第4話:分裂


 スワンプマンという思考実験の言葉がある。ある男が道中、ある沼のそばで、雷に打たれて死んでしまう。その時、別の雷が、すぐそばの沼へと落ちた。この落雷が沼と化学反応を引き起こし、死んだ男とそっくりなモノを生み出してしまうという内容である。見た目も中身も、記憶も死んだ男と同じ存在となっているということらしい。

 しかしそれは同一人物と言えるのかな。多くの人は違うと答えると思う。その見分け方はその人を認めるか認めないかだと思う。理由はいくらでも思いつくかもしれないけど、やることは認めるか、認めないか。この部分だと考えているわ。ワタシは……認めないと思う。


 ◆◆◆


「さとりちゃんのことが好きなの」


 あかりの顔はとても赤くなっていた。心臓の鼓動が早くなっていることも分かった。今にも破裂しそうなほどドキドキしていたのだ。

 そんなあかりをさとりはじっと見つめていた。

 さとりは何も言わなかった。何も言えなかったわけではない。ただ黙ってあかりのことを見つめていた。そして少し時間が経った時だった。


「……ごめんなさい」


 そう言って頭を下げた。それが返事であった。

 あかりはその言葉を聞いてショックを受けてしまった。目を大きく開けて口元に手を当てながら涙が出そうになるのを必死に耐えていた。

 さとりは申し訳ない気持ちだった。けれどもお互いにすっきりできた。

 それでいいじゃないかと思っていた。これでよかったんだ。これで……。


「はっ!?」


 さとりは目を覚ます。

 夢、いやなんで? あかりちゃんは確か……。

 忘れていた記憶が蘇ってくる。

 あかりちゃんは、中学生の時に一度ワタシに告白したんだ。でも、ワタシはあかりちゃんのこと、恋愛対象として見ることができなくて、それで……。

 さとりは一度あかりに告白されていた。しかし、その時もさとりはあかりの告白を断っていた。お互い納得して関係を保っていた。

 はずだった。


「なんでもう一度告白したんだろう?」


 さとりは頭をかきむしった。そして大きくため息をつく。


「はぁ。まあいいわ」


 さとりは学校に行く準備を始めた。

 教室に着くとあかりが祥子の席に座っていた。それに机の上に花瓶がまた置かれていた。


「さとりちゃん、おはよう」

「おはよう」


 さとりとあかりは挨拶を交わした。

 すると周りにいた生徒たちがさとり達を引いて見ていた。明らかに避けられているという感じだ。


「ねぇ、酒津さん、大丈夫かな」

「うわ、橘さんまた花瓶を片付けようとしてない?」


 ひそひそと話す声が聞こえてきた。それを聞いたあかりは唇を強く噛んでいた。悔しさからなのか、悲しさからなのか、どちらとも取れる表情をしていた。そんなあかりを見て、さとりは何と言って良いのか分からなくなっていた。気まずいなと思っていると、担任の先生が入ってきた。

 そのまま朝のホームルームが始まるので、あかりは自分の席へと戻る。花瓶がもの寂しげに置かれたままだった。その後の授業中、さとりはずっと考えていた。なぜあかりはあんなことをしたのだろうと。そしてあかりの行動の真意を考えていた。

 答えなんて出てこなかった。

 放課後になった。今日はすぐに帰ることができる。


「さとりちゃん一緒に帰ろ」

「……うん」


 あかりがさとりを笑顔で誘ってくる。告白した後なのにも関わらず、何事もなかったかのように接してくる。そのことに違和感を覚えながらも、断る理由もないので一緒に帰ることにした。

