19,信仰者の箱庭
未知の世界で、未知の経験をしようとしているのに、不可解なほど恐怖はなかった。
ほんの僅かにでも張り詰めているものはある。しかし俺はほぼリラックスしていて、心身が緊張に縛られ固くなってはいない。そしてそれは、異界の中でも変わらなかった。
「こいつは……」
「あー……ね。そういう系かぁ」
異界の中は外界と変わらず秋葉原だ。だが空気そのものがガスで染められたかのように黒くなり、明白に澱んでいる。人の姿も見当たらない無人の空間であり、遠方には天まで届く漆黒の壁が屹立していた。あたかもその先に、地続きの世界はないかのように。
呼吸するだけで気分が悪くなりそうだ。視覚化された『不気味』と肌を覆う『不快』の隔壁内部。迂遠な言い回しになるが、敢えて言語として例えるならそうなるだろう。
俺は目算で漆黒の巨壁までの距離を測り、刀娘に訊ねた。
「刀娘、あの壁みたいなのは?」
「遠くの奴? あれは世界の果てですよ。あそこから先には行けませーん、異界の範囲はここまでですよってのが目に見える感じですねぇ。補足すると異界の強度次第でもっと範囲が広がって、最悪東京全体まで広がる可能性はありますよ。そしてこのタコが海中でタコ墨を吐いたみたいな空気、これが濃くなればなるほど異界の成長限界が迫ってるっていう目安になります」
「何も見えないぐらい真っ暗になったら?」
「破裂まで秒読みですよってこと。外と異界の境目が崩れて大惨事コース。普通に首都崩壊まっしぐらなんで割と洒落になりませんね」
へぇ、と危機感に欠如した相槌を打ってしまう。というのも俺より事情通である刀娘に、切迫した様子がまるでないのだ。特に何事もなく片付けられる目算が立っているのだろう。
歩き出した刀娘に続きながら訊ねる。
「ちなみに刀娘から見て異界が破裂するまでどれぐらい掛かりそうだ?」
「一週間ってとこですかね。アグラカトラ様の読みだと、四日以降は【輝夜】が出張って来てこの異界を畳んじゃうってことなんでしょ。三日間縛りの理由は」
「……ああ、そういやそんな組織があるってのは聞いてるな。流石に首都でこんなのが発生したら、発見も早期にされるもんだよな。むしろ四日も対処に掛かるのかってぐらいだよ」
そりゃあそうだ。俺達がなんとかしないと東京が滅びる! なんて漫画にありがちな『他の大人は何をしてるんだよ!』みたいな展開はないらしい。
それにしたって四日は時間掛けすぎだろとは思うが、事前に三日の猶予を設けているのは組織らしい腰の重さではある。パッと思いつく限りだと、異界の位置の特定、異界の性質の調査、事態解決のための作戦会議と人員選抜、人員の移動、これらを行うのだと予測するのがベターだと思う。それらを踏まえると三日間、対処に乗り出すのに時間が掛かっても仕方ない。
大手ゆえの初動の遅さは、弱点であると同時に確実な成果を出す強みでもあるわけだ。
「ですよねぇ。【輝夜】も愚図じゃありません。こんな日本のど真ん中で異界が発生したんですし、全国にネットワークを持ってる連中ですから、もう秋葉原に異界があるってのは特定済みかもしれませんよ。案外先行してる調査員と鉢合わせるか、アタシ達の直ぐ後に侵入してくるのは有り得る展開です。そういう場合はすぐに身分を明かしてくださいね」
「ああ、了解。……っていうか、俺としちゃあ割と嫌な予感はするけどな」
「ん? なんでです?」
小首を傾げる刀娘に、もしかしてこの子ってば頭脳労働苦手なのかなと思ってしまう。
「社長の話じゃ、ここは人為的に作られたかもしんない異界なんだろ? ズブのド素人の俺はともかくとして、ここを作った奴らなら【輝夜】ってとこが対応してきて、すぐに潰されちまうのが目に見えてるはずだ。じゃあなんでこんな目立つところで異界なんか作ったんですかって話になるだろ。早い話、制作側の意図が読めんくて不気味だってことよ」
「あー……なる。言われてみたらそうですね」
「……刀娘センパイ?」
「アハハ……あのぉー、残念な奴見る目やめてくださーい。アタシってば考えるより先に動くタイプですし。……ちなみにエヒムさん的に、制作側って何考えてると思います?」
