ハインリッヒの危険な帽子:4


 階段を降りてリビングに出る。

 リビングに入った途端、「ポーンポーン」とアラート音が鳴り、赤い文字が表示され、音声アナウンスが流れた。


 【注意】危険レベル:6 火災の恐れあり

 (情報元:経済産業省 リコールデータベース)


 アラートが表示された先には空気清浄機があった。リコールとはどういうことだろう。数年前に母親が新しく買ってきた大手メーカーの空気清浄機のはずだ。

 俺はポケットからスマホを取り出し、空気清浄機のメーカー名と商品名をインターネットで調べた。

 すると確かにメーカーのホームページ上で、製品使用による火災の発生があるとして、製品回収を案内しているページを見つけた。

 そこに記載された情報によると、すでに製品起因による火災が三件発生しており、そのうち一件は死亡事故になっているようだった。

 俺は空気清浄機の電源を切り、さらにコンセントから電源プラグを抜いた。

 すると、表示されていたアラート文字も消えた。

 空気清浄機の本体を触ると、異常なくらい熱くなっていた。もしかしたら発火する直前だったのかもしれない。

 さすがにこれはリコール情報を知らないと予測できない危険だ。

 危険予測に使われている情報元も消防庁や経済産業省といったデータベースを参照しているようで信頼できるポイントだ。

 もしかするこれはなかなか良い商品なのではないか。


「あんた、なんて格好してるの?」

 振り向くとそこには母親が驚いた様子で立っていた。

「なにって……あぁ、これ?」

 頭上の黄色い通学帽子を指さす。

「そんな子供の頃のもん引っ張り出して……。ああそうか、あんたついに、頭おかしくなったのね……」

「いや、違うんだ。俺のじゃなくて、新しく買ったんだよ」

「新しく……っ! なんてこと……あんた、ちょっとそこ座りなさい」

「いや、だからさ」

「いいから、座りなさい」

「違くて、これは――」

「つべこべ言わない!」

 俺が帽子のことを説明しようとしたところ制された。大人しくリビングのソファに座った。

 母親がソファの前のテーブルを挟んで、カーペットの上に座る。

「母さんはね、あんたのことが心配なのよ」

 母親は俺が被っている黄色い通学帽子を見ながら、大きくため息を吐くと、話を続けた。

「この前ね、テレビのワイドショーで特集されていたの。あんたみたいな人のこと『子供部屋おじさん』って言うんだってね」

 「子供部屋おじさん」、その言葉は俺も知ってる。中年独身男性が親元を離れず、実家の子供部屋で暮らしていることを揶揄した言葉だ。

 中年の独身女性では「子供部屋おばさん」と言われ、それぞれ「こどおじ」、「こどおば」と略される。

 こどおじとは、まさに俺のことで、だから俺はこの馬鹿にした言い方が嫌いだ。

 言わせてもらうが、別に俺は家に引きこもっているわけではなく、ちゃんと仕事をして収入もしっかり得ている。得た収入だって食費や生活費としてしっかりと母親に渡している。別にただで実家に住んでいるわけではない。自室に閉じこもっているわけでなく家事だってしている。

 友達だって少ないがいないわけではないし、むしろネットゲームの世界では有名な方だ。

 実家にいるからコミュニケーション能力が低いだとか、実家にいるから自立できないだとか、実家にいるから結婚できないだとか、そういった一方的な価値観や偏見で物事を見てほしくない。多様性の時代じゃなかったのか。「子供」と「おじさん」と相反する言葉を一緒にしている時点で悪意を感じる。

 俺には実家から職場が近いというしっかりとした合理的理由があるのだ。それに持ち家だから家賃の節約にもなる。貯金に回した金は将来の両親の介護費用に充てることだって考えているんだ。

「マンガとかゲームばかりじゃなくて、たまには出かけたらどうなの?」

「そんなの俺の勝手だろ。部屋にいて悪いのかよ」

 まるで引きこもりみたいに言われて腹が立つ。

「別に悪くはないわよ」

 母親は慌てて取り繕う。

「じゃあ、何しようと勝手だろう」

「でもねぇ。そんな帽子被って一日家にいたら、なんて言うかその……ねぇ」

 帽子については確かに突っ込みどころかもしれない。大の大人がが、小学生の被る通学帽子を被っていれば、「大人になれない子供」だと思われても仕方ないかもしれない。こどおじというか、ピーターパン症候群の方が近いのではないか。だが別に俺は子供でいたいわけではない。

