第5話 幕間・弟の心、姉知らず
人払いをし、忠子が退出し、一人になったところで年若い公達が入れ違いで部屋を訪れた。
まだ本当に若く、元服して間もないのが烏帽子の被り慣れていない様子からありありと分かる。どこかにあどけなさが残るが、きりりと上がった眉毛が凛々しい美少年である。
「姉上っ、お邪魔します」
そこまでは取り澄ましていたが部屋に入った瞬間ぱあっと花が飛ぶような笑顔を見せた。ワンコ系である。
ゆくゆくは立派な大型犬になりそうだが、牛をも倒す猛犬でも子犬のうちは愛らしい。
「あら
「今そこで地味な娘とすれ違いました。あれが姉上お気に入りの忠子ですか?」
「そうよ。期待以上の物語を書いてくれたから、朗読会を開いたの」
つり目気味の整った顔立ちはよく似ているが、徳子がクールビューティなのに対して友悠はいかにも感情の起伏が激しい、きかん気もとい情熱的な雰囲気を持っていた。
「入内の話もしたわ。宮中に連れて行きたくて」
ピシリと音を立てて御簾越しの空気が凍り付いた気がして友悠は表情を強張らせた。
「姉上……」
「やってくれたわね」
入ってきた風が、姉弟を隔てる御簾を揺らした。
今まで二人で会うときは素顔を見せてくれていた姉が、今日に限って御簾を上げてくれない。
結婚が決まった淑女として当然の当然の行動と気にしなかったが、今の物をぶつけるような言い方からは、はっきりと拒絶の意思が感じられた。
バレている。これは間違いなくバレている。
なんだかんだで停滞していた入内を自分が推し進めたことを。
何ならそのために、誕生日を待たずして一日も早く元服をと父を急かしたことまで。
「俺は……」
膝の上で固めた拳が震えた。
「我慢ならなかったんです! 姉上があんな、あんな奴に……っ!」
―――徳子様、源の鷹臣様には相手にされてないんですって。
―――そりゃあそうよ、お立場ってものを弁えなきゃねえ。
―――それに、鷹臣様は亨子様に夢中ですもの。
―――あらそうなの? 詳しく聞かせてちょうだい……
徳子にとって不名誉なお喋り。嫉妬を嘲笑に変えてくだらない自尊心を満足させる心根の賤しい女たち。
男たちの噂はもっと密かに囁かれ、かつ生々しかった。
―――いっそ手を付けてしまえばいいんじゃないか?
―――そうなれば入内はご破算。
―――左大臣家に姫はいないが、息のかかった女を正妃に据えるチャンスだろう。
女たちの噂はともかく、もし万が一にも……
* * *
静かな霧雨が降り込める夜、上等だがいかにも無骨な男車が館の前に音もなく停まる。
手燭の頼りない灯りひとつだけで自ら迎えに出る徳子は闇に浮かび上がるように美しい。
普段は理性的な表情を崩さない徳子が、誰の目も届かないところでは頬を染め目を潤ませ、恋の前にすべてを投げ出した女の顔になる。
「鷹臣様がいらしてくださるなんて。例え夢でも徳子は幸せです……」
「夢などではない。触れて確かめてみるといい」
「あっ……」
男の自分が見ても羨ましくなるような大きく逞しい手が姉の小さな顔を包み込み、ふたつの影がひとつに重なって……
* * *
「あ゛ーーーーーっ!」
妄想でのたうち回っても珍しいことでもないと徳子は意にも介さない。代わりに小さなため息が聞こえた。
「わたくしが御簾の中で過ごすうちに、お前は大人になっていたのね。まさかお前に出し抜かれる日がくるとは思わなかったわ」
「姉上……」
徳子の入内を推し進める中、いくつかの妨害は徳子の意向だと分かっていた。
「姉上……っ、お許しください! 俺は、我慢できなかったんです! 源の野郎と姉上がなんて……っ!」
「お前は小さい頃から鷹臣様が嫌いだものね。何が気に入らないの?」
それは幼い頃から、姉が彼に対して特別な視線を向けていたからだ。
鷹臣を見つめる熱っぽい目はとても綺麗で、自分も特別な目で見て欲しくて勉強も武芸も頑張った。
努力して上手くできれば誰よりも褒めてくれたが、あの輝く瞳で見てはくれなかった。
少しだけ大人になり、それが恋のときめきであって実弟である自分のものには絶対にならないと理解したときの絶望を姉は知らない。
「対立する家の長男嫌って何が悪いんですか!? 姉上の方が変ですよ! あんな奴のどこがいいんですか!」
理不尽と分かっている。徳子が鷹臣に恋をしたのはまだ家同士の対立など関係のない子供の頃で、幼い初恋を拗らせもとい大切に温めてきただけだ。
「……ご自分というものに満ち溢れたところ。例え左大臣家の嫡男でなかったとしても、あの立派なお姿は変わらないでしょう。身分や財産、そんなものに左右されない魂の柱をお持ちだわ。わたくしたちの生活など、お父様が失脚でもすればあっという間に落ちぶれてしまう儚いもの……。でもあの方なら、例えそうなっても今と変わらぬ態度とお心を保ち続けることでしょう。そのような殿方、他には貴族の中に一人としていらしゃらないわ」
(帝でさえも)
「姉上!」
続く言葉が分かったから、友悠は咄嗟に声を荒げて遮った。
「お言葉を慎みなされませ」
分別のついた官吏としての声が出た。可愛いがちょっと間が抜けた弟の口から出たとは思えない聡明な口調に姉が御簾の向こうで息を飲んだ気配がする。
ここは藤原の館だが、どこに耳目があるか分からないのが貴族社会。下手に脚色されて広まったりしたら今までの努力が水の泡だ。
「姉上にはどうあっても帝に嫁いでいただきます。そして中宮――皇后になっていただきます」
姉には見せたくなかった、この顔。
姉の前ではいつまでも素直でちょっと間抜けな弟として可愛がられていたかったが、友悠は子供の殻を脱ぎ捨てて鷹臣に及ばないながらも渡り合える公達としての顔を初めて見せた。
「地上で最も貴い女性になっていただきます。そうでなければ……」
「そうでなければ?」
どこか不安そうな問いかけに、友悠は答えることができない。
姉が、最愛の姉が他の男のものになるなど我慢ならない。
だが神ならば。天命を受けて地上を治める現人神の妻になるのなら、諦めもつこうというものだ。
姉への想いを断ち切るために寝る間も惜しんで奔走し、生まれて初めての恋情をすり減らしたのだ。
「友悠?」
「姉上は、鷹臣様を諦められないでしょう? 流石の鷹臣様でも、帝と比べられては足元にも及びませんからねえ!」
友悠はわざと子供が意地悪するような言い方で言い放ったが、皮肉気に唇を歪めた顔つきはどうしようもない嫉妬に狂った大人の男のものであった。
自分たちは呪われているのかもしれない。
父か母が、あるいは遠い先祖や前世で、報われぬ愛に身を焦がした人に酷いことをし、今生でその業を償っているのかもしれない。
姉弟揃って愛してはならない人を愛してしまうなど――……
「……そうね」
同意する徳子の声は穏やかだったが、まったく温度がなかった。
「わたくしは後宮で、お前は宮廷で、姉弟揃って帝にお仕えし、右大臣家の栄華のために尽くしていきましょう」
「はい、姉上。万事お任せください」
二か月後、徳子は満開の藤に迎えられて
別名藤壺と呼ばれ、
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