彼の傘

ノミン

彼の傘

 そんな事で拗ねちゃったんだ。陸人さんも結構子供っぽいんだね。

 高校時代からの親友、明美にそう言われて、私は腹が立ってしまった。都合の良い慰めを期待していた自分のことは棚に上げて、それこそ、都合よく腹を立てた。

 今朝、リク君(付き合い始めてからはずっとそう呼んでいる)は、私が起きた時にはもう、家を出ていた。早朝出勤。私に、「いってらっしゃい」の一言も言わせないつもりらしかった。

 昨晩のことを根に持つなんて、明美の言う通り、リク君は子供っぽい。

 大人げない。

 私より三つ上なのに。

 ――要するに私は昨日、リク君を怒らせてしまったのだ。

「俺も在宅がいいなぁ」

 と言うから、私は何となく、特に何も考えず、

「じゃあ在宅できる仕事にしちゃいなよ」

 と言ったのだ。

 そうしたらリク君は、

「簡単に言うなよ」

 と、リク君にしてはかなり強い口調で、私に言ったのだ。「あ、ごめん」と、私は間の抜けたような謝罪をした。その後リク君は、好きなはずの豚の角煮もほとんど残して、私がドラマを見ている間に、先に寝てしまった。

 そして今朝、起きたらもうリク君はいなかった。

 朝は、卵かけご飯を食べたようだった。

 いつもはやらないのに、食器までしっかり洗って、水切りラックに入れてある。わざわざ菜箸で卵を混ぜたらしい。リク君の箸と菜箸が、並んで入れてあった。

 洗い物のことまで気が回らないのも、子供っぽさなのかもしれない。

 それを見て私は、可愛いなぁ、リク君――なんて、あえてリク君の可愛らしさを心に強調した。だけど時間が経つと、私は自分の中にある不安に、無頓着でもいられなくなった。

 片付けられて、水滴の粒だけが残った食器。

 テレビも点いていない、静かなリビング。

 窓の外の、灰色の雲。

 何となくテレビを点けたけれど、ワイドショーのわざとらしい笑い声が、今日は心に痛かった。すぐに消してしまった。一人でパスタを作って、でも妙に落ち着かなくて、明美に電話をしてしまった。

 明美は丸の内レディーだから、昼休憩はほとんど丸々、私の話に付き合わせてしまったことになる。電話を切ったあとで気が付いた。

 それなのに私は、明美に腹を立てるなんて。

 リク君は、私のそういう、無神経さを、いつも我慢しているのだろうか。

 すっかり冷めてペタついたパスタを食べながらそんな事を考える。

 リク君とは、大学で知り合って、四年間付き合い、そして今年の五月に結婚した。

 優しくて、話を聞いてくれる、一緒にいると落ち着く男の人。付き合う時に、告白は私からしたのだ。どうしても、リク君と一緒にいたかった。ドキドキするような気持ちというよりは、リク君といると、落ち着いた、優しい気持ちになれる。

 結婚しても、リク君は豹変する、なんてことはなかった。

 もともとが優しい性格なのだ。そして、紳士的。私を顎で使うような、そういう雑な扱いは、一度も受けたことが無い。

 ――夕食は、すき焼きにしようかな。

 一緒の鍋をつつけば、昨日のことなんて忘れて、きっと、仲直りできるはずだ。

 でも、本当にそうだろうか?

 夕方が近づくと、雨が降ってきた。

 朝から、雨の予報は出ていた。

 だけどすき焼きは死守したい。

 仲直りのためだ。

 もう私のお腹も、すき焼きになっている。

 ――でも、本当にそれくらいで、仲直りなんてできるのだろうか?

