その意志は是か非か アルテミスの涙 下村敦史 小学館

江花病院に長期入院している、交通事故によって閉じ込め症候群(ロックドインシンドローム)になった女性患者・岸部愛華に、深夜、嘔吐と出血が見られ、それを当直中の産婦人科医・水瀬真理亜が診察するところから物語は始まる。

真理亜の診察により愛華は妊娠していることが判明する。事故で運ばれてきた時、愛華は妊娠していなかった。寝たきりの愛華を何者かが妊娠させたことになる。それも人目のある病院内で。愛華は誰に妊娠させられたのか? 病院は騒然となり、政治家である愛華の父は激怒し、病院を糾弾する。やがてこの前代未聞の事件はマスコミに報道されて世間の知るところとなり、病院への風当たりはますます強くなっていく。

そんな中、真理亜は映画にもなった海外の事例を参考に、愛華とまばたきによってコミュニケーションをとることに成功する。それを知った愛華の両親は、愛華から何も聞き出せない真理亜に焦れ、知り合いの精神科医に頼み催眠療法を使った愛華への聴取を行う。そこで愛華の担当医であった高森医師が彼女を妊娠させたということが明らかになる。

そして高森医師は暴行犯として糾弾されるが、「これは愛です」とただ一言口にしただけで黙秘し続ける。愛華の両親は愛華を転院させ中絶させると言い出すが、高森の様子と愛華の反応から、まだ事情があるのではと感じた真理亜は、転院までのわずかな間に周囲の制止と愛華の両親の拒絶を振り切って、愛華とのコミュニケーションを続ける。

子供を産みたいという愛華。そして明らかになる愛華の妊娠の真相は……。


これまでにない設定の医療ミステリー。

だがこの物語の本質は犯人探しではなく命と権利の問題だ。

きっかけとなった愛華の事故の真相、秘められていたもう1人の事故の関係者。これらが明らかになる時、読むものは1つの問いを投げかけられる。

閉じ込め症候群(ロックドインシンドローム)とはどのようなものか。


脳底動脈閉塞による脳梗塞などで、主に脳幹の橋腹側部が広範囲に障害されることによっておこる。眼球運動とまばたき以外のすべての随意運動が障害されるが、感覚は正常で意識は清明である。単に意思表示の方法が欠如した状態であり、ほとんど完全に「鍵をかけられた状態」であることからこの命名がされている。(Wikipediaより参照)


完全な四肢麻痺の状態に陥るが、意識や知能に障害はない状態、というからには、本人に判断能力がある、ということなのだ。

そして強い意志を持って愛華は子供を産みたいと真理亜に訴える。


たすけてください


と。


愛華との対話から真理亜は愛華と両親の関係を知り、その家庭環境がいかに愛華にとって過酷だったかを知る。

そのことから愛華の意志を尊重したいと思うようになるが、しかし愛華に子育てをする能力はないのだ。残念ながら。

祖父母は味方だから、祖父母に託したいと愛華は言うが、そもそも彼女が出産に耐えられるかどうかすら賭けであるこの状況において、真理亜は医師としてどう判断するのか。

読み手は真理亜と共に逡巡することになる。


判断能力は一切失われていない状態なのだから、本人の意志は尊重されるべきだと思う。しかし産まれてくる子にとってその状況は幸せと言えるだろうか。愛華の祖父母がいつまで面倒をみられるか。彼らが今よりも老いて子育てが不可能になった時、その子には曽祖父母と寝たきりの母親がのしかかる事になりはしないか。産みたいというのは愛華のエゴではないか。

残酷ではあるが、そうしたことを考えずにはいられない。

一方で「わたしのこころはしにました」と語る愛華のことを思えば、彼女のお腹にあるのは唯一の希望であり、それを奪うことなど誰にもできないとも思う。

愛華のケースは極端なように見えるが、実際障害者の結婚と出産、子育ての困難さの問題は議論のあるところだ。ヤングケアラーを産む可能性があり問題視される向きもあるが、結婚や出産を他人が制限する権利はないし、非難されることでは決してない。

私自身もこうした問題に明確な見解があるわけではない。社会的に支援すべきことであるし、支援の手があり本人たちが望むなら尊重されるべきだと思う。

けれど現実に直面した時に、思ったより大変だからやめた、とはできないのが子育てだ。親と子、どちらの人生もかけがえのないものであるからこそ、こうした問題に私は答えを出せない。

愛華と祖父母、そして医師たちの選択が正しいのかどうかわからない。

けれど、わからない、で思考停止していい問題でもない。

命と権利。

そのことに対しての非常に厳しい問いを投げかけられる作品だった。


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