第3話 『人殺しのカケラ』


 実験自体はおおむねうまくいった。

 しいて言えば、一番最後に行った、水酸化ナトリウム水溶液のリトマス紙の変化がわかりづらかったことだろうか。

 先生が言うには、リトマス紙は室内の気温や湿度によって液を付けなくても若干色が変化してしまうことがあるため、色の変化が見ずらいことがあるかもしれないとのこと。

 実験結果自体は教科書でカンニング済みなので、それに沿った結果なのかどうかが微妙で必要以上に水溶液をつけてしまった。そのせいで、小皿には水酸化ナトリウム水溶液が50円玉くらいたまっている。


 ただ逆に言えば、実験で詰まったのはそこだけ。元々、ひどく簡単な実験なのだから。

 そうして、すべての実験の記録も取り終わり、片付けに入ることになった。


 片付けの方法もシンプル。

 余分な液体は教室の前に置いてある大きなバケツに戻して、戻した液体は先生が処理するとのこと。蒸留水は、理科室の机にくっついている流しにそのまま捨てていいらしい。


「じゃあ、自分は塩酸と食塩水返してくるね」


 二人に伝えた僕はようやくぬるくなった木の椅子から立ち上がり、両手に試験管を持って黒板前に移動する。


(もう少し待っても良かったかな)


 バケツは、もうすでに液体を返しに来ていた他の班のクラスメイトで人だかりになっていた。

 目の前で今日使った液体が次々とバケツの中に混ぜられていく。バケツの中の液体は濁り、なぜか黒々としていた。前の実験で使った液体もここで混ぜられていたのだろうか。


 不安になった僕は、先生の顔を盗み見る。

 おいおい先生。危険な液体じゃなかったのか?まぜるな危険じゃないのか?

 そう思っていると急に白髪の先生の顔がこちらを向いた。


 思わず、目をそらす。

 ・・・・・・まあ、先生が処理するといっているので、どうにか処理するんだろう。

 無言で僕もバケツに液体を注ぎ入れるのだった。




 余った液体を返し終わったら、試験管を専用のブラシで洗っていく。

 鉄のワイヤーロープのような細い金属棒の先、四分の一ほどにまとわりつくようについたナイロンの毛、そこに洗剤を垂らして洗うのだ。


 2本の試験管を手に持って班の机に戻ると、達人たつと試験管を洗おうと順番待ちをしていたところだった。机の上にはガラス棒がない。明日香さんがもうすでに洗って返しに行ったのかもしれない。「水冷てぇー」というクラスメイトの声がそこらで聞こえている。

 試験管立てには、試験管が一つ、逆さまの状態で置かれていた。たぶん流すだけで良い蒸留水の試験管だろう。ということは、達人たつとのあれは水酸化ナトリウム水溶液の試験管か。

 そう思いながら、僕は持ち帰った試験管を試験管立てに置く。



 あれ。そういえば、バケツの前で達人たつとの姿は見ただろうか。



 ちょうどその時、明日香さんが班の机に戻ってきた。


「あっ。明日香さん、ありがとう。ガラス棒片付けてきてくれて」

「ううん、大丈夫だよ」


 やっぱり、ガラス棒を片付けてきてくれたのは彼女だったらしい。彼女だと決めつけて言ってしまったが、間違って変な事を言ったみたいにならなくて良かった。


 そんなやりとりの最中、達人たつとの順番が来ていた。達人たつとはブラシを軽く水で濡らし、そのまま手に持っていた試験管に突っ込んだ。


「ちょ、達人たつと。その液体、前のバケツに返してきた?」

「あれ?返さなきゃいけんかったっけ?」


 少し困ったような、失敗を隠す小さな子どものような表情をして彼はこちらを見た。出しっぱなしにされた冷たいはずの水道水は、試験管をもっている彼の右手にかかり続けている。


「まあ、大丈夫やろ。どうせ言わなきゃばれんよ」


 そう言いながらも、彼はブラシを試験管の中から引っこ抜いたのだった。






 その時、彼がブラシを引き抜いた際に飛んできた液体が僕の左目に入った。



 僕は慌てた。



 慌てて、もう一つの流しで目を洗う。

 勢いよく流した水で洗う。

 情けなくも「目に入った」とわめきながら、洗う。

 薄めてあるとはいえ、水酸化ナトリウム水溶液だ。

 失明したっておかしくない。


 洗っている中、明日香さんが「大丈夫?」と声をかけてきてくれた。

 心配してくれているのだろうと分かる声だった。


 うめくような、返事にもならないような「うん」が僕の喉から漏れる。

 あまりみっともないところは見せたくない。

 顔を上げて、左目をパチパチとし、目に異常が無いか確かめる。

 机の上の試験管や、小皿もなんとか見えてはいる。


「大丈夫やって。そんな大げさにせんでも」


 そんな達人たつとの声が机の向かい側から聞こえる。

 顔を上げた先、水と涙で歪んだ視界の中、僕には彼が笑っているように見えた。



 ◇

 

 瞬間、私は『人殺しのカケラ』に支配された。


 やられた目を左手で押さえながら、小皿に残っていた水酸化ナトリウム水溶液を右手の指につけ、そして私は机越しに、彼にそれを塗り付けたのだった。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る