【短編】なれ果てと臥薪嘗胆【読み切り】

猫海士ゲル

ある日のこと……

「いつまで会社の世話になる気でいるのか」

 その男は──ダークスーツに臙脂の蝶ネクタイをした初老が僕の耳元に呟いた。もう「うんざりだ」という顔が露骨だ。けれど視線だけは鋭かった。それは非難の目だ。

 そうだった。僕はあの日、彼と約束した。

 あれはまだ文学青年を気取っていた若輩の頃。幼なじみに誘われ入部した柔道部。初日に先輩から綺麗な背負い投げをくらって決意した。

「僕は文学で食べていくんだ」

 幼なじみとは、その日以来挨拶だけの関係になった。友達という存在を作らず、ただ孤高に刻を過ごした。図書館で小説を貪り、小遣いは原稿用紙と出版社への輸送代に使い込んだ。新人賞へ軒並み送り、2作品だけ最終選考に残った。未成年者ということが引っかかったのか──後でわかったが編集部からの確認の電話を母が断っていた。

「そういう遊びは大学へ行ってからにしなさい」

 子供の夢を蝕むことが生きがいの大人は実在する。それが自分の両親だったら最悪だ。ぼくは、そんな最悪の両親に育てられた。自分たちが望む将来の夢を子供の夢に上書きし、強制した。

 結局、大学へ行ってからも母が僕の夢に理解を示すことなく──否、そもそも歓迎されないのなら、それはそれで良かったはずだ。親を否定するなど造作もないはずだった。

 それなのに僕は親が気に入る会社に就職し、夢を忘れて奔走した。やがて先輩と呼ばれるようになり、気づけば係長として上司から責任を押しつけられる立場になっていた。

「俺との約束はどうなった」

 再び、初老の男が言った。僕は自身の生活環境に順応し、会社人間として仕事のことだけを考え、月々の給料収入だけを頼りに生きていた。


「おい、おまえまた報告書の計算間違えてるぞッ!」

 課長が皆の前で僕を叱る。新人が作成した報告書のチェックは僕の役目だ。でも間違えたのは僕じゃない──そう言ったら、

「言い訳すんな、おまえのミスで大切な新人が恥をかいたじゃないか!」

 言われた新人は申し訳なさそうに机に顔を沈めている。そう、ぼくのミスだ。僕がちゃんとチェックしていないからだ。

「……済みませんでした」

「俺にじゃないよ、新人に頭をさげて謝れよ」

「えっ、」

「おいおい、まさか係長としてのプライドが許しませんか。でもな、自分のミスで部下に迷惑をかけたんだ、そうだよね。だったら謝れ。そういうの出来ないヤツはダメ上司って言うんだよ」

「……あんたも十分ダメ上司じゃ」

「あ、何だって?」

「いえ、僕のミスです。彼に土下座します」

「……お、おう。やれ」


「おまえ、なんでそんな連中と仕事してるんだ?」

 初老の男は言った。

「プライド捨てて、夢も捨てて、ただ流れに任せて生きていれば飯が食えるから」

 そう答えてから、ハッとした。自分の言葉なのか、これは。僕はこんなことを考えていたのか。

「そうか、それが本音か」

 初老の男は悲しそうな顔をした。僕は日々を──世の中に流されていくだけの日々を生きている。そうすれば飯は食える。でも、


 吐き気がした。

 事務所を飛び出しトイレに飛び込む。流し台に垂れ流したのは虚無だった。僕は躰の中身まで空っぽだった。

「係長」

 新人が追いかけて来ていた。

「ああ、すまない。本当に……」

「何をおっしゃるんですか、ミスしたのはぼくです。本当にもぉ、自分が情けないです」

「いや、いい。自分を責めるな。苦しくなるぞ」

 新人はしばし沈黙し、視線を外し、再び戻したときは決意の瞳をしていた。

「係長はこの会社で唯一、ぼくが尊敬する大人です」

「……やめろよ、そんなんじゃないよ」

「いえ、だから係長にだけは報告させてください」

「……」

「ぼく、作家になるんです」

「……ん?」

「電影大賞ってご存じですか。ラノベ作家の登竜門っていわれている新人賞なんですけど、それに受かりました。編集部の人からは、アニメ化も視野に入れて今後の話がしたいって……あ、それで東京に移り住むので、この会社は辞めます。お世話になりました」

「……は?」


 虚無なる日々が続いていた。

 ただ会社にしがみつき、仕事のことだけを考え、月給だけを頼りに人生設計をたてる。そんな人間に、僕は成り果てていた。

 初老の男は背中を見せていた。もはや、僕には興味が無いと言わんばかりに。

「もう一度……」

 僕は初老の男に声をかけた。彼は振り向かない。代わりに一歩ずつ離れていく。

「もう少しだけ……」

 もはやこの年齢で夢を追いかけるなんてリスクでしかない。向かう先に待つのは地獄かもしれない。日々を怠惰に流れるだけの人生を捨てて見えない闇へと歩むのは博打でしかない。

「でも、それでも僕は……」

 初老の男が立ち止まった。けれど、振り向いてはくれない。何も語ってもくれない。

「いいさ、それで。だから僕のこれからを見ていてくれ」

 僅かばかりの暖かい風が吹き抜けていった。

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