42湯目 伊香保温泉

 伊香保温泉。


 草津温泉と共に、群馬県を代表する温泉で、上毛かるたでは「伊香保温泉日本の名湯」と歌われている。


 古くからあり、万葉集には「伊香保」の地名を含む歌が9首載せられていると言われている。


 私は、小学生の頃、親に連れられて何度かここに来たことがあったので、覚えていた。

 何よりも特徴的な、長い石段がずっと続き、その石段の両脇に建ち並ぶ無数のホテルから湯気が立ち昇る様子を、幼い頃の記憶として覚えていた。


 先生が、車外でタバコを吸っている間、もちろんスズキ ハスラーに乗る正丸先生は全然着いてこなかった。最初の段階で、すでに大幅に差が開いていたからだ。


「ちょっと。琴葉、大丈夫?」

「死、死ぬわ……」

 ようやくフィオに肩を貸してもらって、後部座席から琴葉先輩が、文字通り「這い出る」ようにして出てきた。


「んな、大袈裟な。死ぬわけねーだろ」

 先生は、右手に紙タバコ、左手に携帯灰皿を持って、ケラケラと笑っていたが。


「交通法規は守って下さい。先生、いい大人でしょ?」

 琴葉先輩に、思いきり睨みつけられて、人差し指を向けられ、


「わーったよ」

 渋々ながらも、分杭先生は頷いていたが、本当にわかったのかどうかは、かなり怪しいと言える。


 そして、待つこと15分。


 ようやくハスラーが到着した。


 その間、ペットボトルの水を飲んで、酔い覚ましをしていた琴葉先輩には、私が付き添っていた。


 駐車場に車を回した後は、石段を上り始める。


 ここの石段は長い。急斜面に造られた温泉街で、石段は365段もあるという。


 その石段の両脇には、土産物屋や、ホテルなどが所狭しと建ち並ぶ。

 一通り、店を冷やかしながらも上に登っていくと、最終的に「伊香保神社」という小さな神社に着く。


「やっと着いたか。なげーな」

「まどか。だらしないネ。運動不足ヨ」

 はあはあ言ってるまどか先輩に比べ、フィオは元気一杯の様子だった。


「でも、いい眺め」

 私は琴葉先輩の言葉に、来た道を振り返る。


 かつて、幼い頃に父と母に連れられて、やって来て、この風景を見たような記憶が頭の片隅にあった。


 石段の温泉街のはるか彼方に、青々とした群馬県の山が見えた。


「この先にも露天風呂があるよね」

「ええ。まあ、それは明日でいいでしょう。まずは宿に向かいましょう」

 正丸先生の言葉に、分杭先生が頷いて、まずは二人の先導で宿に向かうことになった。


 そして、その宿に着いてから。


 早速、風呂に入りに行った私たちは。


「伊香保には、3つの湯があると言われてるの」

 唐突に湯船で、琴葉先輩が口を開いた。車酔いは、すっかり落ち着いたようで、安心したが。


「3つの湯、ですか?」


「ええ。黄金の湯、白銀の湯、子宝の湯、と言われてるわ」


「子宝の湯、は想像つきますが、残り2つは何ですか?」


「黄金の湯は、元々は無色透明だけど、空気に触れて茶褐色になったお湯ね。切り傷を含め、あらゆるものに効能があるそうよ。白銀の湯は、無色透明、無味無臭で、高齢者や病後の人に向いてるそうよ」

 相変わらず博識な、温泉博士の彼女に感心していると、


「風呂なんて、入れりゃいいんだよ。それより、ここに浸かって酒飲みてえな」

 忘れていた。今日は、分杭先生がいるのだった。


 彼女は、いつも以上に口が悪い、というかリラックスしてるからか、開放的に見えた。


「あ、それ。わかります。こう、日本酒をキュっといきたいっすね」

「わかります、じゃねーだろ、柳沢。てめえ、未成年のくせに酒飲んでるのか」

 まどか先輩の一言に、長い髪をなびかせながら、分杭先生が睨んでいたが、


「いやー。そんなわけないっすよ。言葉の綾ですよ。父ちゃんがよく飲んでるので」

 と、まどか先輩は必死に言い訳していたが、どうも彼女は怪しい。飲酒疑惑があるのもわかる気がした。


 というわけで、風呂上がりに、食事となったが。


「そいじゃ、おつかれー」

 乾杯の音頭を取ったまま、いきなり分杭先生はガバガバとビールを開けだした。


 それを隣にいた正丸先生が注いでいるという、「本来、逆では?」という情景が展開された。


 しかも、正丸先生は、

「いや、それにしても分杭くんは、ますます綺麗になったね。結婚しないの?」

 と、聞いて、


「しないっすよ。面倒ですし」


「惜しいな。僕がもうちょっと若かったら、君を口説いていたんだが」


「そういうこと言うと、奥さんと娘さんに、今から電話しますよ」

 冗談とも、本気とも取れない口説きに、分杭先生は鋭く突っ込んでいた。


 しかも、

「それだけはやめてくれ」

 と言う正丸先生に、


「みんな。聞け。このおっさんは、こう見えて、すげえ可愛い奥さんと娘さんがいるんだぞ。犯罪だろ」

 いつもは、恩師である正丸先生には非常に丁寧に接するはずの、分杭先生の口調が「荒れて」いた。酒が入って、性格が多少、攻撃的になってるのか、開放的になってるのかもしれない。


 しかも、彼女は正丸先生が持ってるスマホを強引に取り上げた上、待ち受け画面に映っているものを、私たちに見せた。


「おおーーっ」

 みんなから歓声が上がったが、実際、すごい可愛かった。


 特に、娘さんが。

 聞くと、正丸先生の奥さんは、元・舞台女優だそうで、確かに元・女優さんなら、綺麗なのも頷ける。その上、年齢も20歳くらい離れているというから、驚きだ。


 それに娘は、一般的に「父に似る」と言われるが、この熊みたいな先生に、娘さんは似てなかった。


 年齢的には、まだ小学生の高学年くらいだろう。


 あどけない横顔、丸くて柔らかそうな頬、サラサラの髪。

 まさに天使のような、奇跡の可愛らしさを持つ、美少女だった。


「ちょ、やめて、分杭くん」

「んな、見せて減るもんじゃないっすよ」

 この二人、なんだかんだで、息が合う漫才コンビみたいで面白かった。


 結局、その後は、みんなが正丸先生に根掘り葉掘り、この元・舞台女優さんとの出逢いや、娘さんのことを聞くだけで終わってしまった。


 だが、宴もたけなわになってから。


 ビールを数杯飲み干しても、まだ全然酔っていない様子の、分杭先生が、不意に口を開いた。


「お前ら。来年のことだが、どうする?」

 聞かれて、我に返ったのは、私だ。


 今年で、まどか先輩、琴葉先輩、フィオは確実に卒業する。


 来年度は、私と、花音ちゃんの二人だけ。

 つまり、同好会規則により、最低でもあと2人入れないといけない。


 そこから先は、来年の話になった。

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