 二人で並んで歩き出す。いつもなら何か話しているはずなのに、今はどちらも喋ろうとしなかった。無言のまま家に向かって歩いていく。

 その間、二人は一度も顔を合わせることはなかった。


「さとりちゃん」


 突然、あかりが立ち止まった。さとりもそれに合わせて立ち止まる。


「どうしたの?」


 あかりの方を見ると、あかりは下を向いていてどんな顔をしてるのか分からなかった。


「あのね……」


 あかりの声はとても弱々しかった。まるで消えてしまいそうなくらいに小さな声で呟いていた。


「……さとりちゃん辛くない?祥子ちゃんがいなくなって、一人になって」

「……」


 さとりは何も言えなかった。あかりが何を言いたいのか、何を思って話しかけてきているのか、分からなかった。

 しかし、さとりはあかりの目を見ることができなかった。あかりの瞳には今にもこぼれ落ちそうになっている涙があったのだ。


「祥子ちゃんは」

「でも、あかりちゃんがいるから平気」

「そうじゃなくて!」


 あかりがさとりの左手を強く握る。さとりの機械の手が熱を帯びる。


「私は! 私が言いたかったことは、さとりちゃんが辛い思いをしていないかってことなのよ」

「ワタシは全然辛くない。むしろ……あかりちゃんがいない方がもっと辛い」

「嘘つかないで!!」


 あかりが大きな声を出す。周りにいた鳥が羽ばたく。


「さとりちゃん、本当はーー」


 あかりがさとりの方を見るとさとりの目の焦点が合っていなかった。


 ◆◆◆


 さとりが目を開けると、祥子とあかりがいた。

 しかし、あかりは体を縛りつけられており、身を動きが取れない状態になっていた。そして、目の前にいるのは、あかりに銃口を向ける祥子だった。


「しょ、祥子ちゃん。なんでこんなことを……」

「決まってるじゃないか。あかりを殺すためだよ」


 祥子はあかりを睨みつける。その目に光はなかった。

 あかりはなんとか逃げ出そうとするが、体が動かなかった。必死に体を動かそうとする。しかし、縄はびくともしない。


「祥子ちゃん、あかりちゃんから離れて……!」


 さとりは動こうとしたがどういうわけか動けなかった。自分の意志に反して体は動いてくれない。

 まるで誰かに操られているみたいだ。

 なんで、なんで動いてくれないの! これじゃああかりちゃんを助けられない。どうしよう。どうしよう!

