25湯目 堂ヶ島温泉と、彼女の予感

 ログハウス風の三角屋根のオシャレな建物、西天城高原 牧場の家を後にした私と花音ちゃんは、そこから下界に伸びる、細長い山道でもある県道410号を下り、宇久須うぐす川と呼ばれる、細長い川を見ながら走り、やがて、国道136号に合流する。


 あとは、真っ直ぐに下って、出発からおよそ30分ほどで、「堂ヶ島」と呼ばれる場所に着く。


 観光名所でもあるそこは、人や車で賑わっていたが、花音ちゃんは、その堂ヶ島の中心部をスルーして、そのまま走り、突然、右折ランプをつけて、道路を渡り、路地のような細い道に入って行った。


 どこに行くのかと思っていたら、断崖絶壁のようにそそり立つ崖の前にある駐車スペースにバイクを停めた。


 私も続いて、その横に停めて、エンジンを切り、ヘルメットを脱ぐ。


 見ると、この駐車場の脇に、申し訳程度に、小さな小屋のような建物があり、「沢田公園 露天風呂」と書いてあった。


「沢田公園?」

 まったく聞いたことがなかった私が、隣でタオルの準備をしている花音ちゃんに尋ねると、彼女は、指を断崖絶壁の上に示した。


「あそこですよ」

 その指の先にあったのは、小さな木の板で、断崖絶壁の上に、確かに「沢田公園」と書いてあった。


 何とも不思議な場所だと思ったが、その沢田公園の断崖絶壁には目もくれず、彼女はすたすたと受付らしき、小さな小屋へと向かったので、私もタオルを持って後に続いた。


 受付を済ますと、この断崖絶壁に築かれた階段を上り、また現れた、別の小さな小屋に着く。

 そのプレハブのような小さな小屋のドアを開けると、小さな脱衣所になっており、そこからドアがあって、その外はもう風呂になっているようだった。


 申し訳程度に、いくつかのロッカーと洗面所があるだけの、非常に狭いスペースだった。


「雨が降りそうなので、さっさと入りましょう」

 そう言って、彼女は早くも衣服を脱いでいたが、私にはこんな晴れている状況で雨が降るとはとても思えなかった。


 ここの露天風呂自体は、素晴らしかった。というか、初めての体験とも言える風景が広がっていた。


「すごい! 海!」

 私が思わず興奮して叫んでいた。


 たまたまなのか、運がいいのか。

 せいぜい4、5人入ればいっぱいになるだろう、小さな露天風呂が広がるドアの先には、先客が誰もいなかった。


 そして、屋根すらついていない、そこには、隣の男湯と区別するための小さな木の板と、海を見下ろす崖に繋がる、丈の低い木の柵。


 それしかなかった。

 まさに、絶景を見ながら楽しめる露天風呂だけの、贅沢な温泉だった。


「よく知ってたね、こんなすごいところ!」

 私が露天風呂に全身を浸しながら、海を眺めて声を発すると、彼女は事も無げに、その「正体」を明かしてくれるのだった。


「まあ。私じゃなくて、父の受け売りですけどね」

「お父さんは、よく西伊豆に来るの?」


「ええ。父は普段はレースに出てますが、プライベートはゆっくりしたいらしく、よく西伊豆に来ては、温泉に入ったり、釣りをしたりしてるみたいです」

 わかるような気がした。


 特にレーサーなんて職業は、下手をしたら「命に関わる」仕事だ。極限の緊張感をレースで体験している彼らにとって、恐らくは休みの日くらいは、そんなこととはまったく無縁の穴場的な場所でゆっくりしたいと考えるのだろう。


 実際、伊豆半島自体が、首都圏から近いため、土日を中心に、休日は首都圏ナンバーの車やバイクでいっぱいになり、渋滞も発生するが、その大半は人気のある東伊豆が中心になる。


 この西伊豆地域は、どちらかというと「穴場」的な雰囲気が多く、実際に走ってみても、岸壁でのんびりと釣り糸を垂らしているような人が幾人もいた。


 温泉自体は、無色透明、無味無臭の癖のない温泉で、恐らく泉質的には、高アルカリ性の単純泉だろう。

 

