第17話 クラフトナイフで脇腹を

「まって母さん、母さんの話だと放火事件があったのは深夜なんだろう? どうしてその時間帯に入谷先生が学校に残っているんだ。あと、もと軍人が生徒如きに後れを取るのか? 記事に依るとクラフトナイフで脇腹を刺されたようじゃないか。軽傷とも書いてあるけど」

 夫の疑問には伊智那が答えた。

「電話で呼び出されたらしい。深夜に学校の職員室に呼び出された入谷礼華は、深刻な相談だと思い駆け付け――内容はともかく通話履歴自体は証拠があるだろう――そこで、これは本人曰く、焼身自殺の準備を整えた筒井靖と相対した。止めようとする入谷を筒井はクラフトナイフで刺し、隙を見て火をつけた。すぐに通報するも為すすべなく、駆け付けた隊員は血を流しながら泣き叫ぶ入谷礼華を警備員とともに救急車に連行した、そうだ」

 タブレットも見ずに諳んじる。

「そもそもどうやって……いや、警備員の証言がある。『深夜に職員室前で筒井靖を発見し、取り押さえようとしたが、入谷先生に懇願されて十五分間の特別面談を見逃した。叫び声を聞いて駆け付けた時には既に火の手が強く、動こうとしない入谷先生を引きずるように外に逃がした』か。筒井靖が持ち込んだらしい大量のガソリンや灯油のために職員室は跡形も残らず燃え尽き、被害は甚大だ、と」

 入谷先生はこの件で退職してしまった。ひどい熱や臭いよりも、筒井くんが「ありがとうございました」と云って笑ったのが、それが一番辛いのだと教えてくれた。

「私は彼の自殺願望を知り、力を尽くして相談に乗り、何もできなかった」

先生の表情はとても形容できるものではない。

夫は無言で私を抱きしめてくれた。過去に囚われていたつもりはなかったけれど、それでも――。



 伊智那は「嫌な予感がする」の一言で父親にボディーガードを手配させた。条と楓は家にいなければならず、伊智那は事件を調べなければならない。安全を考慮すると身辺警護が必要だが、襲撃の事実は伏せなければならなかった。予感とは力技だが、反対される理由もなかったのだ。父親は職業柄、決して安全とは云えない地域に行くことも多く、PMCや個人的な知り合いに身辺警護を依頼することは多々あった。故に家族に抵抗感を覚えるものもいなかった。

「お姉ちゃん、エルシィ姉さまが来るの?」

 朝食のうどんを啜る条が顔を輝かせた。そのイングリッシュ・ガールは王立海軍出身の現作家で、上品なボディーガードが必要なときに父に重宝されている。ちなみに、すわ愛人かと大変なことになった過去もある。姉妹にとっては親戚同然であった。

「実は襲撃の直後に航空券を送り付けておいたのだよ。無言で」

「お姉ちゃんひどいことするよね」

突如、数十万円のチケットが贈られる。見るとフライトは明日であり、本人とは連絡がつかない。全ての予定をキャンセルして飛行機に乗るほか、選択肢はなくなる。信頼を利用した外道である。そうして各方面に謝罪しつつ予定をキャンセルした頃、父から正式に依頼が舞い込むというわけだ。

「まあ、今日の飛行機に乗るだろうから、僕たちのもとに到着するのは明日かな」

 それまでは伊智那も家を動けない。

 今日は自然と、伊智那の和室に三人が集まる流れとなった。


「とてもナチュラルに君たちはここにいるけれど、僕の部屋だぞ?」

「うー」

「だめですか?」

「だめ、じゃあ、ないが……むしろ……」

 観念した。

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