 その時、あかりと目が合った。


「あかりちゃん!?」


 すると、あかりは微笑んだ。


「大丈夫だから」


 そして、あかりは目を閉じた。


「さようなら」


 祥子が引き金を引いた。弾丸はあかりの頭を撃ち抜いた。

 声はなかった。

 さとりは目を開ける。

 そこには祥子とあかりがいた。しかし、あかりは体を縛りつけられており、身動きが取れなかった。そして、目の前にいるのは、あかりに銃口を向けている祥子だった。


「祥子、ちゃん?」

「あかりが悪いんだよ。さとりと仲良くするからさ」


 祥子の目は虚ろで、あかりを見ていなかった。


「な、んで、どうしてなの……? ねぇ、祥子ちゃん……」


 あかりが震えた声で聞くが、祥子は無視した。そして、ゆっくりとあかりに向けていた拳銃を構える。


「あかりが死ねば、もうさとりは私だけを見ていてくれるよね。だって、私のものだからね」

「やめて、祥子ちゃん!」


 祥子は何も言わずに、あかりに向かって発砲した。弾はあかりの胸を貫く。


「ああぁっ!」


 あかりが苦しそうな声を上げる。そしてそのまま倒れ込んだ。


「あ、あ、あっ、ああああああああ!!!」


 さとりが叫び声を上げた。その目は見開かれていて、涙が流れ出していた。


「さとり」


 祥子が初めてさとりを見た。

「なんで、なんで殺したの!? あかりちゃんは関係ないじゃん!」

「ふーん。ならこれはどう?」

 銃口をさとりに向ける。


「うわぁああ!」


 さとりが叫ぶ。それと同時に、周りの景色が変わっていく。

 空は赤く染まり、辺り一面は火の海に包まれていた。


「祥子ちゃん……?」


 燃え盛る炎の中、祥子は立っていた。さとりは地面に座り込んでいた。


「なんで、こんなことをしたの?」


 さとりは泣きながら言った。


「それはね、私がーーだからさ」

「えっ」


 さとりには祥子が何を言っているのか分からなかった。しかし、そんなことは関係なく、祥子は話を続ける。


「私はさとりの彼女だよね?」

「さとりの彼女はあかりだ」


 二つの声がさとりの耳に左右に鳴り響く。祥子一人の言葉のはずなのに左右で全く違うことを言っている。それがとても気持ち悪かった。


「なんで……なんでなの……!」


 さとりは耳を塞ぐ。しかし、二人の言葉は止まらない。


「さとりは私を選んでくれたじゃないか」

「あかりはさとりの彼女じゃないか」

「嫌だ……聞きたくない……」


 さとりは目を閉じる。何も聞こえないように。


「さとりはあかりを選んだ。私は選ばれなかった」

「私はさとりに選ばれた。あかりは選ばれなかった」

「お願い、黙ってよ!!」


 さとりは大声を出した。しかし、それでも声は止まらなかった。


「でも、仕方ないんだ」

「祥子とあかりでは差があるから」

「私とさとりは愛し合っている。だからーー」

「「死んで」」


 祥子が銃口を再びさとりに向けた。


「やめて……」

「さとりは祥子を好きでいるべきだ」

「あかりはさとりを好きになるべきだった」

「「だから、死ぬといい」」

「いやぁあああ!!!」


 さとりが叫んだ瞬間、視界が真っ暗になった。


 ◆◆◆


「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」


 さとりは息を荒げて、意識を取り戻した。体中汗まみれになっていて、心臓はバクバクと音を立てている。

 あかりは突然過呼吸になりだしたさとりに対して慌てふためいていた。


「さとりちゃん、さとりちゃんどうしたの」

「はぁ、はぁ……なんでも……ない……から」

「大丈夫じゃないでしょ。どうしたの」

「大丈夫、だから」


 さとりは必死に平静を取り繕っていた。


「ほんとに大丈夫だから」

「嘘つかないで。どう見ても大丈夫そうに見えないよ」


 あかりは心配そうな顔をしながらさとりの顔を見る。しかし、さとりはあかりの目を見ようとしなかった。あかりはそんなさとりを見て不安になる。あかりがさとりの左肩に手を当てようとした時、さとりはビクッとしてあかりの手を振り払った。