「仕事もしてるし、生活費だって毎月渡してるじゃんか。何が悪いんだよ」

「そういうことじゃないのよ」

「じゃあ、どういうことだよ」

「どうって……ほら、なんていうか……。家族の人の介護が必要で、実家に住んでいる人もいるじゃない?」

「ああ。それがなんだよ」

 母親が言いたいことがなんとなく分かってきて語気が荒くなる。

「うちは母さんも父さんもピンピンしてるし、お兄ちゃんだって結婚して元気に暮らしてるわよね」

「知ってるよ。だから何が言いたいんだよ」

「そうね……」

 母親はため息を吐く。俺もため息を吐く。

 どうせ「一人暮らし始めたらどうなの」とか「結婚はしないのか」とかそんなことだろう。

 俺は結婚なんか望んでいない。そもそも相手がいるわけでもないし、わざわざ過剰な労力をかけて見つけたいとも思わない。

 それに、気持ちの探り合いみたいな駆け引きするような人間関係自体が疎ましいのだ。結婚が勝ち組のような古い価値観を押しつけないでほしい。

 「子供部屋おじさん」のことをワイドショーで見たというなら、俺だって「結婚について」の特集をワイドショーで見たことがある。そこでは生涯未婚率が年々上がっていると話していた。

 だから結婚するのが普通、という価値観がもう間違っているのだ。

 無性に腹が立ってきた。

「あんたもそろそろいい人見つけてほしいわ」

 予想通りだ。そうやってすぐに結婚させたがる。

「父さんとも話したんだけどね。いつまでも実家暮らしっていうのもよくないと思うのよ」

「は? なに、どういうこと?」

「その……社会性、っていうのかしら?」

「なんだよそれ! まるで俺が社会性がないみたいな言い方だな」

「違うの。そうじゃなくて」

 母親は何かに怯えるように慌てて否定した。昔からそうだった。俺が何か気に食わないことがあって言い合いになると、そうやって慌てて否定していた。子供がこれ以上駄々こねないように、人前で騒ぎを起こさないように、そうやって俺をあやしていた。

「じゃあ何だよ!」

 子供みたいな対応にさらにいらだつ。

「だからね……、その……、母さんも父さんも、いつまで生きられるか分からないじゃない? だから……いついなくなっても平気なようにしたほうがいいんじゃないかって、思うの」

「別に俺、ニートじゃねぇし。アニキのように結婚してないけど、ちゃんと働いてるし。母さんに毎月生活費、渡してるよね? 風呂掃除だってしてるし。え? 何が不満なの?」

「不満じゃないのよ、不満じゃ。もちろん母さんはあんたが家に居てくれた方が嬉しいわ。父さんだってそう思ってると思う。でも……その……ねぇ……」

「何だよ、はっきり言えよ!」

 感情が抑えられず、目の前のテーブルを思いっきり握りこぶしで叩いた。

 母親が反射的に身体をビクンと反応させる。

 その姿を見てさらに苛立ちが強くなる。俺が悪いのか? 俺が何か迷惑なことをしたのか? 俺が何したって言うんだよ!


 その時突然、「ポーンポーン」と高音でアラート音が鳴り、音声での案内とともに赤い文字が目の前に表示された。


 【注意】危険レベル:6 暴行、殺人未遂の恐れあり

 (情報元:警視庁 殺人動機データベース)


 一瞬、何に対してアラートが出ているのか分からなかった。視界には母親しかおらず、母親に対してアラートが出ているのかとも思ったが、視界を移動してもアラート表示が消えなかった。

 それでようやくアラートが自分自身に対して発されていることが分かった。

 俺が、母親に対し危害を加えるという危険を予測してのアラートのようだった。

 確かに感情にまかせて母親を殴ってしまおうと思ってしまった。だけどアラートが出て、思いとどまった。

 俺だって子供じゃない。俺の言い分よりも母親の言っていることが正しいのだと分かっている。

 そりゃあ、多様性だ生涯未婚率の上昇だ、と言われている世間を言い訳に実家から出ていないのだって分かっている。

 多様性を否定するわけではないが、俺はそこまで考えて生きていない。ただただ自分で選択するのが面倒だから、ただただ実家で暮らすのが楽だから、だから毎日惰性で生きているだけで、それを責められているようで、認めたくない自分がいるのだ。

「もう分かったよ。家を出るよ」

「え、そうじゃないのよ……。そうじゃ、いいのよ、家にいて」

 母親はやっぱり慌てて自分の考えを否定する。子供がこれ以上駄々をこねないように。

「俺も今まで少し甘えすぎたよ」

「そんなことないわよ……。いいのよ、私はただあんたのことが心配で……」

 またそうやって機嫌を損ねないような言い方をする。

「いいんだもう。これからは好き勝手やっていくよ。だからもう放っておいてくれよっ!」

 そうして俺は怒鳴り声を上げ、そのまま実家を出た。

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