三、乾村の姫(五)

 雨の帰り道は気も軽く、笠と蓑も喜んで濡れる。木々は久方振りの雨に葉を揺らし、魚は増水していく川で元気に泳ぐ。来る時に見かけた大山椒魚も、この雨を喜んでくれるだろうか。

「もう、久し振りの仕事で怒っちゃったわ」

 雨の中山を降りつつ、宝劉がぼやく。

「お疲れ様でございました」

 彩香はそう言って主人をねぎらう。

「雨でお身体が冷えます。村に帰ったら、村長の奥様に茶を煎れてもらいましょう」

 舜䋝も宝劉の身体を心配する。

 雨が降った事に安堵しつつ、三人は風邪をひかないか不安になりながら、また山道を歩いていく。

「それにしても、帰りの事をあまり考えてなかったわ……」

「左様でございますね……」

「今晩、どうしましょうか……」

 笠と蓑は持ってきていたが、竜神の滝までこんなに遠いと思っていなかった。雨の中の野宿は危ないが、山道を歩いて戻る以外に、村へ帰る方法はない。

「雨が止むまで、竜神様の所に居候させてもらえば良かったわ」

「私たちの帰りが遅くなると、村の方々が心配しますわ」

「彩香さんのおっしゃる通りです。宝劉様のご判断は正しかったかと」

 二人は、当たり前のように宝劉を肯定する。自分の決定に自信が持てない場面では、家臣たちの賛成は有難かった。

「岩陰とかが見つかれば、都合が良いのだけど」

「探せば、きっとございますわ」

「そうね」

 そんな話をしながら歩を進める。

 雨の山道はぬかるみ、足元は決して良いとは言えない。雨具を身に着けているとはいえ、春の冷たい雨は体温を少しずつ奪っていく。

 やはりもう少し、帰りの事を考えるべきだったのではないか。自分が何も考えず帰途についたせいで、こうして二人を雨に濡らしてしまっている。

 陽が傾き薄暗くなっていく中、宝劉の思考も暗くなっていく。

 今晩寝床が見つからなかったらどうしよう。もし二人が風邪をひいたら、自分のせいだ。そうなったら、この先城に帰るにも困る。やはりこれからでも、安全な竜神の棲み処に戻った方が良いのでは……。

 宝劉が悩んでいると、先頭を行く舜䋝の足が止まった。

「舜䋝?」

「宝劉様、あそこなんていかがでしょう?」

 彼が指さす先には、大岩が立っている。斜めに突き出た部分の下は、どうやら濡れていないようだ。

「あら、ちょうどいい所にありますわね」

「ちょっと僕、様子を見てきます」

 連れの二人に暗い様子が無いのを見て、宝劉は少し安心した。

「大丈夫そうです」

 舜䋝が戻って来る。

「三人で夜を越すには、いい感じですよ」

「ありがとう」

 家臣たちが明るくしているなら、自分だけ落ち込んでも仕方がない。宝劉は、二人の姿勢に救われた気がした。

「そうしたら、今晩の宿はここにしましょうか」

「御意」

「そうですね」

 岩の下で笠と蓑を脱ぎ、苦労しながらも何とか無事に火を起こす。

「暖まるわねぇ」

「ええ」

「やっぱり、火って便利ですね」

 三人で焚火に手をかざし、ほっと一息ついて笑い合う。

「今晩は、私が火の番をいたします」

 彩香が言った。

「そう? じゃあ任せるわ」

「はい」

 そういう話になったので、辺りが暗くなった頃、宝劉と舜䋝は蓑を敷いて横になった。

「おやすみなさい」

「火の番、よろしくお願いします」

「ええ。お任せくださいませ」

 こうして、夜になった。

 そして明け方、舜䋝は寝返りを打って目を覚ました。

「あら、目が覚めてしまわれましたか」

 彩香がすぐに気付く。

 舜䋝は起き上がり、大きく伸びをした。

「まだ早いですわ。もう少しお眠りになってはいかがでしょう」

「いえ、大丈夫です」

 岩の向こうでは、まだ雨が降っている。

「さすが竜神様の雨ですね。何だか優しい気がします」

「そうですわね」

 舜䋝の言葉に、彩香は微笑む。

「無事に雨が降って、良うございました」

「はい、本当に」

 二人でしばらく、朝日の前の雨林を眺める。

「実は、彩香さんにお伝えしておきたい事があります」

「何でしょう?」

 舜䋝は数秒黙った後、口を開いた。

「どうやらまた、誠家が何か企んでいるようなんです」

 その言葉に、彩香は顔を曇らせる。

「䋝家の僕が、宝劉様をお迎えにあがったのも、誠家を少しでも遠ざけるためです」

「左様でございますか……」

 一度城から出た宝劉が戻るとなると、何か動きがあるだろうとは思っていたが。

「承知いたしました。心に留めておきますわ」

「お願いします」

 話が一段落し、彩香はふふ、と笑う。

「それにしても、まだ殿下を名前で呼んでくださるのですね」

「え? あ、ええ、そうですね……」

 舜䋝は慌てる。

「やはり、不敬と言われるでしょうか……」

「人によるかもしれませんわね」

 彩香は優しく言う。

「でも殿下には、あなたのような存在が、必要ではないかと思うのです」

「そうですか?」

「ええ。殿下は、王女という立場上、どうしても気を張り詰めてしまわれます。あなたのように、気さくに話せる相手が居るのは、大切な事ですわ」

「彩香さんがそう言ってくださるなら、良かったです」

 雨が七色に輝きだし、深い山に朝日が昇る。

「さて、そろそろ殿下にお目覚めいただきましょうか」

「はい。今日中には、村まで帰りたいですからね」

 彩香が宝劉に声をかける。

「殿下、お目覚めのお時間でございます」

「ん……んう……」

 しばらくもぞもぞ動き、宝劉は目を覚ました。

「あら、舜䋝ももう起きてたのね」

「はい。おはようございます、宝劉様」

「おはようございます」

「うん。おはよう、二人とも」

 宝劉は岩の外を見て、苦笑する。

「やっぱりまだ、降ってるわね」

「ええ。竜神様のおっしゃった通り、五日は降るのでしょうね」

「村にとっては恵みの雨です。仕方ありませんね」

 三人そろって苦笑いし、身支度を整える。火を消して、忘れ物が無いか確認すると、荷物を背負った。

「よし、村へ戻るわよ」

「御意」

「はい」

 竜神の雨は降り続く。三人はぬかるんだ山道を、また慎重に村へと帰るのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る