 あかりはその行動に驚いて目を大きく見開く。そしてすぐに悲しげな表情をした。さとりはあかりに振り払われた自分の手を見ながら呟く。


「ごめん、さとりちゃん……」

「急に触ってきたからびっくりしちゃった」

「そっか……」

「うん……」


 二人は気まずい雰囲気になってしまった。さとりは何か言おうとしているが、上手く口に出せずにいた。すると、あかりの方から話しかけてきた。


「あのさ、今度の休みにデートする話なんだけど、やっぱりやめない?」

「えっ」

「ほら、私が無理に言っちゃったのにさとりちゃんがそれに合わせてたみたいに見えたから……」


 あかりが申し訳なさそうな顔をする。


「そんなことないよ。私はあかりちゃんと一緒に出かけたかっただけだもん」

「ならいいけど……。じゃあ、また連絡するね」

「分かった」

「今日はもう帰ろうか」

「そうだね」


 二人はそのまま帰ることにした。

 帰り道も特に会話はなかった。


「ただいま」


 家に帰ると誰もいなかったので、さとりは自分の部屋に向かう。部屋に着いてドアを開けると、ベッドの上に寝転んだ。

 なんか、疲れたよ……。

 さとりはそのまま目を閉じた。眠気が襲ってきて、ゆっくりと眠りへと誘われていく。

 このまま、ずっと……こうして……たい……な…………。


「……さとり、起きなさい」

「んぅ……?」


 誰かの声で目が覚める。気づけば、翌日の朝になっていたようだ。まだ、頭はぼーっとしていてよく状況が理解できない。


「おはよう、さとり」

「お母さんおはよう……」


 目の前にいるのは母だった。母はいつも通りの優しい笑みを浮かべていた。


「さとり、ご飯できてるわよ」

「すぐ行くね」


 さとりはリビングへと向かう。そこには父がいた。


「さとりおはよう」

「おはようお父さん」

「早く座りなさい」

「はい」


 さとりは椅子に座って、朝食を食べる。父はさとりのことをじっと見つめている。


「さとり、昨日はよく眠れたか」

「うん、ぐっすりだよ」

「それは良かった」


 父が笑顔になる。


「最近、学校には慣れてきたか」

「まあまあかな……」

「そう、困ったことがあったら先生に相談してみるのよ」

「うん」

「友達とは仲良くやってるか」

「うん、あかりちゃんがいるから」


 さとりはあかりの名前を出すと少しだけ嬉しそうな顔になった。あかりのことを考えると心が温かくなって幸せな気持ちになる。

 でも、それと同時に不安になる。

 あかりちゃんは私を本当にワタシのことが好きなのかな? ワタシはあかりちゃんのことが好きだけど、あかりちゃんがワタシのことを好きかどうかは実は分かっていない。

 だって、あかりちゃんが言ってくれた言葉は全て本当なのかわからないから。

 さとりは部屋に戻って着替えをする。

 今日はあかりとのデートの日だ。待ち合わせ場所は駅前である。

 さとりは早めに準備を済ませて、あかりが来るまで待つことにした。

 しばらく待っていると、あかりが来た。

 あかりは白を基調としたワンピースを着ていた。その姿を見てさとりは可愛いと思った。

 さとりは今日の服装についてあかりに尋ねる。


「さとりちゃんも、すごく似合ってるよ」

「ありがとう」


 そう言いながら、あかりはさとりの服を褒めてくれた。

 さとりは照れくさそうに笑う。

 あかりは、さとりの表情を見て微笑む。

 二人は手を繋いで歩き始めた。

 目的地は特に決めていない。二人でブラブラしながら街を見て回っていた。

 すると、あかりが急に立ち止まった。あかりの目線の先にはクレープ屋があった。

 あかりは、そこで立ち止まって何か考え事をしているようであった。

 どうしたんだろう……。あっ、もしかして、食べたかったのかも。

 さとりはそう思い、あかりに声をかけた。あかりはビクッとしてから振り返った。そして、あかりはさとりの顔を見て、何か言おうとしたが、結局何も言わなかった。それから二人は黙ったまま歩いた。