 そんなことがわかるくらいには、私も温泉ツーリング同好会で経験値を積んでいた。


 そして、入って5分ほど経った頃。

 空を見上げていた花音ちゃんが、天を指差して、切羽詰まったような声を上げるのだった。


「見て下さい、瑠美先輩」

「えっ」


「あの辺りに黒い雲が発達してます。これは雨が降ります。出ましょう」

「う、うん」


 そこからの彼女の行動は、実に素早く、適切だった。


 まるで、自衛隊の訓練のように、素早く着替え終わると、花音ちゃんは階段を降り、さっさとバイクに戻ってしまい、エンジンをかけていた。


 慌てた私が追っていくと。


―ゴロゴロゴロ!―


 先程まであれだけ晴れ渡っていた、真夏の空が急に騒ぎ出した。

 入道雲から雷雲が発達し、あっという間に、「ゲリラ豪雨」のような大雨に変わっていた。


 その勢いは凄まじく、まさに「滝」のような大粒の雨が地上に降り注ぐ、というより「落ちて」きており、辺りは真っ白に染まっていた。


 さすがにこれには、危機感を感じたのだろう。

 花音ちゃんは、出発してから、すぐ近くにあった、道沿いのコンビニを指差したので、私も頷いた。


 コンビニの駐車場に着くと、二人して、バイクを停めて無言で、カッパを着る。

 コンビニの軒先で降り続く雨を見ながら、私は不思議に思うのだった。


「何で、雨が降るってわかったの? あれだけ晴れていたのに」

 少なくとも西天城高原 牧場の家にいた時には、完全に空は晴れていて、雨が降る気配は微塵もなかった。

 実際に雨が降り出したのは、沢田公園を出た頃だったが、雨雲が顕著に出る前から、彼女は雨の気配を示唆していたからだ。


「積乱雲ですよ」

「積乱雲?」


「一般的には、入道雲とも言いますが。あれが急に発達すると、雨が降るんです」

 彼女の言動は的確だった。


 曰く。西天城高原にいた時には、まだそれほど発達はしていなかったが、積乱雲が発達しそうな気配はあったという。

 それが、沢田公園に来た辺りで、一気に雲が黒くなり、同時に夏の割には急に冷たい風が吹いてきた。

 それらが示すのは、「ゲリラ豪雨」の予兆だという。


「大したものだね。若いのに、よく知ってる」

「若いのにって、瑠美先輩と1つしか違いませんけど」

 そう言って、珍しく彼女は照れたような笑みを見せたが、その笑顔が何だか妙に可愛らしかった。


「でも、詳しいよね」

「まあ、私はよくレースに出てましたからね。路面状況には敏感になるんです。乾いた路面と、濡れた路面ではタイヤのグリップ力にも差が出ますから」

 つまり、これらの経験自体が、バイクレースに裏打ちされたものだったということだ。


 しかも、

「積乱雲が呼んでくる雨は、短時間で収まります。あと30分くらいはここで待ちましょう」

 と彼女が言ったように、コンビニの軒先で待っていると。


 約30分後。

 本当に、いきなり「晴れた」のだった。


 あの強烈な大雨が嘘のように、晴れ渡り、再び真夏の強烈な太陽が顔を出していた。


「じゃあ、行きましょうか」

 事も無げに呟き、濡れたバイクに戻って、タオルで車体を吹く花音ちゃん。


 結局、この日は、この沢田公園露天風呂に行っただけで、後は適当に走って、適当に夕食を食べて、二人で山梨県に帰ったのだが。


 彼女は、天候にまで敏感な、不思議な少女だった。


 彼女と一緒に旅をしていれば、昨今問題になっている「ゲリラ豪雨」にすら予測がついてしまうのだから、ある意味、便利なものだ。


 だが、後から考えると、この「花音ちゃん」が、温泉ツーリング同好会に入ったことで、その後の活動自体が変わるきっかけになるのだった。


 ちなみに、一応、これも「部活動」の一種なので、レポートは私が書く羽目になるのだった。

 花音ちゃんは、元々、「ついで」というか「数合わせ」に入った感じだから、あまり温泉自体に興味を示さない。

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