 外が暗くなり始め、雨音も強くなってきた。

 今日、リク君、帰って来るのかな……。

 在宅のデスクワークを終えて、私は窓の外を眺めた。

 そういえば、冷蔵庫には、昨日リク君が残した、豚の角煮がある。

 いつも、私が作ったものは全部食べてくれるリク君が、残した豚の角煮。私の料理を残したのは、もしかするとこれが初めてかもしれない。

 子供っぽい。

 拗ねている。

 ――そうじゃない。

 リク君は、本当に怒っているんだ。

 あの温厚なリク君を怒らせてしまったのを、まるで、リク君がいけないみたいに、「子供っぽい」なんて思って、それで、事の重大さに気づかない振りをして、それを「可愛らしい」なんて余裕ぶって。

 でもよく考えれば、私は何も余裕なんてない。

 きっとリク君は、家庭を壊すようなことはしないし、すき焼きでだって、仲直りはしてくれる。でもそれは嫌だ。そんな事を繰り返していったら、リク君の心は私からどんどん遠ざかっていってしまう。許してくれるのは言葉だけ、態度だけ――心では見限られてしまう。

 嫌だ。

 それは嫌だ。

 だけど、どうしたらいいのだろう。

 美味しい肉を買ってくるとか。

 そうじゃない。

 その時私は、玄関の傘立てに、リク君の傘が置いたままになっているのに気づいた。

 ――迎えに行こう。

 そう決めて、私は駅に向かった。

 バス停で待っているのでも良かったけれど、それじゃだめな気がした。



 雨の駅。

 階段を上って、改札口の前で待つ。

 電車が着くごとに、ホームから上がって来た人が、どっと改札を通る。そうしてその一団が皆改札を抜けてしまうと、改札前には静寂が訪れる。

 そんな波の満ち引きが何度か繰り返された。

 私は目を皿のようにして、リク君の姿を探した。

「まだかな……」

 時計を見て呟く。

 もう、いつもなら、帰ってきている時間だ。

 本当にリク君、今日、帰ってこないつもりだろうか?

 それとも、飲み歩いているのだろうか?

 遅くなる時は、いつも連絡をくれるのに、今日は、連絡がない。

 ――どうしよう。

 また、新しい波がやってきた。

 雨でイラついた様子の人。

 俯いて早歩きで歩く人。

 何やら急いでいる人。

 その中に――いた!

 見つけた、スーツ姿のリク君。

 リク君の方でも、私を見つけたようだ。

 目が合う。

 リク君は改札を抜けて、そのまま一直線に、私の元の来てくれた。

「どうしたんだよ」

 リク君は、そう言って私の髪と肩を撫でた。

 その時に私は気づいた。

 じわっと、目元に涙が浮かんでいることに。

「なんでもない」

 そう言ったけれど、涙声になってしまう。

 なんでもない、という言葉とは裏腹に、涙がぼろぼろと零れる。

 ただ傘を届けに来た、ただそれだけのはずなのに、感情が、抑えられない。リク君は、私の事を嫌いなのだろうか? もう、見限ってしまっているのだろうか?

「傘、忘れてたから」

 私が言うと、リク君はにへらっと緩く笑って、私に、その右手に持った傘を見せてきた。

 透明の、ビニール傘。

 三百円。

 うわあっと、私はリク君の胸を叩きながら抱き付いた。

 そんな、ずるいじゃないか。

 私が、どんな気持ちで傘を持ってきたと思ってるの。

 それなのに、三百円のビニール傘なんて。そんな安物でやり過ごしてしまおうなんて。

「なんだよ、そんな」

 リク君は笑いながら、それでも私の背中を、宥めるように優しく撫でてくれる。

「ごめんね」

 私は、リク君の胸に顔をうずめたまま言った。

 するとリク君は、

「――今日、どっかで食べてく?」

 そんな提案をしてきた。

 私の「ごめんね」はどこにいったの!?

 でも、それでもまぁいっか、という気になってくる。リク君に優しくされるのは、私だけの特権だ。今はそれを、存分に味わいたい。

「何食べたい?」

「すき焼き」

 あぁ、俺も丁度すき焼き食べたいと思ってたんだよね、なんて気軽に言うリク君を、私はすこし恨みがましく見つめた。そうするとリク君は、私の頬を優しくつねってきた。

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