 しばらくして、あかりは口を開いた。


「ねえ、さとりちゃん。どこか行きたいところある?」

「えっ、う~ん……、特にないかな」

「そっか……」


 あかりは再び黙ってしまった。

 あかりちゃん、やっぱり様子がおかしい。

 さとりは心配になってあかりに話しかけようとした時、あかりの方が口を開く。


「さとりちゃん、ちょっと公園に寄らない?」

「うん、いいよ」


 二人は近くの小さな公園に入る。そこは滑り台やブランコなどの遊具があるだけの場所だった。

 あかりはベンチに座ってから、さとりの方を見る。


「さとりちゃん、隣座ってくれない?」

「いいけど……」


 さとりは言われるままに、あかりの隣に腰かける。


「ごめんね、突然こんなところに誘っちゃって」

「大丈夫だよ」


 二人は無言のまま、ただ時間だけが過ぎていく。二人の間に気まずい空気が流れる。

 さとりは沈黙に耐えられず、話を切り出す。

 どうしよう……。このままだと、変な雰囲気になりそうだし……。

 さとりは話題を変えるためにあかりに質問する。


「あかりちゃん、なんでもう一度ワタシに告白したの?」

「それは……」


 あかりは俯いて答えようとしない。


「あかりちゃん、教えてくれないと分からないよ」

「私は……」


 あかりは意を決したように言う。


「私、さとりちゃんのことがやっぱり好きだから」

「……」

「いままでは、さとりちゃんが他の子と一緒にいるのは別によかった。でも、もう嫌なの。私の知らないところでさとりちゃんが不幸になるなんて絶対に許せない」

「……」


 さとりは何も答えることができなかった。


「だから、今度こそ絶対、私がさとりちゃんを幸せにする。誰よりも一番近くでずっと見守ってる。これから先も、いつまでも一緒にいて欲しいよ」


 あかりは真剣な眼差しでさとりを見つめる。

 さとりは思わず視線を逸らす。

 そんなこと言われたら、断れないよ……。


「あかりちゃん、ありがとう」


 さとりはそれだけしか言えない。

 あかりは優しくさとりの手を握る。その手はとても温かかった。さとりは恥ずかしくなって顔を赤らめる。


「さとりちゃん、あのさ……」


 あかりが遠慮がちに尋ねる。


「なに」

「キスしても、いいかな……」

「うん、いいよ」


 あかりは目を閉じてゆっくりと唇を近づけてくる。

 二人の距離はどんどん縮まっていく。そして、ついに二人の距離がゼロになろうとした時、あかりの動きが止まる。


「あかりちゃん、どうしたの?」

「……あなた、本当にさとりちゃんなの?」

「へっ?」


 あかりはそう言って、さとりから離れる。


「どうしたの、あかりちゃん。変だよ」

「……変なのはさとりちゃんだよ」

「何言っているの? ワタシは変じゃないしワタシはワタシだよ」

「違う、さとりちゃんじゃない! あなたは何者なの!?」


 あかりは大声で叫ぶ。


「ワタシはさとりだよ」

「嘘だ!! さとりちゃんは、最初私が好きだと言われても祥子ちゃんのことを忘れていなかった。それなのに、最近のさとりちゃんは祥子ちゃんを忘れちゃってる。そんなの変だよ。祥子ちゃんのこと忘れてるさとりちゃんなんて変だよ……」


 あかりが涙声で必死に訴える。それとは対照的にさとりはきょとんとしていた。あかりはさとりの反応を見て、怒りで肩が震えているようだった。あかりはキッと睨みつける。さとりは不思議そうな顔であかりを見る。


「あかりちゃんどうしたの? ワタシは何も変わってなんかないよ。あかりちゃんこそ変だよ」


 あかりは首を横に振る。さとりは困ったような表情を浮かべた。

 あかりちゃん、どうしてこんなこと言い出したんだろう……。

 その時、さとりはあることに気付く。

 もしかしたら……、あかりちゃん、祥子ちゃんのこと、嫌いなのかなぁ。……あれ、なんで祥子ちゃんのことととととと。

 さとりの思考が急に回らなくなっていた。頭がボーッとして何も考えられなくなる。

 あかりがさとりに近づいてくる。

 あかりちゃん、どうしたのかな。………………。

 あかりはさとりを見つめているばかりで動こうとはしなかった。さとりはただじっとしているしかなかった。

 あかりちゃんの顔、なんだか怖いな……。

 さとりはそう思いながら、ただ黙ってあかりのことを見つめていた。

 意識が朦朧としながら。


 ◆◆◆

 空は黒く曇天に覆われている。雲の隙間からは太陽の姿が見え隠れしている。まるで、この世界には光など存在しないとでもいうかのように。

 その暗闇の中を、一つの人影が歩いていた。その人物は白いワンピースを着ていて、頭から足まで全身真っ白である。

 彼女は自分の名前しか思い出せなかった。自分が何者かも分からなかった。

 ただ一つだけ覚えていることは、自分は誰かを愛していたということだ。

 愛していた人は、明かりに灯されている。天使の純白の翼を授かりながら光に照らされている。それはまるで絵画のような美しさで、とても眩しかった。

 彼女は、愛されていた。

 彼女の周りには、たくさんの人が溢れていて、みんな楽しそうにしている。彼女の周りにいる人たちは皆笑顔で、誰もが幸せそうであった。そんな中、一人の少女がこちらに向かって駆け寄ってくる。その女の子は、彼女の親友であり、大切な人だった。

