をむしり焼くばかりに用意した。

「しかし、お前の石つぶての腕は神業に近いな。見てみろ…。獲物のどれもこれも一撃で頭蓋骨が砕かれている。相当にコントロールがいい証だぞ。これは…」

「邑長もそう思うか…。おらは生まれてからこの方、一度だって狙った獲物は逃がしたことがねえだ」

「そうだろうな…。そのコントロールではな。野球のピッチャーでも、これだけのコントロールの持ち主は、そうざらにはいないぞ」

「あのな…。邑長、邑長は時々分かんねことばっかり云うけんど、そのコントロー…、って何なんだ…」

「コントロールとはな。ボール…、石を投げる時の力とか速さ方向などを、自分で考えて調整することだ」

「何だ…。ほだなことか、ほだなことはおらがいつもやってることだべ」

「だから、オレはすごいと云っているんだ。この時代にも、まだまだイサクのような特殊な能力をもった人間がいるんだろうな…」

「それは、いるかも知れないし、居ないかも知れない。まあ、五分五分だろうな…」

「さあ、そろそろ焼けたぞ。みんなも早く食え。明日も朝になったら出発だ。喰ったら早く寝て、体力を蓄えておけよ。何しろ道は長いからな…」

「うん、わかった…。でも、この鳥おいしいね。コウヘイ」

 イナクは夢中で鳥の丸焼きにかじりついていて、耕平の話もろくに聞いていないようだった。

「しかし、邑長。南の邑までは、どれくらいで着くもんだべ…」

「うーむ、少なくても十日は見ないといかんだろうな…」

「ああ…、喰った、喰った。さて,おらも明日からのために早く寝っかな…」

 イサクは、そのまま横になると、早くもいびきを立てて寝てしまった。

「やれやれ、神経が図太いというか、のんきなヤツだな…。イナク、オレたちも少し早いが、そろそろ寝ようか…」

 耕平もイナクを誘って、テントの中に入った。耕平は寝床に横たわったが、イナクは何を思ったのか、自分の着ているものを脱ぎ捨ててきた。乳房を揺らしながら耕平の脇に横になり、身体を密着させて耕平に抱き着いてきた。

「おい、おい…。明日は朝が早いんだぞ。しょうがないヤツだな…」

 耕平は苦笑いをしながらも、イナクを優しい抱き寄せた。

 こうして、そんなことを繰り返しながら、耕平たち一行は邑を出発してから、十五日目にして待望の南の邑に到着した。

 耕平たちの遠目にも、邑のはるか後方にキラキラと輝く、雄大な太平洋が見て取れる昼下がりだった。

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