第8話 一歩前に進みませんか?

あの雨の後の虹を見つけて以来、天気が悪くても散歩に出かける癖がついた。


通り雨の時はとくに、早智は雲切れ間を探して空ばかり見上げている。


湿った空気の中、このあいだまで雨が嫌いだった彼女が笑顔のままでずんずん進んでいく姿はなかなかに頼もしい。


運よく虹が出て来た今日みたいな日はとくに早智は上機嫌になる。


カメラ一個でこんだけ機嫌よくなれるんも才能ちゃうか?


半ば呆れつつも、その様子が余りにも楽しそうなので黙って観察する事にする。


時には足元への注意を促して、時には背後から来る自転車から庇って。


彼女の行く先に晴れ間が訪れるようにと祈りながら。




「虹って綺麗に映るんかなあ?」


ピントを合わせながら問われた。


「どーやろな。所詮は素人の仕事やからなぁ」


「うーん・・・どうも・・・・・アングルが・・」


カメラを縦に構えてシャッターを切ると、すぐに画像を確認する。


「見てみて・・・」


「この樹ぃ邪魔やな」


目の前の枝が画面に掛かって虹が途切れてしまっている。


歩道沿いに植えられた樹木たちは真夏はちょうどよい日差し避けになるのだが今はただの大きな障害物に成り果てている。


「どないする?いっぺん海岸降りるか?」


「そーやねー・・・」


砂浜まで出たら虹も綺麗に映るだろう。


早智が考えたのはほんの数瞬ですぐに目的地を変更した。


早速石段を越えて、海岸へと続く所々欠けたり削れたりしている古いコンクリートの階段に足をかける。


その昔海水浴場の看板を上げて漁師町の活性化を図ることになった際に綺麗に整えられた海岸ぞ織りと砂浜は、この10年ほどですっかり昔の静けさを取り戻していた。


地元住民としては、このいかにも田舎っぽいガラガラの海のほうに親しみを感じる。


と早智から急にストップがかかった。


「待って、やっぱりあの上で撮るわ!」


指差された先には、車道沿いに高くそびえる防波堤があった。


視界を邪魔するものも無く綺麗な写真が取れること間違い無しの絶景スポットである。


「おーええやん。落ちんなよ」


「芸術的な写真撮れること間違いなしやねー。あ、帰ったらさっき店でマスターと撮ったんもプリントアウトしとくし」


「絶対忘れるに一票」


言ったらジト目で睨まれた。


ちょっと休憩また後で、で課題を忘れる事が多かった高校時代を思い出して突っ込めば、早智がすかさず眦を吊り上げた。


「なんでや!忘れん!」


フェンスを登る要領で、先にの防波堤によじ登っていく。


早智が自分の身長より高い防波堤を僅かな足場だけで上り切るのはまず無理なので、先に上ってから右足をかけた彼女の腕を引いて引っ張り上げた。


太陽光で渇いた防波堤は濡れてこそいなかったけれど、さっきの雨のせいでジトッとした感触がする。


ぶら下がっているカメラが揺れてレンズの光が反射した。


無事に辿り着いた防波堤の上を少し歩いて、海岸の端まで行くと早智がカメラを構えた。


「早よ撮らな消えんで」


虹は年中無休ではないので、見つけた瞬間にカメラに収めなければならない。


「焦らさんでよ」


急かされた早智が真剣な顔でシャッターを切る。


手持ち無沙汰になってポケットを探って気づいた。


あ、煙草切れてんたんや。


本数を減らし始めて、最近じゃ滅多なことが無いと吸わなくなった彼女の前で煙草を吸うのはちょっと気が引けた。


常にカバンとスーツのポケットに煙草とライターが入っている杉浦に減塩はなかなか難しい。


口寂しい気もするが、目の前にそれよりも気になる相手がいるので、煙草を恋しいとまでは思わない。


こういう変化を繰り返して、気持ちは育って行くんだろう。


「おおっ。ええ感じ」


早智が液晶画面を見て満足げに頷く。


横から覗き込むと、鮮やかな虹が映し出されていた。


「ほんまやな。やるな、カメラマン」


「まーこんなもんよ。やるやろー・・・虹って幸せの象徴なんやろ?」


思い出したように早智がそんなことを言った。


「え、そーなん?」


初耳である。


「なんかの本で読んだ。虹の根っこには宝ものが埋まってんねんて。それを見つけたら幸せになれるんやって。けどな、虹ってすぐに消えてまうやろ?やから絶対見つけられへんねんて」


