第10話 心の場所
「いらっしゃいま……」
言いかけて、私は溜息と共に最後の言葉を吐き出す。
「えっ、えっ、何すか。そんな面倒くさそうな顔しないで下さいよ」
三軒隣のケーキ屋の息子、天野。悪い男ではないが、何となく苦手だ。その理由は、わからないけれど。
「新作が出来たんで、食べてもらおうと持ってきたのに」
「ちゃんとお金払うから」
「いや、いいんっすよ! これもご近所付き合いってやつで!」
「……」
少し考えて、前髪をかき上げる。
「なら、そちらのショップカードをポラリス店内に置かせていただきます」
「あ、それでいいっす」
天野は嬉しそうだ。嬉しそうな理由は、ショップカードのことではなさそうだけれど。
「すみれさんの分もあるんで、二人で食べてください」
ケーキ箱をレジカウンターに置くと「そいじゃ」と言って天野は自分の店に戻って行った。
ほどなくして、すみれさんが出勤してくる。
「またケーキですか?」
ケーキ箱に目を留めたすみれさんは、目を丸くする。
「今度は、新作だそうよ」
先日、大量の試作品をもらったばかりだった。それらが試作品ではないことは、承知している。だからだろうか、彼を苦手に感じるのは。
ほっといて欲しいと、思うこともある。けれど、お互いなあなあな距離を保っていることも事実だ。そこを越えてしまうと、何かが崩れてしまう気がする。
どうしてだろう、と思う。
どうして、何かが崩れてしまうのを恐れてしまうのだろうか。自分が傷つくのが、他人がかつての自分のように傷つくのが、見たくないからだろうか。
「先日いただいた林檎のタルト、すごく美味しかったですよ。確か、タルト・タタンって名前の……」
「タルトたたん?」
「失敗から生まれたお菓子らしいですよ」
へえと返事をしてから、想像してみる。名前からでは全く想像がつかない、林檎のタルト。失敗したのに、タルトになるって一体どんな失敗をしたのだろうか。
「わあ、可愛いー! お星さまのケーキ」
ケーキ箱を開いたすみれさんが、声をあげた。
覗きこむと、ドーム型の小さなショートケーキ。真っ赤なベリーが周りを彩る。パステルカラーの砂糖菓子は星の形。ちらちらと側面に散らしてあり、ケーキの頂点には、ベリーと大きな星。
「七夕用ですかね?」
小首を傾げたすみれさんは、お昼休みが楽しみと小躍りした。
頂点で存在感を示す、黄色の星。
胸の奥がモヤモヤした。
「この後、ひま?」
仕事終わり、半分閉まりかけているシャッターの向こうの天野に声をかけた。
「えっ? あ、ちょ、ちょっと待ってて下さい」
文字通り飛び上がって驚いた天野は、奥の厨房へと走って行く。慌てたような金属の音が奥から聞こえてくる。
急で悪いことをしたかな、と後ろめたい気持ちになったところで天野が現れた。
「お待たせしました」
お店の入り口とは違う、別の出入り口から出てきた天野を見て、少し気後れする。
いつもは、コックシャツにエプロン姿の天野しか見ていない。目の前の彼は、ニットのTシャツに、黒のスキニーパンツ。今時の若者の格好をしている。
忘れていたけれど、彼は年下なのだ。
「なんか、変ですかね? 慌てて出てきたんで、顔がベタベタで」
「えっ?」
正直、慌てる。
上から下までジロジロと眺めてしまっている自分がいた。
「タルトたたん……どんなケーキかなって、思って」
違う。
本当は、試作品だとか新作だとか、毎回ケーキをもらうのはやはり良くない。もう持って来ないでという話をしにきたはずなのに。
「ああ、タルト・タタンっすね。残ってるか、ちょっと見てきます」
小走りで戻って行く彼を見て、言葉を飲み込む。何をしているのだろう、私は。
「ありましたよ、他にも余ってるのあったんで、持ってきちゃいました。……って、迷惑でしたかね」
ビニール袋を掲げた先に、天野の困った笑顔があった。袋の中にはタッパーが入っている。なんだか申し訳ない気持ちになってきた。
「天気いいんで、外で食べません?」
天野は先に歩き始める。その広い背中に、あの人を重ねて、胸の奥が重くなった。
心が胸にあると説いた人は、間違っていないかもしれない。
私なら、脳にあると言ってしまうけれど、そうじゃないかもしれないと、ドンドンと鳴る心臓の音が教えてくれている。
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