第5話 謝罪

 あの後、僕と達人は授業が終わってからも理科室に残されていた。電気も消され、曇り空のせいで、室内はどんよりと影がかかったような、そんな空間だった。


 頭の中は、実験のバケツの中の液体よりもぐちゃぐちゃだ。一度、正気に戻ったとはいっても、やはりまだ彼への黒い怒りの感情はまだ強く残っていたのだ。

 正直、何を話したのかあまりよく覚えていない。ただ、教卓前、先生を含めた3人での話し合いの中で、彼が不満げに言った一言が気になった。


「確かに目に入ったのかもしれないけど、水酸化ナトリウム水溶液ではなくて水のはずだ」


 何をふざけたことを言っているんだと思ったが、すぐに次の授業開始のチャイムが鳴った。その後、互いに見かけだけの謝罪をして、その場は解散した。


 *



 理科の実験が終わってから給食を食べて昼休みに至るまで、授業の間もずっと、僕は、彼の言葉の意味と事件の時の状況を思い返していた。





 あのとき確かに、同じ事をしてやろうと思っていた。

 自分がやられたことを彼にもしてやるのだ。

 同じ目に遭わせるのだ、と顔に向けて手を伸ばした。


 しかし、彼と僕を挟んでいた理科室の机が僕を止めた。僕の身体は机に引っかかり、彼の顔には届かなかったのだ。行き場を失った右手は、空を切り、彼の学ランの腰のあたりに着地した。


 そうだ、机がなければ、僕は彼の顔面に水酸化ナトリウム水溶液を塗っていたんだ。



 ――――何を言っているんだ、僕は。顔につけていた?



 そこで異常さに気づいた。


 自分は何をしているのだと。

 人を傷つけることの痛みはよく知っているはずだ。

 人がつらい思いをすることは嫌っていたはずだ。

 それなのになぜ、彼の今後の生活にも影響が出そうなことをしていたんだ。


 何であんなことをしたんだろうか。

 いや、それは彼が先にやったからで。

 ――――そこで話し合いでの彼の言葉が思い出された。



「確かに目に入ったのかもしれないけど、水酸化ナトリウム水溶液ではなくて水のはずだ」


 確かに最初は、何を言っているんだこいつは、と。どう考えてもお前のところから、水溶液が飛んできて目に入っただろ、と思っていた。試験管の中身が水酸化ナトリウム水溶液だったのに、飛んできたのは水だったなんてことはありえないじゃないか、と。



 だけどその時、僕は一つの可能性に気づいてしまった。



 あの場には、僕が持ち帰ったものを除いて、机の上の試験管立てに置かれたものと達人が持っていたものの計二本の試験管があった。

 もしかして、彼が手に持っていたのは蒸留水の方だったのではないか?

 彼が持っていたのが水酸化ナトリウム水溶液だ、というのが僕の勘違いだったのではないか?


 彼が失敗したような顔をしたのは、ブラシを水酸化ナトリウム水溶液につけてしまったからではなくて、もうすでに水酸化ナトリウム水溶液を流しに捨ててしまっていたからではないか?


 笑っていたのも、ただの水ぐらいでそんな大げさにすんなという意味だったのではないか?





 もしも、もしもそうだとしたら。



 背中に冷たいものが走った。





 目に飛んできたのが本当に水酸化ナトリウム水溶液だったのかは、わからない。ただ、それが本当かどうかは別として、自分が塗り付けたのは事実だ。それだけでも罪悪感で心が締め付けられるのに、さらに、自分の勘違いで一方的に彼を傷つけていたのかもしれないと考えると、もうダメだった。

 





 昼休み、給食の食器を運搬車に片付ける際のカチャりという音が教室内に響く。教室、廊下での同級生達の話し声が聞こえている。

 達人は教室の席に座って、彼の友人数人と話をしていた。クラスで後方の席に座っている僕には、最前列に座っている彼の席がよく見える。彼のテンションはどこかいつもより低いように感じた。

 そして少し時間がたって、給食の食器は少し前にすべて片付けられ、給食当番が配膳カートを運んでいった。彼の周りに彼の友人がどこかにいった。幸運なことに、他のクラスメイトも教室内にはあまりいなかった。行くなら今しかない。

 僕は、意を決して声をかけた。




「あ、あのさ」


 達人の席の右側に立って、座っている彼に声をかける。彼にはちゃんと聞こえる大きさの声で、けれども、他のクラスメイトには聞こえないぐらいの大きさの声で。


「2限目の理科の実験の時のことなんだけどさ、水酸化ナトリウム水溶液を学ランにつけて、本当にごめんなさい」



 そういって深く頭を下げる。

 アレが本当に水酸化ナトリウムだったのかは聞かない。自分では目に入ったのは水酸化ナトリウム水溶液で間違いないと思っている。99%そう思っている。

 でも、もしアレが本当にただの水だったのなら、僕が一方的に彼を傷つけようとしただけというのが真実なら、そう考えると怖くて聞けなかった。


「ん、ああ、ええよええよ。あんなん少し学ランについただけやしな。こっちも悪かった。ごめん」


 そう言われても頭を上げられない。なぜか彼の顔が今どんな表情をしているのかが見たくない。彼がどんな顔をしているかが怖い。


「そんなかしこまって謝るなって。お互い今回のことはこれで水に流そうや、な?」


 そう言われ、彼に肩をたたかれて、やっと僕はちゃんと彼の顔と向き合った。

 彼は笑顔だった。笑顔だったけれど、どこか不自然でぎこちなさの残る笑顔だった。



 ◇


 今に至るまで、私の目に入ったのが水だったのか、水酸化ナトリウム水溶液なのかは分からないままだ。思い返せば、お互い何が真実だったのかは触れないようにしていたように思う。

 私と彼はその後、2年生の残りの期間はこのことがまるで無かったかのように振る舞い続けた。

 3年になるとクラスが別になり、関わる機会も減ったが、たまに運動会や学園祭で顔を合わせると、どちらからともなく顔を背けるのだった。

 

 

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