「ふーん・・・幸せは探さなしゃーないゆう教訓みたいな話やなぁ」


杉浦の言葉に彼女が驚いたように目を丸くした。


「え、これってそーゆー話なん?」


「そーやろ?虹が消えてもたら、次に虹を見た時こそって思うやん?そうやって希望を持って探し続けろゆーことちゃうん?死ぬまで探しとったら、どんな奴でも1回くらい幸せやと思えるときはあるやろーからなぁ」


物凄い持論を適当に口にしたのだが、思いのほか早智には刺さったらしい。


「そーかー・・・」


柔らかく微笑んだ彼女がしゃがみ込み、膝を抱えて言った。


「なんか、ほんまに杉やんにはまだまだ適いませんわー。そーゆー考え方ええね。絶対幸せになれるもんねぇ。探すだけで終らんところがええわ」


感心したように何度も頷かれて、胸を張りたいようなくすぐったいような何とも言えない気持ちになる。


たぶん、いま自分はここ最近で一番くらい誇らしいのだ。


携わっていた仕事で成果を上げられた時よりも、上司からよくやったと労われた時よりも、ずっとずっと誇らしい。


早智が零したたった一言のおかげで。


彼女のその先の答えを待つことなく、勝手に気持ちは育って行く。


多分、もう簡単には手放せない。


「ちいさいことでも、 嬉しいって思えたらそれはもう最高の幸せやもんなー・・・」


噛み締めるように呟いて笑った彼女から、慌てて視線を逸らした。


とても直視出来なかった。


「・・・そーやなー」


「考えてみたら、このタイミングで虹を見れたことも幸せの一個やねん。うちらが散歩に行くんがもっと早かっても遅かっても、虹は見れてへんもん。後はこの写真が綺麗に出来て来る事だけやなー」


嬉しそうに言ってカメラを握ると彼女は立ち上がった。


「帰ろっか?」


「おー」


返事をして、塀の上から飛び降りる。


振り返ると彼女が塀の上から手を差し出した。


「手ぇ貸して」


「ん」


掴もうとした手のひらの代わりに硬質の感触が降ってくる。


カメラやん。


受け取ったそれをパーカーのポケットに放り込んで、今度こそ彼女の腕を掴む。


防波堤に手を付いてピョンと飛び降りた彼女が笑う。


「おおきに」


「どーいたしまして」


掴んだままの彼女の手に、カメラを渡そうとして思いとどまった。


手首に触れていた手をそのまま滑らせて指先を握る。


早智が表情でどうしたん?と尋ねてきた。


悩む暇も無く言葉が出てきた。


「俺は一緒に散歩に出たんがお前でよかったって思ってる」


「うん。うちも、うちも」


握手と勘違いして握ったままの手をブンブン振って笑う早智の表情に迷いはない。


こうなることは予想済みや。


二人の間にある確実な温度差は、誰よりも杉浦自身が理解している。


このままにしたらどーゆー反応するんやろ。


一向に手を離そうとしない杉浦にさすがに何か思うところがあったようで、彼女が顔から笑みを消して、伺うような表情で見上げてきた。


「・・・?」


いつもふさぎ込んだ彼女に尋ねるのはこっちのほうなのに。


「なあ」


「うん?」


これもいつもと逆である。


重たい口調で口を開く彼女に何回も同じ返事をしてきた。


「俺が指輪買うたら、付けてくれるん?」


笑い飛ばすか、それとも・・・


「・・・」


数瞬の後で言葉の意味を理解した彼女が目を泳がせた。


耳まで真っ赤に染めて、恐る恐ると言った感じで杉浦の目を覗き込む。


「お・・・お揃いのんしてくれんの?」


そんな答えを想像していなかった杉浦はすっかり素に戻ってしまった。


「俺、指輪嫌いやん」


あ・・・しまった。


「ほんならせえへん」


ジト目で睨まれて思わずたじろぐ。


「・・・お前だけ付けたらええやん」


慌てて取り繕うも早智はすっかり機嫌を損ねたらしくスタスタと歩き出してしまった。


「待てって」


「待たへん」


足早に彼女の隣に並ぶと強引にその手を握る。


振りほどけないくらい強く。


「そのうち買いに行こな」


杉浦の言葉に唇を尖らせつつも、ちゃんと頷いてくれた彼女をやっぱり好きだと思った。


日曜日の昼下がり。

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