第22話 少女のようにはしゃぐ母

 数日して、探偵から報告を受けた伊智那と母は秩父に向かった。今はひっそりと夫婦でビアパブを営むという筒井海里改め本庄海里は、母がお店に電話すると甚く驚いていたが、来店の意向は歓迎してくれた。山王楓を通じて、母と彼女は友人とはいかずとも見知った仲だったようだ。

「なんだか騙すようで心苦しいわね」

「事情を話せばわかってくれるさ。それに、ビールを楽しむという目的も全うすれば、騙すことにはならないよ」

 伊智那は痛む頭を押さえつつ、池袋の駅を見渡す。夏の暑さに溶けるように柱にもたれて、遠く秩父の自然を想った。履いてきたアンクルストラップ・サンダルではあまりに頼りない自然、長瀞の急流から切り崩された石灰の山まで、人文の色濃いと雖もここ池袋とはまさしく真逆、西武のレールがつなぐ極と極である。

特急列車が入って来た。

「窓が大きいのね!」

「そう、これに乗りたかったんだ!」

母娘はすっかりご機嫌である。

 特急ニューレッドアローの後継としてつくられたこれ、Laviewを一目見た感想としては、やはり窓が大きいと云うだろう。何時までも訪れそうにない近未来を思わせる外観に反して、いや反しているか定かではないものの、中に入るとその広さに驚かされる。さてはレールの幅が増したかと錯覚するほどに開放的な空間はバリアフリーにも当然配慮していると聞く。肘掛けまで連動する上品な黄色の座席に座ると、このデザインに対して如何に注力したか自ずからわかるというもの。

「つまり最高だな!」

 麻のブラウスに黒のガウチョパンツで疑似的に「弓道或いは合気道着」を思わせる和風テイストをまとい、凛として座れば絵になるというのに、そこらの子供よりはしゃぐものだから――おまけに実母も隣におり――伊智那こそがその最高を傷つけていた。こういう時子供はむしろ落ち着くもので、近くの席の電車好きと見える男の子が「このぐらいではしゃぎやがって」という目をして大きな子供を眺めている。それを見つけた三崎ふうきは赤面した。

「伊智那、やめなさい」

「はい――」

 それからは逃げていた素敵な旅情も戻ったようだ。

 スイッチバック構造のため背中が進行方向になるころには、すっかり乗客も登山か観光客かといった具合で、そのような空気を肌で感じつつうとうとしているここは飯能を過ぎて吾野駅である。

「ここで池袋線が終わり、西武秩父線に入るんだ……」

「あ、そう。飯能じゃないんだ……」

「ぅ」


 西武秩父の駅を降りて、しばらく歩くと秩父線御花畑駅に至る。ここの絶品、山菜そばとたぬきうどんを完食してはたと気づく。

「いやビアパブで食べればよかったじゃん」

「もしかして緊張しているの、伊智那?」

「いや母さんそれはないよ」

 と笑いつつも、伊智那は実際少し困っている。空気を読まずに兄の話題を出すのは無礼だ。無礼をせよというのは、感情的に嫌なものであろう。

 御花畑から線路を背に、街角の置物――下駄だとか亀だとか、触れるとご利益があるという――をいくつか過ぎて本庄海里とその夫が営むビアパブ「泡時計」を見た。

「母さん、事情をすべて話すのも、いきなりお兄さんについて訊くのもやめておいた方がよいと思うから、先ずは雑談に徹しよう」

「わかったわ」

 伊智那は引き戸に手をかけた。期待できる収穫はゼロかイチであった。

(筒井靖は山王楓を妊娠させてしまったのではないか。それを妹は知っていたか)

「こんにちは」

「お邪魔します」

 古い商家の住宅を改装したという。木の香りを背景に、ビールや肉の焼ける匂いが広がっていた。暗い和風の照明に浮かび上がる金銀のサーバーはさながらそれだけで大正ロマンか。そう思わせるのも、和洋を器用に織り交ぜたデザインセンスの光る所だろう。

