母の口元へ

山野エル

母の口元へ

 土をすくって、手触りを感じる。いい具合に乾燥している。

 おばあちゃんは言っていた。

「過酷な環境でこそ、トマトは美しく育つのよ」


 水はけが良くなるように畝を高くしたところに等間隔に蒔いた種は、もうわたしの背丈と同じくらいの高さまで成長した。おばあちゃんの話では、良い実をつけるにはこれくらいの高さが要るのだと言っていた。

 広い畑を見渡せる小屋の中で目を覚まして、屋根の上に登って地平線から朝日が昇るのを見つめるのがわたしの日課の始まりだ。雲ひとつない群青色の空の向こうが白んで、眩しい光の粒が顔を出す。今日も日差しが強そうだ。

 急いで屋根から降りて、小屋に身を寄せる納屋の中から目の細かい網を引っ張り出す。畑のまわりには何本も棒が立ててある。その棒の頭をロープで繋げているのは、この網をかけられるようにするためだ。強い日差しを当ててしまうと、トマトの実は悪くなってしまう。だから、朝日を見て軽い日よけをかけるか決めなければならない。

 太陽がすっかり顔を出すよりも先に、網を張り終えた。すぐに、トマトの列の隙間に入って、畝ごとに茎を見ていく。

 虫がいないか?

 益虫ならそのままにしておくが、葉を食べてしまうような害虫はそっと手に取って袋の中に取り除く。実に届く栄養を作り出してくれる葉は、何よりも大切なものだ。

 葉の色は黄色くなっていないか?

 もしそうなっていたら、畑のそばから堆肥を運んできて土と混ぜなければならない。幸い、葉は色づきも良く、ぴんと張って太陽の光を受け止めようとしている。

 茎の太さはわたしの人差し指の幅と同じか?

 堆肥をあげすぎてしまうと、茎が太くなりすぎて、実が悪くなってしまう。自分の指をぎゅっと握って、トマトの茎を握る。順調に育っているようだ。茎から感じる脈々とした大地の力が、今日も私に力を与えてくれるようだ。

 脇芽は出ていないか?

 よく育っていれば、脇から若い芽が出てくる。だけどそのままにしておくと、栄養がそこに取られてしまい、実に行かなくなってしまう。だから、ハサミを切り取って除く。出始めようとしていた脇芽がいくつもあった。これをひとつひとつ見つけ出して取り除くのはとても大変で集中力がいる作業だが、見方を換えれば、しっかりと育っている証拠でもある。それは喜ばしいことだ。

 わたしの背より高く茎が伸びていないか?

 もし伸びていたら、切り落とさなければならない。それも良い実をつけさせるため。目線よりも上にできた茎をしっかりと切り落としていく。切り落とした脇芽も茎も、害虫を入れた袋の中に入れていく。これらのものを畑の土に返してしまうと不吉らしい。ひとつもこぼさずにしっかりと袋の中に収めていく。

 この作業をしていると、あっという間にお昼ご飯の時間になる。

「リズ! お昼ご飯にしましょう!」

 ほら、今日もおばあちゃんがやってきた。


 おばあちゃんの顔をちゃんと見たことはない。いつも布で覆っていて、目だけが出ている。

「穢れが移るから」

 とおばあちゃんは言っていた。でも、目元だけでもおばあちゃんがわたしを大切に思ってくれていることは分かる。

 パンとスープとブドウのジュースをテーブルの上に並べてくれたおばあちゃんは、戸口のところまで後ずさりした。それを見て、わたしはテーブルにつく。

 テーブルの上の籠の中には、夜に食べる黒いパンが入っている。

 食卓に並んだパンをスープに浸した。生地がスープを吸って、じっとりと濡れていくのが好きだ。まるで、トマトが微かな水を吸い上げるようにして、パンが温かくなっていく。

「おばあちゃんも一緒に食べられたらいいのに」

 おばあちゃんは戸口に立ったまま首を振った。

「いけないわ。穢れが移るもの」

「穢れってなあに?」

「リズ、あたなは選ばれたのよ。この大地に恵みを与えて下さる母に、聖なる実を育て捧げるために」

 わたしのおでこにほくろがあるらしい。自分で見たことはない。それが、選ばれるための証なのだという。だから、わたしは大地の母に私が一から作り上げたものを捧げることができる。

