二度目のチャンス

「行ってきまぁす」


 眠たい目を擦りながら、僕は少し早めに家を出た。今日は陸と美術館へ行く日。晴れ渡る空を眺めながら、ゆっくりと駅まで歩いていく。コンクールの結果は、美術館まで見に行かないと分からないらしい。本当は、遥と一緒に見たかった。一緒に喜んだり、悲しんだり、悔しがったりしたかった。だけどこれは僕が招いたことで、後戻りなんて出来ない。胸が締め付けられる感覚に、思わず白いため息を吐く。

 駅に着いても、陸はまだ来ていなかった。駅のベンチに座り、水を飲んで一息つく。ただぼーっと待っているだけでは時間が勿体無いので、陸が来るまでは花壇に咲いた花をスケッチしていた。


「おっすー」

「陸、おはよう」

「良かったな、昨日」

「あ、うん…ありがとうね」

「いいってことよ!」


 陸は自慢げに笑い、僕の隣に勢いよく座った。すぐにスケッチブックを奪い取られる。


「うまっ!これ?この花描いてんの?」

「うん。もういいから行こうか」

「おっけ!そんじゃあ行くかー!」


 僕は陸からスケッチブックを奪取し、先頭を歩いて駅の改札を通った。ドキドキしながら電車に乗ると、約三十分後には目的地に到着してしまった。


「やっぱ電車って速いなぁ」

「ほんとだね」


 徒歩通学の僕たちは電車に乗る機会が少なく、三十分乗るだけでも旅行気分だ。そんなワクワクとした気分のまま改札をくぐり、大通りに出る。目の前には、数週間前にも見た大きな建物が建っている。一本横断歩道を渡れば、入り口はすぐそこだ。


「チケット持って来た?」

「うん、あるよ」


 僕は陸のチケットを受け取り、二人分の受付をした。中に入ると、美術館独特の匂いと雰囲気が僕たちをふんわりと包み込んだ。


「えーっと、受賞作発表は…三階か」

「あそこのエレベーターから行こう」


 僕たちはちょうど降りて来た空のエレベーターに乗り、三階まで昇った。三階には良い思い出が無いのだが、陸が先々行ってしまうので、ただ僕はそれに着いて行く形になった。

 エレベーターを降りて画廊に出ると、目の前には大きなポスターが貼られていた。受賞作発表の案内だ。


「あっちだって」


 僕たちは案内に従い、画廊の奥へと進んだ。突き当たりを曲がると、そこには金色の額縁に飾られた一枚の絵が掛けられていた。その下には、学校名と名前、そして『最優秀賞』と大きく書かれた紙が貼ってある。この距離じゃ名前も学校名も見えない。その上、遥が描いていた絵を僕は見ていない。一歩近づく度に、心臓が動きを速める。口が乾いて仕方がなくて、もはや何も考えられなかった。


『赤木高等学校』

『高畑穂花』

『最 優 秀 賞』


 名前を見て、思わず力が抜けた。隣の陸も、固まっていた表情が緩んだように見えた。


「流石上手いな、最優秀賞は逃したかぁ」

「ほんと、上手だね…」


 細部まで描き込まれた絵に、思わず圧巻されてしまう。澄み渡る青空をベースに街が展開されている。明るくて、燦々とした絵。見ている僕たちの心まで晴らしてくれるようだった。しばらく、その絵に目が釘付けになっていた。


「あっちが続きだ。優秀賞は二つだって」

「そっか…そうだね、行こう」


 恐る恐る足を進め、視線をずらしていく。二つの絵が、銀色の額縁に入れられ、壁に飾られている。手前の絵を見てみる。青空と、田んぼだろうか。青と緑のコントラストが美しい。懐かしさのようなものを感じる絵だった。


『桜高等学校』

『竹田大和』

『優 秀 賞』


 桜高校。一瞬息が詰まる。僕たちが通っている高校が、まさしく桜高校だ。聞いたことのない名前だから、恐らく先輩だろう。すぐ隣にも優秀賞受賞作がかけてあるので、すぐに視線を移す。