「いらっしゃいませ」

 他に客はいなかったが二人はカウンター席に座る。

「本当にお久しぶりね!」

「本当に! ささ、自慢のメニューを見て頂戴! ところで――」

「初めまして。僕が伊智那です。早速ですがこの『大妙ブレンド』と生ハムをお願いします。どうも大層な名前ですね」

 オリジナルブレンドらしい。

「常連さんがつけてくれた名前よ! ソウジがどうとか云っていたけど、わたしにはわからないわ」

 変な客もいたものである。

 本庄海里はグラスにビールを勢いよく注いだが、伊智那に出すわけでもなくサーバーの下に放置した。

「私はシードルをいただくわ……ビール出さないのかしら?」

 まるでにやりと音がするように笑うと、「ちッちッち」とワザとらしく指を振った。

「お客様、こちらのビール、三回に分けて注ぐことによりまして、より泡を盛り上げ酸化を防いだり、まあ色々云々ありまして美味しく仕上がるのでございます。四分ほどお待たせすることにはなりますが、新雪の如き見事な泡をお楽しみいただけます故、少々お待ちいただけますか――という訳なの!」

 伊智那はこの技法についてある程度知ってはいたが、満面の笑みで語られる口上に思わず期待を膨らませる。

「すごい! 私もビール、同じ、大名ブレンド? お願い。あ、シードルも出してくれないかしら」

 少女のようにはしゃぐ母を隣に娘としては居心地悪くも、存外に二人は仲が良かったとみえて和やかな空気が流れていることに安堵した。少女、三崎ふうきがちらちらと横目で何かを訴えかけるほか「新雪の如き泡」の堪能を邪魔する要素はなく、伊智那はもはや何も考えずにプロの技を味わいつくす。ハートランドやハイネケンを怠惰にボトルで飲んでいては例え百瓶を空にしたとてこのグラス一杯の価値はあるまい、目で味わうは当然ながら鼻でも味わってやろう、母はともかく可愛らしいおばちゃんの笑顔はよい肴よ、これは今しかない、これを味わうのは今しかないという確信を得た後は、切れ目なく飲むべくグラス半分で次を注文する有様である。どこぞの隠者よろしく一口飲んで「好い」、生ハムを食べて「好い」、ソーセージも、チーズも水もハォハォと夢心地で云っていると、どこかで何か間違ったものに「ハオ」とこぼしたようで、母がこんなことを口走った。

「あのね、実はね、ビールを飲みに来たのも本当だけれど、目的は他にあるのです。ごめんなさい」

「――好い佳い……ん?」

 本庄海里は微笑んでいた。

「詳しいことは云えないのだけれど、家で『山王楓』を名乗る少女を預かっていて、彼女について調べているの。それで――」

「兄のことが訊きたいのね」

 さも知っていたという風だ。

(え、ちょ、待って)

 伊智那は何も知っていなかった。

「それで、何が知りたいの」

 無感情な言葉に、伊智那は腹をくくることに決めざるを得ない。思考を放棄していた自らを呪った。予定していた会話の切り出しだとか、すべて飛んで行って取り返しもつかず、ここからはぶっつけ本番のアドリブ勝負だ。

「――お兄さんは、山王楓を、妊娠させていたのではないですか」

 伊智那は細大漏らさず表情を観察する。

(馬鹿な。反応がゼロだ。知っていた、でも知らないでもない。教えない、だ)

「私はね、そういう風に兄を知りたがる連中が大嫌いだった。変に勘ぐる連中に愛する兄のことなんて話すわけがないの」

「ごめんなさ――」

 謝ろうとする母娘を、そっと手を出して制止する。

「ん、でもあなたたちも事情があるのでしょう。だから、ちょっとだけ意地悪させてもらうけど、私の知っていることは全部教える。わかればね!」

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