 少女はその女性の名前を呼んだ。


 ―――さとりちゃん。


 もう一人の少女は嬉しそうに微笑む。

 そして、優しく語りかける。


 ―――久しぶりね、あかりちゃん。


 二人は笑い合い、お互いに抱きしめ合う。お互いの存在を確かめあうように強く抱き締め合っていた。

 あかりと呼ばれた少女がゆっくりと離れていく。その顔はとても満足げで、幸福感に満たされた顔をしていた。

 それから、少し恥ずかしそうな様子を見せる。

 あかりはさとりを見つめて言う。


「さとりちゃん、また会えて嬉しいよ」

「ワタシもあかりちゃんに会えてすごく嬉しい!」


 さとりは満面の笑みで答える。それを見たあかりはクスリと笑う。


「ふーん。そっか。じゃあ、私達親友だよね?」

「うん! もちろんだよ!!」


 あかりはさとりの言葉を聞いて目を丸くする。そしてすぐに口元が緩んでいく。


「えへへ、ありがとう。さとりちゃん」

「どうしたの、あかりちゃん?」

「ううん、なんでもないよ。気にしないで」

「そう? ならいいけど」


 さとりとあかりは手を繋いで歩き出す。そして、二人仲良くお喋りをしながら道を歩く。


「ねぇ、さとりちゃん。私たちってどんな関係だと思う?」

「そうだなぁ……。あかりちゃんはワタシの親友だよ」

「そうじゃなくてさ、私とさとりちゃんの関係だよ」

「ワタシとあかりちゃんの関係? ……どういう意味だろう。よく分からないや……」


 あかりは困ったような表情を浮かべる。


「まあいいや。いつか分かる時が来ると思うから……」

 あかりはそう言って、さとりの手を強く握る。さとりも握り返す。二人は寄り添いながら、前へと進んでいく。

 やがて、二人の目の前に大きな建物が現れる。

 その建物は、巨大なドーム状で、壁には様々な広告が張り巡らされていて、建物の周囲には無数の屋台が並んでいる。あかりはさとりの方を見る。さとりは不思議そうな顔を浮かべている。