 見たことのあるような光景だった。芝生の奥に川が流れていて、太陽の反射で黄色に染まっている。上半分はオレンジ色の空。キャンバスの端は少し暗くて、さらにその先には夜空が広がるのだろうと想像が膨らんだ。僕はその絵に吸い込まれるように見入ってしまった。キラキラと光る水面に、赤い光に照らされる家々。思わず息をのんだ。そこに描かれていたのは、紛れもない、あの河川敷の絵だ。ゆっくりと視線を移し、学校名を見る。


『桜高等学校』

『桜井遥』

『優 秀 賞』


 言葉が出なかった。夢かと疑った。目の前には、遥の名前が書かれている。


「嘘…」

「やったなぁ、優秀賞じゃん」

「しかも、この絵、もしかして」

「河川敷の夕日だな、これ」


 いや、違う。これは夕日じゃない。僕がいつも見ているあの景色とは、どこかが違う。何がどう違うとは言葉では説明出来ないが、ここには確実に違う何かが表現されている気がする。


「夕日じゃないよ、これ」

「え?違うの?」

「うん…僕が好きなあの夕日じゃない」


 陸は首を傾げて絵を凝視する。一部が違うのではなく、全体的に違和感があるのだ。雰囲気的なことで言えば、夕日が落ちる頃のような哀愁や寂しさは感じられず、どちらかといえば生き生きとした、明るい絵に見える。


「一緒に見えるけどなぁ」

「ここって撮影禁止?」

「いや、ここは大丈夫なはず」


 僕は、スマホのカメラを構え、遥の描いた絵と優秀賞の文字を写真に撮った。こんなとこ遥に見られたら、絶交どころの騒ぎじゃ無いかもしれない。


「あ…」

「なに?」


 陸が突然僕の後ろを指さすので、つられて僕も振り返る。

 僕の真後ろには、髪の短い女の子が立っていた。


「え、あっ」


 女の子は少し僕を睨むと、構わず画廊を歩いて行った。引き留めるべきか、分からなかった。陸と二人で、呆然と立ち尽くす。


「遥、だったよね…」

「桜井だな…来てたのか」

「ど、どうしよう」

「うーん…」


 陸は腕を組んで数秒考えると、僕の背中を強めに叩いた。まさかと思い、振り返る。


「追いかけろよ!」

「嘘でしょ?!だって…」

「なんかのチャンスだって!行ってこい!」


 周りからの視線が痛い。陸が大声を出すから、多分遥にも聞かれただろう。そうなったら、もう行くしかないじゃないか。

 僕は消えそうな勇気を振り絞り、画廊を走った。もちろん迷惑になるので全力ではない。それでも、いつも以上に息が切れて苦しかった。

 画廊の隅まで走っても、遥は見当たらなかった。もう別の階へ行ってしまったかもしれない。となれば、もはや探しようが無くなってしまう。遥が見当たらないことをもう一度確認してから、僕はこぼれかけていた涙を袖で拭った。震えていた手が、ゆっくりと感覚を取り戻していく。不安と、悲しさがこみ上げてくる。それなのに、どこか安心してしまっている自分に、腹が立つ。連日のトラブルに心がおかしくなりそうで、僕は走った廊下をゆっくりと戻った。少し歩けば、右手側にトイレがある。少しトイレにこもって、気持ちを整理しよう。

 トイレに入るため、ふらりと右に曲がる。その直後、何かに右足が引っかかってしまった。


「う、わっ」


 体制を戻そうと左足を一歩踏み出すが、右足が突っかかったまま外れず、結局そのまま倒れ込んでしまった。


「いった…もう!」


 苛立っていた僕は、右足に絡まった紐のようなものを強く引っ張った。


「んぐっ」


 誰かが苦しそうな声を上げたので、急いで手を離す。僕が突っかかったものは誰かの鞄の紐で、それは女の子の首に引っかかっていた。肩掛け鞄だったらしい。首を抑えたまま動かない女の子に、咄嗟に謝った。女の子は何も答えず、そっぽを向いたまま。心配になって女の子の髪に触れると、ふわりと甘い香りがした。ドクリと心臓がはねる。ゆっくりと、女の子はこっちに顔を向けた。恐る恐る顔を見る。