「俺に訊くのそれ? むしろ俺の方が教えてほしいんだけど……あくまで想像だけで言うと、潰される前にしたいことがあり、目的を達成できる目途が既に立ってるんじゃないかな。そんで用が済んだら異界は放置して退散、後始末は他人が勝手にしてくれるってとこか」
「へへぇー……エヒムさん頭良いんですね。ソンケーします」
いや、あくまで想像なんだけどね。俯瞰的に状況と要素を見ると、外れてそうではないが。あとこれぐらいなら誰でも予測がつく範囲だし、なんなら【輝夜】の方はそうした予測も踏まえ、異界の製作者の目的を掴むため迅速に動いていると見ていいはずだ。
となると刀娘の言った通り、【輝夜】の人員とこの異界内で遭遇する可能性は充分にある。大穴で、この業界に【輝夜】と【曼荼羅】しか組織がないとは思えないから、似たような組織の連中と出くわす可能性まであった。なかなか楽しくなりそうな想像である。
「俺の頭が良いっていうより、こういう状況にもイメージを湧かせ易くしてくれてるアニメが凄いだけだな。リアル視点とサブカル知識を組み合わせてテキトーなこと言ってるだけだし、俺」
「ふぅん……つまりオタク君は凄いってこと?」
「そ。好きこそものの上手なれってね。オタクは凄いぞー? 世界中にオタクは沢山いるからな。軍事オタクに政治オタク、機械オタクに医療オタク、仕事オタクに運動オタク。オタクのいない業界なんてないし、何かに熱中できる奴のことをオタクっていうんだ。だからアニメやゲームのオタクだけ弾圧する世間様に俺は叛逆したい」
「……今、盛大に脱線した? なんの話してたっけ?」
「オタクの話だよ」
「……世の中なにが役立つか分かんないってことですね! 今度からアタシもクラスのオタク君に優しくしてあげよっと」
「そうしろそうしろ、オタクに優しいギャルっていうフィクションを現実にするんだ」
「む……聞き流せませんよ、それ。エヒムさんにはアタシがギャルに見えてるんです?」
「おう。ギャルの定義が分からんしね、もう若い子全員ギャルって呼んでいいんじゃない?」
「そういう雑な括りと決めつけが偏見を生んで、世間のオタク君が肩身の狭い思いをするんだ! 怠惰で悪い大人だなぁ! オタク君に謝れ!」
「えっ……ご、ごめんなさい」
くすくすと笑った刀娘に、俺も柔らかく笑った。テキトーに合わせてふざけただけだが、刀娘がノリの良い子で助かった。滑ったら気まずくなるしね。
しかしふざけては見せても刀娘の目は真剣なままだ。無人の秋葉原を散策する足取りは重く、視線も左右を見渡すために一定に留まっていない。
暫しの沈黙を挟んで、刀娘が訝しむように呟く。
「……人、いませんね」
「そうだな。それが? ……って、いや、そうか」
刀娘の言わんとすることを察する。確かに不自然だ。
「さっきの奴ら、異界に吸い寄せられてたんだよな? だったら他にも同じような奴らがいるはず。まさかアイツらが一号さんってわけでもあるめぇし」
「そです。マジで頭良いですね、エヒムさん」
「あんまり褒めないでくれん? 俺、褒められたら調子に乗って失敗するタイプなんだわ」
「なら褒めないようにしましょうか」
「そこは適度に褒めてくれ。新人のモチベーション維持は先輩の仕事の内だぞ」
「助っ人のバイトに高望みしないでくださーい。責任の薄さがバイトの特権でーす。でもお給金弾んでくれるなら無責任に褒めまくってあげますけど?」
「ヨイショばかり上手いバイトってのも考えもんだろ」
それ、普通に他のバイトから嫌われる要素だから、マジでやめた方が良い。
社会人としてバイトの学生に忠告してやろうかとも思ったが、それより先に刀娘が口を開いた。
「――そういえばなんですけど、エヒムさんって
「ん? 知ってるぞ。RPGとかだと割とポピュラーな敵キャラだな」
最近、フィフからも死霊に関して言及されている。
刀娘と出会う切っ掛けになった、あの人造悪魔を殺した後のことだ。外部に漏れ出たマモを放置していたら、死霊になってしまうと言っていたのを覚えている。
今その話をしたのは――そういうことなんだろう。
「
刀娘が大太刀を構える。カチャ、なんてありがちな音はしない。そんな音がする刀剣は整備不良で、使用中に破損する恐れがあるとかないとか、そういう話を聞きかじったことがある。時代劇とかで刀を鳴らすあれは、あくまで演出だってことだな。悲しいなぁ。