 おばあちゃんが嬉しそうに言うから、わたしは誇らしかった。わたしの家族もみんな、幸せに過ごしているらしい。

 夏至の日の朝に赤く熟れたトマトを捧げることで、わたしたちは大地に生きるための赦しを得られるのだ。

 おばあちゃんは害虫や脇芽、切り落とした茎を入れた袋を持って帰って行った。


「あなたが聖なる実の奉納者よ」

 おかあさんがそう言ってわたしを抱きしめてくれた日のことを鮮明に覚えている。

 誰でもがなれるものじゃない。

 大地の母に選ばれたのだ。

「おかあさん嬉しい」

 おかあさんはそう言ってぎゅっと私を抱きしめた。

 それから、お祝いの儀式が街の人総出で行われた。みんなが笑っていた。その笑顔の真ん中に自分がいることが、なんだかくすぐったいような気もした。

 わたしなんて、何の取柄もない人間だ。

 いつも人の影に隠れていて、自分の気持ちを口にしたことなんて一度もない。

 お祝いの儀式の最後に、みんなの前で挨拶をするように言われた。顔が熱くなり、膝が震えてしまった。

「精一杯、頑張ります」

 そう言うことしかできなかった。

 そんな自分が情けなくて、挨拶の後に泣いてしまった。

 その夜に神官たちがやってきて、わたしは家族と離れることになった。

 ひと月の間、穢れを払うために神学校の寄宿舎で過ごす必要があった。わたしはそこで手厚くお世話をしてもらいながら、トマトの育て方を学んだのだ。

 そして、大地の母の大いなる愛とわたしたち人間がどのように歴史を育んできたのかを知った。偉大な使命に身が震えると共に、わたしの中に滲み出るものがあった。

 もしかしたら、それが責任感とか使命感をいうのかもしれない。


 小さくて青い実が生り始めた。

 まとまってできる花房に二つ目の実ができ始めたら、すぐに取り除かなければならない。そうしなければ、立派な実がつかないからだ。間引きした実も畑に残さないように袋に入れる。中に重さを感じるたびに、わたしたちは自然の恵みを頂いて生きているんだという思いが強まる。

 日差しとたまに降る雨にも気をつけなければならない。

 日を当てすぎると、実が駄目になってしまう。だから、いつも以上に朝の地平線を注意深く見なければならない。

 雨が降る予兆が出たら、土に藁を被せた上でトマトに雨が当たらないように布の屋根をつけなければならない。布の囲いの中には、特別な炭を撒いて、湿気がこもらないように気を配る必要がある。多すぎる水は実が悪くなるだけではなくて、実の中で育まれる聖なる力を弱まらせてしまうのだ。

「恵みを受けすぎると、堕落がやってくる」

 おばあちゃんもそう言っていた。


 遠くに見える「燭台岩」のてっぺんに赤い太陽が載ると、夏至の日だ。

 とうとうその日がやってきた。雲ひとつない空がぐんぐんと青く染まっていき、空気も熱を帯びていく。

 小屋の屋根の上から急いで降りて、畑に向かった。

 青々と茂るトマトの森のあちこちに、真っ赤に膨れた実がぶら下がっている。つい笑みがこぼれてしまう。きっと、大いなる赦しを得られるに違いない。

 しばらくして、おばあちゃんがやってきた。いつもより早い頃合いだ。そして、いつもと違う、白い正装に身を包んでいる。おばあちゃんは純白の祭祀用の衣装が入った籠を提げていた。

 小屋の中で着替えをしている間、おばあちゃんがいつものように戸口でわたしを見つめていた。

「本当に素敵だわ」

 おばあちゃんにそう言われて、少し恥ずかしくなった。

「もうすぐしたら神官様がやってくるから、あとは言う通りにするんだよ」

 おばあちゃんはあの太陽のような熱い眼差しをわたしに向けて去って行った。

 その背中は、晴れやかだった。


 カランカランと手鐘の鳴る音が近づいてくる。

 小屋を出て小道の先を見ると、赤い衣装に身を包んだ神官の一団がゆっくりと近づいてきていた。

 やがて、小屋を囲むように神官たちが一列に並んだ。

「それでは、リズ、この聖なる蔦の籠にきみが選んだ実を五つ入れてきてくれ」

 籠を受け取って、畑に入る。

 大きく、弾けるように生る実はすべて私が育て上げたものだ。大切な子どもを授かるかのように、ひとつひとつを吟味して、籠の中に入れていく。籠の中の実が増えていくたびに、これまでの苦労が報われたような気持ちがした。そして、何もできなかったわたしに、ここまでのことができたんだという自信のようなものが漲ってきた。もしかしたら、わたしは変われたのかもしれない。