「あ…ご、ごめっ」

「何しに来たの!!」


 その女の子は、紛れもなく遥だった。大きな声で怒鳴る遥は、大粒の涙を光らせていた。そのまま僕を睨み続ける遥に、言葉が出なかった。何をどう話していいかも分からず、沈黙の時間が流れる。先に口を開いたのは、遥だった。


「絵になんか興味ないんでしょ、だったらこんなところ来るべきじゃない!」

「違う、聞いて…」

「何写真なんか撮ってんの…私への仕返し?私が最優秀賞取れなかったから?!」

「違うよ…」


 どんどんヒートアップする遥に、手も足も出ない。何を言っても聞いてもらえず、もはや独り言だ。


「どうせまた才能がどうとかって言うんでしょ!そんなに賞が大事なのっ?」

「そ、そんなことないっ」

「私のことなんて何も知らないくせに!!」


 声を振り絞るように放ったその言葉に、デジャブのようなものを感じる。僕も遥に同じようなことを言った記憶がある。遥、こんな複雑な気持ちだったんだ。


「ごめんね、遥…」

「優のことなんかもう知らないよ!私に関わってこないでっ…」


 遥が立ち上がって逃げようとした。僕は咄嗟に遥の腕を掴み、引き留めた。2度目のチャンスを逃すまい。3度目の仲直りをしなければ。


「何…離してよ」

「僕の話を、聞いて欲しい」

「いやだ、離して」

「聞いてくれるまで離さない」


 僕は無理やり遥の手を引いて、美術館の一階まで降りた。抵抗しなかったので、多分そこまで嫌がってはいないだろう。一階には休憩スペースがあり、ベンチがいくつか置いてある。僕は遥をそこに座らせ、その隣に自分も腰をかけた。


「…僕が間違ってた、ごめん」

「何の話してるのか分かんないんだけど」

「ちゃんと、話すから。聞いて欲しい」

「…」


 遥は俯いたままで目を合わせてくれないが、座ったままそこに居てくれている。僕は姿勢を正して、もう一度口を開いた。


「僕の家、父さんが居ないんだ。昔、父さんは絵画を職業にしてた。だけどそれに失敗して、両親が離婚した。それが、小学校低学年の頃。…僕が、絵を辞めた頃」


 必死に頭を回転させ、次の言葉を探す。これほどまでに人に気を遣ったのは初めてかもしれない。


「だから、ずっと母さんに言われてたんだ。僕に絵の才能はない、そんな絵に価値はないって。だから、僕自信が無くなって…」

「だからって、なんで私が責められるの…」


 消え入りそうな声で呟いた遥は、更に俯いてしまった。責めた覚えはない。僕は、あの日美術館で自分が放った言葉を一つも覚えていない。どうしても、思い出せないのだ。


「無責任で自分勝手なことをした。それは自分でも分かってる。」

「何が言いたいの…」

「ごめん…僕、あのとき何て言ったか覚えてないんだ。怒鳴った直後にはもう…」


 遥は両手でワンピースの裾をギュッと握った。僕も胸が締め付けられる。しかし、何度考えても思い出せないのだ。


「私は、ずっと忘れられないのに」

「…ごめん」

「優だけ忘れて、ずるいよ…」


 反論は出来ない。僕はずるくて、情けなくて、自分勝手で無責任だ。


「優はさ…私に、才能がある奴は苦労しなくて羨ましいって言ったんだよ。でも、才能なんか関係ないじゃん…」

「うん、そう思う…僕も」


 遥は袖で目元を擦ると、呼吸を整えるようにゆっくりと息をした。そして、パッとこっちに顔を向けた。


「好きになれたら、それはもう才能だよ」


 悲しそうな目で、そう訴えてきた。そんなこと、初めて言われた。


 僕は心の向くままに、遥の手を握った。


「僕も、そう思う」


 遥は眉間に皺を寄せて、僕の手をギュッと握り返してきた。強い力だった。手が潰れてしまいそうなほど、力強かった。


「ごめん、遥…」


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