と、余所事を考えている場合じゃない。大通りに黒いモヤみたいなのが浮かび上がっていた。それは人型を象り、次第に質量を伴って一人の人間になる。ただし肌は青紫で、頭髪は抜け落ち、歯もほとんど生えていない奴だが。死霊というよりゾンビ映画のゾンビである。
リアルで見るゾンビは気色悪い。うげぇ、と内心呻いてしまうが、不可解なことに精神的余裕は充分なほどにあった。雑魚だなと一目見て感じてしまったからだろうか? 簡単に殺せそうだ。
「……思いっきり質量ありそうなんだが。あれで霊って言っていいんか?」
雑魚一匹がポップしたところで脅威にもならん。――傲る思考に警鐘、フィフキエルのダメな部分が表面化しているのが自覚できる。
自制しながらも、メリットは見い出せた。このフィフキエルの傲慢さのお蔭で一般人だった俺が冷静さを保ち、精神的な余裕を確保できているのだろう。それを自覚できるだけ、フィフキエルのダメなところと俺の悪いところが打ち消し合ってるようだ。
俺の些細な疑問に、刀娘は律儀に言った。
「死霊は不定形なんです。人型になる時もあれば、人魂みたいになる時もあるんですよ。ああいう魔物はマモの豊富な異界だと頻繁に現れちゃって、まあまあ処理が面倒です。死霊は魔物の中でも最下層に位置する雑魚ですけど、数だけは多いのが難点ですね」
言いながら、ゾンビよろしく呻きながら近づいて来るゾンビを、刀娘がズンバラリンと唐竹割りにする。頭頂部から股下まで真っ二つにされたゾンビは、そのまま何もなかったように霧散した。
おお、と感嘆の声を上げて如意棒を持ったまま拍手してしまう。だが数が多いと言うだけあって、死霊が続々と形となっていくではないか。前方に現れた
「うわぁ……」
「とりあえずアタシが片付けます。ちょっと見ててください」
刀娘は軽い足取りで、機敏に動き出したゾンビの群れへと進んで行った。
助かる配慮だ。彼女がどう立ち回るのか、ここで勉強させてもらおう。
† † † † † † † †
状況の変化を観測する。計器のメーターが微動するのを見逃さなかった。
来訪者の訪れは想定通りだが、予測よりも異界の容量が圧迫されている。計算外の存在が侵入してきたのだと判断を下し、椅子を回して背後のモニター群を正面に迎え素早く視線を動かす。
ところ狭しと設置された、十を超える数のモニター内の一つに映り込んだ者達はすぐ発見できた。
「あら……」
暗黒の中、モニターの発する光だけが女の姿を照らしている。
濃い緑の双眸を物憂げに細め、ボサボサの銀髪を揺らして女は呟いた。
「こういうの、この国だと招かれざる客って言うんだったかしら」
異界には受け入れられる容量に限界がある。所詮は急造の異世界だからだ。そこに
故に異界そのものの防衛反応として、溢れ出ようとしたマモが死霊という魔物を排出し、許容できない異物を排除しようとしている。排除できればよし、できなくとも余分を処理できる、というシステムである。そのシステムを組んでいた女――アガーフィヤ・ドミトリエヴナ・ペトレンコは、ゆったりとした所作でモニターの画面を撫で、悩ましげに吐息を零した。
「……フィフキエル」
正確にはその後継。どういう経緯で自分が築いた異界にやって来たのかは不明だが、幸運な偶然だと言えなくもない。ペトレンコは数秒沈思し、ゆるゆると頭を振った。
「……ダメね。欲張り過ぎは身を滅ぼすわ。当初の予定にないことは、突発的にやるものじゃない。わたしはあくまで自分の仕事を完遂する、今はフィフキエルの後継の居場所を掴めただけ幸運だと割り切るべきね」
『そうだナ! そうだナ! アガーシャ、賢イ! 賢イ!』
ペトレンコの愛称を呼んで無邪気に称えるのは、彼女の足元で尻尾を振る小型犬だった。白い体毛が異様に長く、全体的にふわふわとしている愛らしい
「仕事の邪魔はやめてほしいわ。納期が近いの。だから――ちょっとの間、雑魚と遊んでて頂戴?」
遊んでいる様も、ついでに眺めておいてあげる、と。ペトレンコはやはり、憂鬱そうに呟いた。
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