 ここは一体どこなんだろう……。

 さとりは周りを見渡してみる。だが、さとりの記憶にある光景はなかった。あかりはさとりの様子を見て、首を傾げる。

 あかりちゃんはここに来たことがあるのかな……。

 さとりはそう思って、あかりに話しかけようとする。

 その時、あかりが何かを見つけたのか、そちらの方に走って行ってしまう。さとりも慌てて追いかける。


「あかりちゃん待って……!」


 あかりはどんどん先に進んで行く。さとりはあかりに追いつこうと必死に走る。

 あかりちゃん……。さとりはそう思いながら、あかりを追いかけていた。

 あかりは立ち止まって後ろを振り返る。そこには息を切らしながら走ってくるさとりの姿があった。

 あかりはさとりが追いついたことを確認すると、再び走り出した。

 あかりちゃん……。いったいどこに行こうとしてるんだろう。

 さとりの疑問は尽きなかった。

 しばらくすると、あかりが立ち止まる。そこは大きな広場だった。

 その中央には、巨大な噴水があって水が吹き出している。その水は虹色に輝いていた。

 あかりはじっとその景色を眺めていた。さとりも一緒になってその美しい風景を見ていた。

 綺麗な場所……。

 さとりは素直にそう思った。

 こんな素敵な場所に来れて良かった、とも思っていた。しばらくしてから、あかりはこちらを振り向く。


「ねえ、さとりちゃん。この場所知ってる?」

「ううん、全然。でも、すごく不思議な感じがする。何だか懐かしくて、落ち着くっていうかさ。それに、なんだか胸が熱くなる気がする」

「私も同じ気持ちだよ。ここに来たらドキドキしてきた」

「どうして?」

「分かんない。だけど嬉しくなってきた」

「ねぇあかりちゃん……」


 あかりちゃんは何でここに来たかったんだろう。やっぱり思い出の場所なのかな。だとしたら、この記憶は一体誰のものなんだろう。ワタシは本当に……。

 さとりはそこで考えることを止めた。これ以上考えたところで何も変わらないと思ったからだ。

 今は、あかりちゃんと一緒にいるだけでいい。あかりちゃんさえいれば、他には何もいらない。

 さとりがそんなことを考えているうちに、いつの間にかあかりはどこかに行ってしまったようだった。あかりちゃんがいない。どうしよう。早く見つけないと。

 さとりは急いで辺りを探し始める。しかし、いくら探しても見つからない。

 もう帰っちゃったのかな……。

 さとりは不安になりながらも諦めずに探し続けることにした。あかりを見つければきっと大丈夫だ。

 だって、ワタシたちは親友だから……。

 さとりは自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。そして、また歩き出す。

 あかりちゃん、どこに行ったの。

 さとりは心配で仕方がなかった。そして、とうとうあかりを見つけることが出来なかった。

 どうしよう……。あかりちゃんとはぐれちゃったよ……。ワタシ、どうすればいいんだろう。

 さとりはその場に座り込んでしまう。そして、泣き出してしまう。

 あかりちゃんに会いたいよ……。あかりちゃん……。

 その時、誰かの声が聞こえてくる。それは聞き覚えのある声だった。

「私はここにいるよ、さとりちゃん」その言葉を聞いた瞬間、さとりの目から涙が流れ落ちる。そして、すぐに顔を上げる。そこに立っていたのは、あかりだった。


「やっと会えたね」


 そう言って、あかりは微笑む。


「あかりちゃん……!ワタシ……」

「よしよし、泣かないで……」


 あかりはそう言って、さとりの頭を撫でる。


「うわぁーん!」


 泣きじゃくるさとりをあかりは優しく抱きしめた。しばらくすると、落ち着いたのか、あかりから離れ、「ごめんなさい……」と謝った。


「いいんだよ、そんなこと気にしないで」

「うん……」

「それで、どうしたの?」

「えっと……実はね、ワタシ、あかりちゃんのこと好きなの」

「そっか」

「でもさ、今のままだとダメだよね……」

「なんで? だってさとりちゃん、私のことが好きなんでしょ?」

「そうだけど、今は違うかもしれないじゃん……。それに、もし付き合ったとしてもあかりちゃんが幸せになれないと思うし……」


 さとりの言葉を聞いて、あかりは少し考える。しかし、あかりが何かを言う前に、空間にヒビ割れが起きた。そこから現れたのは、なんとあかりだった。あかりがもう一人出てきたのだ。突然の出来事にさとりとあかりは驚きを隠せない。


「どういう……こと?」


 もう一人のあかりが不安そうに告げる。


「さとりちゃん、もう帰ろ。ここは危ないよ」

「でも私にはあかりちゃんが」

「わなわねらさあはら」

「あかりちゃん?」


 さとりがそばにいるあかりを見るとおかしなことが起きていた。まるで映像が乱れたかのように崩れており、体の状態が保てなくなっていた。その姿を見たさとりはすぐに駆け寄る。

 すると、もう一人あかりも近づいてきた。二人のあかりがいる。

 こんなことありえないのだ。ありえないことがさとりの目の前で起きている。あかりの顔からは生気を感じられない表情をしていた。目も光を失っていた。まるで死んでしまったような感覚に襲われる。

 いったいこれは何なの? 何が起こってるの。

 さとりはもう一人のあかりを見ようとした瞬間、光に包まれる。光に包まれたさとりは眩しさに負けずに薄く目を開ける。

 さとりが見たものは人のような何かだった。

 輪郭がぼやけたそれはさとりを見ていたかもしれない。

 さとりには光と共に消えていくことしか分からなかった。

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