ノクターン-夜想曲-

 半分よりも、もう少し多く満ちて来た金色の月が昇っている。空に在り、人を見守り、人の魂がここでない何処かへ旅立つその時まで仮住まいとする月が無言のまま地上を照らしている。耀きは明るく、地上の惨劇さえもハッキリと浮かび上がらせていた。

 急斜面を背にする形で陣を敷かれた野営地の一角が紅く染まる。それが見張りの為に焚かれるかがり火や夕食の支度の炎でない事は広がり始めた混乱が証明していた。

 軍馬がいななき、暴れまわる。中には手綱を引き千切り何処かへ逃げ出す馬もいたが、ある方向にだけは避けているようだった。

 寝ぼけたままの兵士が、何事が起きているのか理解できぬままテントから顔を出し、慌てて寝間着姿で外に飛び出しかける。部隊長らしき男が事態の混乱の収束を図ろうと怒鳴り散らしているが、全く効果を上げていない。しかし、統率の取れていない大人数というものがどれだけ脆く、かつ厄介なものであるか十分すぎるほどに理解している部隊長は、それでも怒鳴り続け漸く最良の方法を思い出す。

 半鐘を目一杯に打ち鳴らす。速いテンポで叩かれるそれが意味する所はただ一つ、敵襲。

 この討伐隊が編成された唯一の根元の出現。それだけだ。故に生き残っている兵士全員にその意味は理解された。そう、生き残っている兵士達には。

 結論から言えば部隊長の行動は遅きに喫していたと言える。

 漸く迎撃の体制を整えた時には既に、勢いを増しだした炎を背に幾つもの屍に囲まれて乙女が佇んでいたのだから。

「鮮血姫……」

 波紋のように広がったその呼び名に応えるように乙女が顔を上げる。

 呼び名に相応しく肌は鮮血に染まりまるで紅玉を思わせ、手にした長剣からは血が雫となって滴っていた。月の光と炎の照り返しによって作られた奇妙な陰影に彩られた顔には髪の毛一筋ほどの表情も見られず、水晶の瞳がただ映す。獲物、すなわち兵士達を。

 トンと響いた音が乙女の凄惨な姿に魅入られていた兵士達を我に返す。しかし、何人がその音を乙女の踏み込みの一歩目だという事に気付けただろうか?

 ただの一振りで数人の首が落ちる。命の果てた事に気付かない体が倒れる事なく切断面から鮮血を迸せる。文字通り血の雨が降る。

 雨の中乙女は止らず、駆け抜けた。ドレスが血を吸いさらに紅に染まる。さらに、一閃。紅い刀身が煌く度に血が舞い、屍が数を増す。

「何をしている早く何とかしろ」

 指示にも何もなっていない無茶苦茶な部隊長の叫びに、それでも漸く完全武装を果たした幾人かの兵が乙女の前に立ちふさがる。全身を包み込む金属鎧は要所要所に魔晶石が埋め込まれ、対魔術、対衝撃の耐久度が格段に引き上げられている。また、同時に通常の数倍の怪力と敏捷さを装着者に与える。

 構えられた広刃剣にもそれぞれ色の異なる魔晶石が柄の部分にはめ込まれ刃へと『力』を供給していた。兵の一人が薄っすらと光を纏った広刃剣を正しく力任せに振り上げて斬りかかる。

 しかし動きはまるで獣のようにしなやかで俊敏、叩き付ける刃は巨岩でさえも一撃で粉砕できるだろう。その場にいる誰もが血の海に沈む乙女の姿を確信する中、澄んだ音が一度響いた。一瞬間、時間が止まる。

 乙女の長剣が広刃剣を受け止めていた。乙女の右手は柄を握り、左手は峰に添えられているだけで、さして力が入っているようにも見えない。対して、斬りつけた兵士の全身は小刻みに震え、未だ全力を持って乙女を叩き潰そうとしている事が見て取れた。必殺の一撃が何の効果も上げる事無く止められた。それもある、だが。なによりも、兵士達に恐怖を感じさせたのは、乙女の顔に変わらず何の表情も見出せなかった事。果たして今目の前にいる存在は、人であるのか。それとも、その形をしただけの別の何かであるのか。昏い予感が皆の胸を過ぎった時、均衡が崩れた。

 端から見ていた分には乙女が軽く左手を動かしたようにしか見えなかった。しかし、鍔迫っていた兵士は長剣に広刃剣を弾かれ二歩後ろへよろめいた。

 長剣で薙いだ勢いのままに乙女はその場で回転する。優雅と称していいステップを踏み速度を上げる。ドレスの裾が広がり金糸の髪が弧を描く。血に塗れ凄惨としか言い様のない光景であるはずなのに、なぜか高貴ささえ感じさせる。それこそ『鮮血姫』の呼び名の由縁。

 霞んだ長剣の切っ先が金属鎧にぶつかる。埋め込まれた幾つもの魔晶石によって一つの防御結界と化している金属鎧が一度だけキンッと抵抗を示し、装着者ともども紙切れ同然に切裂かれた。鈍い音共に鎧の上半分が地に落ち、兜が転がる。最後の最後まで何が起きたか想像の埒外だったに違いない。露になった兵士の瞳は大きく見開かれ虚空を見つめていた。

 乙女が長剣を構え直す。刃こぼれ一つ起こしていない『それ』は、まるで斬った兵士達の血を啜ったかのように紅味を増していた。

 静かに動揺が落ちる。

 至近距離での爆発にさえ耐える防御結界が何の役にも立たないと見せ付けられた故に。あるいは、それでもなお髪一筋ほどの変化もない乙女の表情故に。

 今、兵士達を支えているのはただ任務と言う一文字だけだ。それさえ、何か一つキッカケがあれば容易く砕けてしまう程度のものだろう。だから、最初に悲鳴を上げたのが誰かは分からない。部隊長だったのかもしれないし、他の誰かだったのかもしれない。けれど、そんな事はどうでもいい事だ。

 波に洗われ崩れる砂の城のように皆が乙女から逃げ出す。止める者は誰もいない。誰もが同じ気持ちだったからだ。

 いや、ただ一人いた。

 鮮血に紅く染まった乙女が。

 紅の長剣を携え、疾る。武装した者もそうでない者も関係なく、ただ薙ぎ、裂き、断ち、突き、斬る。等しく死を与え、鮮血を浴びる。

 たった一つののぞみを叶える為に。


 勢いの衰えた炎を背に乙女-エレオノールは長剣を月の光に掲げる。血の色と等しく紅い『それ』は僅かに湾曲した刃に冷たい耀きをのせている。じっと刀身を見詰める。何処か必死に、何故か願うように。やがて静かに長剣が降ろされ、エレオノールの顔に一つの表情が浮かぶ。

 落胆。そう呼ばれるものだ。

 己が起こす惨劇の中全く表情を変えなかったエレオノールが視線を落とす先には、長剣の紅い刀身、その一点。僅かに小指の先ほどの小さな純白がある。どれほど人を斬ろうと、どれほど血を吸わせようと決して緋に染まらぬ空白が。

 それが紅く変わる時こそが……。

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