「よろしい」神官は籠の中の実に目をやって深くうなずいた。「それでは、祭儀場へ」

 わたしは神官たちと共に街の方へ向かった。


 もう半年くらいだ。ずっと街から離れた場所でトマトを作っていた。

「穢れのない少女だけが聖なる実を捧げる資格を持つ」

 神官がそう言っていた。だから、男の人や男の人と関わりのある人、そして欲を掻き立てる街から離れなければならなかった。初めは寂しさが勝った。それでも、自然と共に過ごして、自分の子どものようにトマトが成長していく姿に次第に心が洗われるようになった。

 街はお祭りの雰囲気で満ちていた。

 祭殿の方まで街を貫く道の両脇では、住人たちがみんなでわたしたちを出迎えてくれた。中には、笛や太鼓を叩いて踊る人たちもいる。久しぶりに感じる人いきれに、わたしは少し眩暈がしそうだった。そして、思う。トマトも言葉なく多くのことをわたしに語りかけて来ていたのだ、と。街に戻ってきて、自然と繋がることができた自分に気がついた。

 人垣の中に、両親と弟の姿を見つけた。三人とも、目を輝かせて私を見つめている。ニコリと微笑み返すと、三人はお互いに手を取り合って、感じ入ったように涙を流した。


 街を抜けると共に、人の姿がなくなる。祭殿の周囲は木々が生い茂る神域だ。この辺りは、わたしも、そして街に住む誰も気軽にきていい場所ではない。

 神官たちについてしばらく行くと、石造りの祭殿が現れた。階段状に積み上がった山のような壮大な建物だった。

 祭殿に入り、たいまつをつけた神官に先導されて、森閑とした祭殿の中を抜けていく。神々やその使者である動物たちが象られた意匠が施されたその中を、真っ直ぐと反対の方へ歩いていく。

 祭殿の先に大きく開けた場所がある。

 大地に大きな穴が開いている。その崖のそばに、石の柱で囲まれた祭壇が築かれていた。

 その祭壇の広場の手前で、神官がわたしに振り向いた。

「これから、きみにはあの祭壇に聖なる実を捧げてもらう。純潔で穢れの知らないきみがその手で祭壇にひとつずつ実を置くのだ」

「はい」

 心なしか心臓の鼓動が早くなる。

「ここは『御口』と呼ばれている、大地の母と繋がる聖なる地だ。くれぐれも躓いたり、転んだりしないように」

「分かりました」

 神官が歩き出す。そして、わたしに後をついてくるように促した。

 一歩一歩を踏みしめるように、祭壇の広場に足を踏み入れた。気のせいか、少し空気がひんやりとしているように感じた。森に囲まれているのに、ここだけは鳥のさえずりも虫の鳴き声も聞こえない。微かに吹いていた風もそっと身を隠していた。

 祭壇には蔦のような模様が刻まれていて、汚れひとつなかった。

 祭壇の上は皿のように窪んでいて、神官はそこを指さした。

「聖なる実を」

 わたしはうなずいて、籠の中からトマトをひとつずつ祭壇の上へ静かに置いた。太陽が天高く昇っていた。その光を受けて赤い実が映える。

 五つの実を置き終わると、神官は私を先導して、崖の方へ歩いていく。そして、崖の際で両膝を突き、大地の母への祈りを捧げ始めた。

 固唾を飲んで見守っていると、神官が言った。

「では、リズ、大地の母へ感謝の祈りを」

 わたしはうなずいて崖の際に進んだ。神官がしたように両膝をついて、眼下の光景に目を向けた。

 街がひとつ収まるくらいの丸い大穴が開いていた。その崖はぎざぎざの岩肌を地の底まで真っ直ぐに落としている。なぜ御口というのか、ここにきてやっと分かった。大地に開いた大きな口……ここを通じて大地の母とわたしたちは繋がっているのだ。

 穴の底には深い緑の水が湛えられている。その水面が陽光を受けて宝石のように輝くのだ。わたしは目を奪われながらも、感謝の祈りを捧げた。

「リズよ、そなたの思いが母の赦しを、そして加護をもたらすであろう」

 背中に神官の手が触れるのを感じた。

 わたしの身体が母の御口に吸い込まれていく。

 意識が天に昇るような心地がした。

 視界がはっきりとしてくる。


 迫りくる深い緑の中に、

 わたしは、 

 多くの純粋な魂が、

 揺蕩っているのを見た。

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